第22話 リストカット
「累を、否定しないでください!」
感情が沸騰し、叫びという震えとなって発露された。
「累はちょっと男勝りで腕っ節も強くて、言動も乱暴なところがあるけど、かわいいものも好きで、好きな人のために自分を変えようとする健気なところもある、一人の人間なんです。累は自分を偽ってまで、あなたの傷を癒やすために努力している。そんな累を、どうしてあなたは認めてくれないんですか! 誰よりも、あなたが認めてあげないと……、累が……、かわいそうです。あまりに、報われない……」
「何を言っているんだい? 累なんて人いないよ。松だよ。今は松の話をしているんだ」
一姫の叫びに間髪入れずに返答した護の答えに、一姫は歯ぎしりした。
「累は累だ! 松さんじゃない! 人の友達を、いなかったことにするな!!」
それは、リストカットに似ていた。
自身の発した言葉は、刃となって一姫の胸の内を裂き、生温かい血液がぬるりと垂れた。
カミソリの切れ味の理由も分からないまま、一姫は無理矢理に目を逸らし、目の前の護を睨んだ。
隣に座っていた絵美は鞄を肩にかけて立ち上がった。
「一姫の言うとおりです。累は累です。私も、あなたのために自分の友達を失いたくはないので、今の話は丁重にお断りさせていただきます」
一姫と絵美の態度を受けて、護は困った顔をした。
「ええー? 困ったなあ。どうにもこうにも話が噛み合っていない気がするよ?」
護のとぼけた態度に、一姫の隣にいた絵美から湯気が立つような怒りがわき上がるのを一姫は見た。
「あなたは……!」
「ああっ! もう、クソッタレ!」
突然、カウンターに座っていた名も知らない女性が、乱暴な言葉使いで叫んで立ち上がった。
くるりと、優雅にこちらを振り返った女性は――累だった。
「累……」
隣の絵美がぼそりと呟いた。
頭にはハンチングベレー帽をちょこんと乗せ、赤と黒のチェックのスカートの下からは黒のタイツが艶めかしく足を彩り、足下をシックなハイヒールが飾っていた。
累はツカツカと一姫たちのテーブル席まで近づくと、テーブルの隅に置かれた伝票をついっと手に取った。
「悪ぃな、護にぃ。もう止めだ。やっぱ私、松ねぇにはなれねえや」
かわいらしい格好をした累は、やはりかわいらしく、にこりと笑った。
「護にぃのことは好きさ。恋人同士になれれば、そりゃあ、幸せだと思うけどよ、護にぃは、今でも松ねぇのこと忘れられねえだろ?」
「……何を言っているんだい、松?」
「……ほらな、やっぱそうだ」
累は財布を取り出して、千円札を二枚テーブルに置いた。
「護にぃは、私を私として見てくれねえけど、私を累として扱ってくれる友達がいる。それなのに、私が私を否定しちゃ、その友達に悪ぃからよ、これでお仕舞いだ。悪ぃな」
護は累の言葉を理解できないのか、ぽかんとした表情のまま累を見つめていた。
「ほら! いくぞ!」
累は一姫と絵美に向かって、そう言うと、カウンター向こうのマスターに声をかけた。
「おやっさん! ここに勘定置いておくぜ!」
「おうおうおう、やっとこさ騒がしいのが帰るのかい!」
「安心しな。まぁた、騒ぎに来てやるよ」
累はマスターにそう残して、店を出て行った。遅れて一姫と絵美も追って出た。
しばらく、三人とも無言だったが、沈黙に耐えかねたのか、累は勢いよく振り返ると、両手を広げて一姫たちに勢いよく覆い被さってきた。
「わふっ!」
「きゃあっ!」
一姫と絵美は、二人で悲鳴を上げて累に襲われた。
累の太い腕が一姫と絵美の肩に回され、累の顔は、二人の間に収まって、埋もれて、その表情は確認できなかった。
「ああー、なんだ、その…………」
一姫からすると今朝ぶりに言い淀んだ累は、耳まで赤くして、小さく呟いた。
「ありがとな。なんか、吹っ切れたわ」
素直に感謝を口にする累の態度に、一姫と絵美は顔を見合わせて、累の頭越しに笑い合った。
「あらあら、いつもそれくらい素直なら可愛げがあるのだけどね」
「うんうん。累はやっぱりかわいいよね」
「ああー! くそ! だから言いたくなかったんだよ!」
累は思い切り顔を上げて一姫たちから離れると、照れくさそうに頭を掻いた。
「でも、本当に良かったの? 累は、護さんのこと……」
一姫がそこまで言った辺りで、累の太い指が唇に押しつけられた。
「いいんだよ、これで。大体な、我ながら……未練たらしいにも、程がある」
累は一姫から指を離すと、両手を頭の後ろに組んで、道路を渡って『玉浜』を一望できる堤防に手を付いた。
「この浜辺はさ、思い出の場所なんだよ。私と松ねぇと護にぃの」
夕日になりかけの太陽は、しぶとく青空へしがみつき、一姫たちを照らしていた。
「小さい頃から、よくボランティアに呼ばれて、ここのゴミ拾いをしてさ。そのご褒美に、あそこの喫茶店でパフェとかパンケーキとか食べるのが好きだった」
『玉浜』は潮流の関係でゴミが行き着きやすく、今でも地元のボランティア団体が定期的にゴミ拾いを企画していたはずだ。
「土曜日にな、護にぃが、私に空手を辞めて欲しいって頼んで来たんだ。それを断ったら、親か友達が、首を縦に振ったら辞めろって言ってきた。それで、護にぃが説得するなら、行きつけの喫茶店だろうと踏んで待ち伏せしてたんだが……、あそこまで、護にぃが私を意識してないとは、思ってなかった」
「……期待、してたのね、累は。もしかしたら、自分と一緒にいることで、松さんではなく、自分のことを意識してくれるんじゃないかって、期待した」
「そういうことだ。でもよ、まさかあそこまでとは思わねえじゃねえか。あれはもう、病気の一種だ。私の好きだった護にぃは、もう……、いねえ……。こうなったら、私がいねえ方が、護にぃのためさ」
そう言って、累は笑った。
恋を知らない一姫にとって、累の決断がどれだけのものか知る由もないが、その笑顔は、優真くんの遺体を見つけた絵美の苦しみ方に似ていた。
しぶとかった太陽が夕日に変わり、逢魔が時がやってきた。
その時である。
『累』
誰かが、累を呼ぶ声が聞こえた。
防波堤の向こう側、浜辺の方に、一人の女性が立っているのが見えた。
累によく似た女性。
髪をショートカットにした女性。
橙色の夕日を浴びた女性は、まるで実態がないように薄く透明であった。
「……松ねぇ……?」
累が松と呼んだその女性は、まさしく累が言っていた松の容姿にそっくりであった。
その女性は、緩慢な動作で腕を上げて、南の方角を指さした。
「松ねぇ!」
累は防波堤の小さな階段を降りて浜辺に出ると、一直線にその女性に駆け寄った。
しかし、駆け寄った瞬間に、女性は最初からいなかったかのように消えてしまった。
累の背中まで追いついた一姫と絵美は、少しを息を切らして、女性が立っていた場所を見ると、はっきりと靴の跡が残っているのを見た。
両足の靴の跡だけ。歩いてきた足跡は、累と一姫と絵美の三人のものしか残っていない。
「……み、見たよな? 今の?」
累が恐る恐るといった様子で、振り返った。
「松さんの……幽霊……?」
一姫は松さんが指さした方角を見ると、遠いところに二階建ての大きな施設が建っているのが見えた。
それは、町内の海浜植物園の施設だった。
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