第31話 手放したもの
「和希、大丈夫なの……?」
「うん……、大丈夫、酔い止めは飲んだから」
一姫は、背中を擦る絵美に、壊れそうな笑顔を浮かべて答えた。
今日は、学校の社会科見学の日だった。
社会科見学といってもレクリエーションも兼ねており、入学してまだ日が浅い生徒達の交流の場とすることも目的に含まれていた。
スケジュールとしては、午前は牧場で酪農家の仕事を見学、その後、バスで『山上池』まで移動し、レストランで昼休憩。昼休憩後の十三時からは併設されている文化会館で『山上池』周辺の歴史や文化を職員の人から教えてもらい、以後は、自由時間となっている。
お昼少し前の今は『山上池』に向かう途中だった。
一姫は決して乗り物酔いしやすい訳ではなかったが、どうしてから、今日に限って吐き気が止まらなかった。特に、バスが『山上池』がある山に入り出してからは……。
背中を擦ってくれる絵美は、一姫を気遣いながらも、何故か落ち着かない様子で顔を赤くしていた。ぱちっと目が合った時には特に。
(……?)
先日、一姫の家に絵美と累が遊びに来てからというもの、二人の一姫に対する態度は、どこかぎこちない。一姫が他の友達とトイレに行くのを妨害してきたり、一姫が絵美に接近すると距離を取られたり、累はあまりボディタッチをしてこなくなった。
(どうしてだろう? 少し寂しいな)
バスが『山上池』のだだっ広い駐車場に到着し、ようやく一息ついた。
駐車場に降り立ち、湿り気のある新鮮な空気を吸い込むと少し気持ちは楽になった。
(やっぱり、車酔いだったのかな……?)
「少しはよくなった?」
「うん。ありがとう、絵美」
絵美の目を見てお礼を言うと、絵美は怯んだように表情を強ばらせ、頬を赤らめて低く唸った。
「なに唸ってんだよ。威嚇でもしてんのか?」
累がバスから降りてきて、絵美の頭に厚い手の平を置いて、ぐりぐりとかき混ぜた。
「ああ……、どうしよう、累……。私、いつもどんな態度で接していたかしら……」
「落ち着けよ。和希は何も変わってねえだろうが。おめえは意識しすぎなんだって」
近頃、二人は一姫には分からない会話をするため、置いてきぼりの一姫は疎外感を味わっていた。
バスから全生徒が降りてから教師の後についてレストランに向かい、昼休憩を取った。レストランと銘打ってはいるものの、券売機で券を買ってカウンター向こうの割烹着姿のおばちゃんに手渡しするスタイルを見ると、食堂と言った方が正確に思える。
昼休憩後、文化会館でお勉強をしてから、一姫ら生徒達は自由行動が許されて放流された。
一姫は絵美と累と共に、池の周囲を散策することにした。
「和希、無理して付き合う必要ねえぞ? 体調悪ぃなら、レストランで休んでろよ」
「ありがとう、累。でも、大丈夫だから」
先ほどから、累も絵美も心配そうな顔を向けてくる。
もしかしたら、ここが、和希が亡くなった事故現場だから、気を遣っているのかもしれない。
ただ、一姫としては、あまり意識されてもやりにくかった。何しろ、六年も前の事故なのだ。
これが殺人事件であればまた違っただろうが、不慮の事故なのだ。いつまでも、くよくよしても仕方がない。池に罪はないのだ。
(もし、罪人がいるとすれば、それは、和希なんだよ。和希が、和希のせいで死んだんだから)
和希が、ラジコンを落したから、事故が起きた…………。
(……また、吐き気が戻ってきた……)
脂汗を垂らすほどではなかったが、喉奥に苦くて重い塊が残り続けていた。
「そういや、今日は風もないし、晴れてるよな」
青い絵の具をムラなく塗ったような空を見上げて、累は言った。
「風ない晴れた日には、湖面が鏡のようになります……って言ってたよね」
「『姿見の池』、『鏡池』とも呼ぶのだったわね」
先ほどの文化会館の職員の説明を思い出した。
「よっしゃ! ボート乗りに行こうぜ!」
丁度見えてきたボート乗り場を指出して、累ははしゃいだ子供のように言った。
秘密基地のような小さなボート小屋で一艘三十分三百円を支払って、三人で手漕ぎボートに乗り込んだ。
ところどころペンキがはげたボートはあまりに長い時間をここで過ごしてきたようだった。湖の中に生きる魚やプランクトンのように、ボートそのものも湖に生かされている生物の一匹のように感じられた。
累の頼りになる腕力によってボートはぐいぐいと湖の中を進んでいった。
「まあ、鏡といえば鏡なんだけど……」
「湯気で曇った鏡って感じだな」
ボートを止めて湖面を覗いてみるが、ガラスの鏡のような鮮明さはなく、輪郭はぼやけ、カンバスに水をこぼしたようなにじみ方をしていた。
「河童もいるって話だったわよね」
「昔話の類いだろ」
「岩手県の
「おいおい、ほんとにいると思ってんのか?」
「座敷童がいるなら、河童だっていてもおかしくないと思うわよ?」
「そういえば、トゥイクは座敷童と河童は同じものだという説があるって言ってたね」
「なら、尻子玉取られねえように気をつけろよ。へそ隠せ、へそ」
「それはかみなりさま」
さああぁぁぁぁっ。と雨が飛沫を上げた。
雲もない晴れた天気の中の、軽い雨。
狐の嫁入りだ。
「タイミング悪いなあ……。しょうがねえ、ボート戻すぞ」
累がコツを掴み始めた櫂漕ぎで、岸までボートを寄せようとする。
雨を顔に受けて、一姫は、和希の濡れた遺体を思い出した。
あの日も、こんな雨が降りしきっていた。
(和希……)
波紋が湖面に生まれては消え、消えては生まれる。
心が揺れる。
この短い期間の中で、和希の心が揺さぶられる機会は何度もあった。
絵美と、累。
絵美は、一姫のように『若葉の霊』を目撃し、弟の死の責任に押しつぶされそうになりながらも、不屈な精神力を以て、再起した。
累は、好いた人から亡くなった姉にかさねられ、決して報われぬ思いに締め付けられながら、思い人のために自身を殺した。しかし、一度は決めた覚悟を、淡い恋心を、自分ではない他の誰かのために断ちきり、傷だらけになりながらも自分に戻った。
二人とも、強い人だと思った。
一姫は、未だに和希の霊を見る。きっと、和希の死を乗り越えられていないからだと思った。
だから、ここに来る途中も、今も、ストレスで吐き気が止まらないのだ。
弱さの証だ。
これは、断ち切るべき思いだと思った。
一姫は湖面に手を合わせた。
(……私は生きます。私は、和希の双子の妹の一姫だから、あなた分まで生きます。だから、和希は、どうか成仏してください。さようなら、和希)
どぼん――――っ!
「え?」
何か、重い物が落ちたような音がした。
咄嗟に勢いよく振り返るが、累も絵美も、きちんとボートに座っていた。
突風が吹いた。
湖面に荒い波が立ち、勢いよく振り返った一姫は、波の揺れと相まってバランスを崩し、そのまま後ろ向きに、湖へ落ちた。
「和希!」
頭と肩が湖に浸かったが、そこで止まった。
片手を絵美が、一瞬遅れて、累がもう片方の手を掴んで、一姫はボートに引き上げられた。
水を少し飲み込んでしまい、ボートの上で軽く咳き込んだ。
「だ、大丈夫?」
「う、うん……。だ……、大丈夫……」
特段、溺れた訳でも、ボートに体をぶつけたわけでもない。
しかし、どうも、胸が苦しかった。苦しいというよりも、きつい。締め付けられるような感覚があった。
「ったく、しょうがねえ。飛ばすぞ」
「ごめんね、迷惑かけちゃって」
「いいって。謝んなよ」
累は先ほどよりも急いでボートを漕いでくれて、さほど時間もかからずに、岸まで着いた。
濡れた体は風と雨を受けて体温を失っていき、一姫の体は震えが止まらなくなった。
日が照れば体感気温は夏並みに高まる季節であったが、雨が降り、風が吹く山の上では、紅葉の散り際の気候になる。
累と絵美が担任の先生を捕まえて事情を話すと、施設の職員の人に掛け合って、シャワーを使わせてもらえることになった。
「じゃあ、私たち、着替えとタオルをもらってくるから、和希はシャワー浴びてるのよ」
絵美はそう言うと、累と先生と一緒に行ってしまった。
シャワーは職員の人が事務処理をする質素なコンクリート造りの建物内の、奥まったところにあった。小さな洗濯機と洗面台が付いたこじんまりとした脱衣所で制服を脱ぎ、シャワールームに入った。
蛇口を捻って熱いお湯を出して浴び、一姫は自分の体を見て思う。
「うーん……、胸、大きくなったかな?」
いつもパッドをつけているが、もうそれが必要ないくらい大きくなっていた。大きさにしてBといったところだろうか。女子高生としては平均的、しかし、もう少し欲しいと思う物足りなさ。
(そういえば、和葉は何カップなんだろう?)
以前、和葉に聞いて見たことはあったが、これ以上ないというくらい怒られたため、それ以来、聞いたことがなかった。
ブラジャーは正しいサイズのものを付けないと、形が崩れてしまう。今度の休みに、新しいブラジャーを買いに行こうと思った。
簡単にシャワーを済ませて脱衣所に出たが、まだ着替えがないことに気がついた。
すると、タイミングよく扉が開いて、絵美が入ってきた。
「きゃっ! ご、ごめんなさい……、もう、上がってた……」
絵美は扉を閉めかけたが、再度、扉を開け放った。
「え……?」
「おい、絵美、何やってんだよ。そんなに和希の体が見たい……」
後ろから、累が覗いてきて、言葉を詰まらせた。
体を隠すものを持っていない一姫は、両手で以てBカップと秘所を隠した。
「な、何……? なんで、そんなにじろじろ見るの……? 面白いものなんて付いてないよ?」
累は絵美の脇を通ってずかずかと脱衣所に入り込むと、一姫の手を取って、膨らんだ胸と秘所をまじまじと見つめた。
「え、ええー。なんでそんなに見るの? 同性とはいえ、流石に恥ずかしいよ?」
累は愕然とした表情で絵美へと振り返り、叫んだ。
「か、和希が女になってやがる――――ッッ‼⁉」
「元から女だよ!」
その日の帰り、自分はそんなに女子に見えないのかと、一姫は真剣に悩みながらバスに揺られた。
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