第30話 大好きで大っ嫌い

 時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。

 そう思いながら、和葉はマグカップのココアを啜った。


 リビングのテーブル席に座るのは三人だけ。和葉、絵美、累。

 和希は部屋に一人残してきている。絵美と累と和葉が三人だけで話をすると、三人一丸となって和希を説得したためである。流石に、鬼気迫る友達二人と和葉のごり押しに勝てなかったと見える。

 絵美と累は、目の前に出されたコーヒーに手も付けず、先ほどの光景を自分なりに消化しているようだった。


「見間違いだろ」

 口火を切ったのは累だったが、現実を認められない暗い気持ちが込められていた。

「いいえ、ちゃんと、あったわ」

「……でもよ、あんなに小っこいんだったら、あってもなくても変わらなくね?」

「変わるわよ!」

「変わります!」

 累の現実逃避じみた発言に、絵美と和葉はほぼ同時に否定の言葉を発した。


「じょ、冗談だって。そう、冗談……、ああ……、くそ、あっちは冗談じゃねえのかぁー」

「……あの、本当に、ごめんなさい……」

 和葉は深々と頭を下げた。

 あまりに、軽率だった。


 言葉だけの説明では到底信じられないのは当然であったが、だからといって、何の事前通告もなしに、男性のアジアゾウを証拠代わりに見せつけるのは、いくらなんでも暴力的だった。

 花の女子高生、しかも年上相手に。一人に至っては、同じ空手道場の先輩である。


「えっと……、確認なんだけど、一姫は、妹の方の一姫ではないのよね?」

「はい。和希は兄の方の和希です」

「女装癖がある……という訳ではないのよね? わざわざ、妹さんの名前を名乗って生活をしているのだから」

 絵美が探るように聞いてきた。


「そう、ですね。そもそも、事故で亡くなったのは一姫お姉ちゃん……妹の方ですね。ですので、今の和希は、亡くなった一姫お姉ちゃんの演技をしながら生活をしています。亡くなったのは兄の和希であって、妹の一姫は生きているんだと、思い込んでいます。要するに、精神的な病気なんです」

「……自分を死者にかさねている、か。阿遅あぢ志清しき高日子たかひこねのかみみたい。いえ、あれは、あめのわか日子ひこの父母から、かさねられたんだったわね……」

「……自分からかさねようが、他人からかさねられようが、どっちにしろ、あまりいいもんじゃねえよ」

 累はそう言ってコーヒーを啜った。


「しっかし、絵美よぉ、おめえ、よく簡単に受け入れられるな。私より女子女子してるあいつが男だったなんて、私は未だに信じられねえぞ」

 きっと、累の反応が当然なのだろう。それに比べると、絵美は少々素直すぎる気がした。

「私は知り合って間もないし、それに……、疑うきっかけは、あったから」

「なんだよ、それ」

「前に、見たのよ。この家……『遠野家』のお墓の墓誌に、妹の一姫の名前があったのを」


「……いつ見たんだよ、そんなん」

「前に、優真の遺体探しを手伝ってくれたでしょ?」 

「ああ、そういや、墓地に行ったって言ってたな」

「ええ。もっとも、流石にあの時は見間違いだと思ったけど……」

 見間違え。確かに、そう考える方が、常識的かもしれない。

 クラスの友達が、亡くなった妹を演じている可能性より、自分の見間違いを疑う方が普通だろう。


「……なんか、思い返すと、思い当たる節がボロボロ出てくるな。あいつ、水泳の授業は全部休んでたし、体育で着替える時も手術の痕がどうとかで別室で着替えてたし……、あと、女子の保健体育も不参加だったな。それに、パッド付けてるし」

「それで、核心的なところを、聞いてもいいかしら?」

(来た……)

 こうなったからには、話さない訳にはいかない。


「どうして、彼は、妹の一姫として生活をしているの?」

 和希が、一姫お姉ちゃんを演ずることとなった理由。

 しかし、この期に及んで、和葉は話すことを躊躇った。

 この話は、家族の恥に当たる。妹が亡くなった事実に耐えきれず、兄が亡くなった妹を演じている話など、他人に語り聞かせたい話ではない。

(いや、違うか……)


 恥だから、語りたくないのではない。

 言葉にすることで、それが覆りようのない事実であると、再認することが嫌なのだ。

 覆りもせず、矯正もできず、六年もの間続いてきたことだと、再認したくない。


(でも、もう、抱え込むのも、疲れたな……)

 話してしまった方が、楽になる。


 和葉は特段決心を固めることもなく、ぽつぽつと自棄のように語った。

『山上池』での事故から始まり、和希が見たという一姫の幽霊の話、病院でいつの間にか一姫を演じるようになったこと、その理由に関するカウンセラーの見解。

 語ってしまうと、案外、あっさりとした内容だった。とは言っても、所詮この内容は、和葉がトゥイクから聞いた話であり、当時六歳だった和葉の記憶は曖昧だ。

 しかし、幼い子供だったからこそ、和希は変わってしまったのだと、強く理解できた。もう、幼い和葉が慕っていた和希お兄ちゃんはいないのだと、理解してしまった。


(幼い頃に、強く意識してしまったからこそ、今の和希は受け入れられない)

 絵美と累は、果たして受け入れられるだろうか。


「……妹の死の責任に耐え切れなかった、か」

「あくまでも、カウンセラーの見解ですけどね」

「分かる気がするわ。彼の気持ち……」

「そう、ですか……?」

 和葉には分からなかった。


 和葉は、一姫お姉ちゃんと和希お兄ちゃんの二人を、一度に失った悲しみに心を奪われ、心の波が落ち着いた時期にはもう、一姫を演じる兄が家に戻ってきたのだ。

 幼いながら嫌悪感を抱き、同情の入り込む余地など、どこにもなかった。

「兄妹の死の原因が自分に合って、延々と自分を責め続け、遂には、死んだはずの兄妹が幽霊として現れる……。私にも、彼のように逃げ出せる抜け穴があったなら……、そう、なっていたかもしれない……」

 絵美の語りはあまりに切実で、どこか和希と自分自身を重ねている節があった。


「つってもよ、ちょっと無理があるんじゃねえのか?」

 三年間、和希と友達であった累は、未だに受け入れられないのか否定的な態度でそう言った。

「自分と妹をかさねているって言っても、性別からして違うから、まず体の作りが違う。服とか食いもんの好みだとか、性格だって違うはずだ。記憶だって、全部共有している訳じゃねえだろ。いくら双子で似ているって言っても、死んだはずの妹が自分なんです、なんて思い込むには、矛盾が多すぎるだろ」


「そうね。大体、お風呂とかトイレとか、自分が男だって自覚する機会なんて、日常生活の中でいくらでもあるはずだし……。彼の中で、それはどう処理されているのかしら?」

「……あまり、常識的に考えない方がいいですよ? こんなの、芋から取れるアルコールでゼロ戦を飛ばそうとか、竹槍でB29を落とそうとか、そういう妄想の類いに過ぎないなんです。物事を理性的に捉え、考え、思える精神状態じゃない……。都合の悪いことは、都合良く解釈してしまえるんです」


 精神的な逃避行の果てに行き着いた先こそ、死者の演技なのだから。

 それが安定した精神状態であると言えるはずがなかった。


「ただ、それでも、和希は自分で自分の矛盾に感づいている節はあって、それが、元の自分に戻る糸口になるんじゃないかって、カウンセラーの先生は言っていました」

「そういえば……、そうね、確かに、自分の行動を自覚しているようなことは言っていたわ」

 絵美も思い当たる出来事があったのか頷いていた。

「……私らに、なんかできること、あんのか……?」

「……今までのように、一緒に居ることくらいかしら……」

 和葉は思う。


(絶交しても、おかしくないことなのに、この人達は……)

 なんて和希は、友達に恵まれているのだろう。それとも、和希には彼女たちのような人たちから好かれるだけの、何かがあるのだろうか。

 和希をできるだけ遠ざけようと接してきたこの六年間。

 それでも、和希は、和葉のために色々と世話を焼いてきた。朝は早く夜は遅いアイティに変わってご飯を作り、部活で遅くなると迎えに来てくれ、部屋を掃除してくれ、何度も買い物に付き合って荷物を持ってくれ、少し様子が変だと直ぐ気遣ってくれていた。


(いつも、大好きだって、しつこいくらい、言ってくれたっけ……)

 和希の優しさが、絵美や累にも向けられていたのであれば、それが先ほどの、彼女たちの言葉に繋がっているのだろう。


「お二人は……、和希のことが、好きなんですね……」

「……和葉ちゃんは……、和希のことが、嫌いなの……?」

 和葉の言葉の意図をどう捉えたのか、絵美は遠慮がちに問いかけてきた。


 嫌いだ。と口にしかけて、絵美の言う和希とは一体誰のことか、和葉は少し考えた。

 そして、結論した。

「……大好きです。和希お兄ちゃんも、一姫お姉ちゃんも、大好きなんです。だから……、今の和希は……、大っ嫌いです」


 今でも、和希に、和希お兄ちゃんだった頃の面影を見ることはある。

 その面影が、和希の優しさの正体だとすれば、和葉はそれすらも邪険にしていたことになる。


 一方的に嫌い、遠ざけてきた。

 和葉の和希に対する願いは、和希お兄ちゃんに戻って欲しい。ただそれだけだ。

 であればこそ、


(和希お兄ちゃんのために、何か、できること、あるのかな……)

 家族のために、何かをしてあげたかった。

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