第27話 兄の恋路?
「和葉。はい、味見~」
「……」
昨夜の喧嘩をたった一晩で過去に置き去りにした兄――和希がフォークに刺したドーナッツのひとかけらを和葉に差し出してきた。
「あ~ん」
(ウザい……。ウザすぎる)
長年一緒に過ごしている妹の身ではあるが、正直、毎日の和希の絡みには辟易していた。
(昨日、あんなに喧嘩したのに……)
昨夜は我ながら酷いこと……、そう、確か『のっぺらぼう』扱いまでしたはずだが、和希はまるで堪えていないようだった。
堪えていないどころか、喧嘩そのものがなかったかのように接してくる。
(脳内お花畑か? トリカブトでも生えて毒が回ってんじゃないの?)
一発、ぽかり、とその頭を殴ることができればどんなに気持ち良いか。しかし、きっと後で罪悪感に耐えかねて謝りに行くことは目に見えているので、潔く諦めることにした。
諦めついでに、差し出されたドーナッツも諦めて、和希が持ったフォークからぱくりと口に運んだ。
揚げたてのドーナッツは温かく、噛むとほろほろと崩れ、どこかおもちゃのような甘さが広がったと思うと、後味を残して喉の奥へと引っ込んだ。
専門店で食べるような洗練された味ではなかったが、手作りらしいぶきっちょな食感に安心感を覚えた。
氷を入れた牛乳と一緒に、丸々一つくらいなら食べてもいいかなと思った。
「おいしい?」
「……まあ、うん……」
いつの間にか目の前まで迫っていた和希の顔から身を引きつつ、和葉は答えた。
「よかった。じゃあ、はい、和葉の分ね」
和希は、ドーナッツを二個、取り皿に分けて和葉の手に押しつけると、残りを大きめの平皿に移していった。
(手作りドーナッツとか、料理ができるアピールをしたい相手でもいるのか?)
十時半に友達が遊びに来るからと、日曜日の朝から甘ったるい匂いをぷんぷんさせてドーナッツ作りをしていた和希は、さてさて、とそろそろ来るであろう友達を待ち受けるべく、最終調整に取りかかった。
「おやつ、よし。ジュース、よし。クッションは部屋に人数分、よし。他に何か、用意するものあったかな?」
冷蔵庫から牛乳を取り出していた和葉は、和希を見て顔をしかめた。
「エプロン姿のまま出迎えるの?」
「あっ……、そうだった」
和希が束ねていた髪のヘアゴムとエプロンを外すと、私服姿が露わになった。
ゆったりとした白のニットにデニムのガウチョパンツを履いた兄の格好は、実に春らしい。
一方で和葉は、黒のファースリーブのトップスにデニムのショートパンツという出立ち。
(ちょいちょい被ってるのがむかつく)
色こそ白と黒とで対照的だが、トップスのゆったり加減や、パンツの素材は一致している。
そんな細かいことにいちいち腹を立てても仕方がないと頭を振って、氷を入れたコップに牛乳を注ぎ入れる。
和葉が牛乳のコップとドーナッツの皿を持って、リビングのソファに腰を下ろしたタイミングで呼び鈴が鳴り、和希が小走りで玄関へ向かった。
まるで、野生を失った野良猫が主人の帰りを出迎えるようだと和葉は思った。
(和希の場合、失ったのは『自分自身』だけど……)
玄関の扉が開閉される音と、女子二人に加えて和希の話し声が、リビングの扉越しに聞こえてきた。
(また、女友達か……)
和葉はドーナッツを食べながら、ドグダミを生のまま噛んだような顔をした。
女友達そのものは問題ではない。問題は、彼女たちからの好意にある。
和希は少なくとも社会的には女子としての生活を送っているにも関わらず、女子から告白を受けることがあった。和葉が知っているだけでも、三年間の中学校生活の中で、二人の女子から告白を受けているはずだ。
あのウザい和希のどこを見て、恋愛感情としての好意を抱くのか、和葉にはさっぱり理解できなかった。
第一、それは良いことではない。
万が一にでも和希が告白を受け入れてしまい、体の関係という意味で、もしものことが起こってしまったら、大問題となる。
いざコトに及ぼうという時に、ないはずのアジアゾウとご対面、なんて日には百年の恋も冷めるどころの話ではない。
(血を見ることになる……)
このまま和希の状態が続くようなら、いっそのこと、和希のアジアゾウをちょん切ってしまった方がよいのではないだろうか……とも、一瞬思ったが、そうなってしまえば、和希は二度と、和希お兄ちゃんに戻れなくなる。
なればこそ、事情を知る数少ない一人として、兄の恋路を妨害することは、妹の勤めと言っても過言ではないだろう。
リビングの向こうから三人分の足音が通り過ぎ、少ししてから、和希がリビングまで降りてきて、ドーナッツの皿とジュースを持って二階に登っていったのを見計らって、和葉も動き始めた。
(今日来る友達は、累さんの他に、もう一人いるらしいけど、誰なんだろう……?)
高校生になってから新しくできた友達らしいが、トゥイクもその人のことを知っているとのことだった。何か事件があって、解決の一助になったらしいが、詳しくは知らない。
(累さんはともかく、その新しい友達が、和希に恋愛的な意味で好感を持っていないか確かめておいた方がいいか。逆に和希が……という線もあり得るし)
二階に登り、和葉の部屋の向かいに位置する和希の部屋の扉の前まで行き、耳を近づける。
(部屋が隣なら楽なのに)
心の中で文句を言いながら、和希の友人関係を会話から探ろうと、耳を澄ませて扉の向こうの声を聞いた。
『絵美、ごめんね。本当は、和葉を紹介しようと思ったんだけど、和葉が嫌がってね』
和希が絵美という人に謝罪する声が聞こえた。
(絵美……? そうか。その人が新しくひっかけた女友達か)
『妹からすれば、姉の友達を紹介されても困ると思うけど……、もしかして姉妹の間柄ってこういうものなのかしら?』
『どうだろうな。私と松ねぇは仲良かったから、普通に紹介されてたけどな。一姫と和葉の距離感も、姉妹としては普通なんじゃねえか?』
和葉がクラスメイトから聞いた話では、兄・姉というのは年齢が上がるについて段々と素っ気なくなるものらしいが、和希の場合、高校生になってもこの調子なので、ウザさは衰えを知らない。
『そうだ!』
和希が名案を思いついたと言わんばかりの声色で言った。
『せっかくだから、アルバム見せよっか? 和葉のかわいい子供時代の写真がたくさんあるんだよ』
(なんだと?)
『いいわね。一姫の小さい頃の写真も見てみたいし』
(どうして肯定する)
和葉は動揺した。
我が儘に見境がない幼少期の自分など、正直、目を覆いたくなるような羞恥に満ちた思い出であるため、赤の他人には見られたくないものだった。
泣き疲れて部屋の隅で芋虫になった写真や、絵の具で部屋をアートにした写真や、『我が体に恥じ入るところ無し』と言わんばかりの裸体のまま瓶牛乳を力強く飲んでいる写真……などと思い返して見ると、馬鹿な子供だったなと思う。
『えっとねえ……、あ、これなんてかわいいよ。和葉がおもらし……』
馬鹿は血筋であるらしいと、和希の発言でもって理解した和葉は、気がつくと和希の部屋に飛び込んでいた。
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