第21話 一途な心

 男女の関係を言い現した格言はいくらでもある上、ちょっと首を回すと、先ほど目にした内容とは反対のことが書かれているという具合なので、何が正しいのかは、結局のところ、自身の経験によって結論するしかないだろうと思われた。

 まして、恋人の一人もできたことのない十五歳の身ともなれば、累と護との関係に、安易に口出しすべきではないのではないか。


 そう一姫が考えていた矢先のこと、一姫と絵美の二人は、護から誘われて喫茶店に来ていた。

「ここはね、俺が子供の頃からよく来てた喫茶店なんだ。松ともよくここに来てデートしたなあ。あ、マスター! 俺はいつものね! さ、二人も好きなの頼んでよ。ここは俺の奢りだから。ちなみに、俺のオススメはコロンビアかな。もちろん、苦いのが苦手なら、カフェラテもいいし、なんだったら、ケーキとかパフェとか甘い物を頼んでもいいよ。松も苦いのが苦手でね、あまーい苺パフェとミルクたっぷりのカフェラテを頼んでたなあ。そうそう、ここの苺パフェは苺がてっぺんに乗っててね、苺ソースまでかかってて……」


 喫茶店は「生まれた時からこんなんですわ」と言いたげな昭和レトロな雰囲気だった。

 ちゃちで古びたステンドグラスが丸窓にはめ込まれていたり、革張りのソファから綿が飛び出していたり、天井から落ちた水滴のようなボール型の照明から淡いオレンジの光が溢れていたり……。

 果汁たっぷりの若者が行くようなオシャレなカフェというよりも、壮年の人が一息つくための憩いの場所のように感じた。


 一姫と絵美は、その喫茶店の四人席に腰を下ろしていた。

 目の前にいるのは、護ただ一人。

 累はいない。

 累は学校が終わると同時に、用事があると言ってさっさと帰ってしまった。空手の練習かとも思ったが、今日は空手は休みだと和葉が言っていたのでそれはないだろうが……。


 ともあれ、累が先に帰宅し、掃除当番を終わらせた一姫と絵美は、帰宅しようと共に校門を潜ると、彼、護に出会った。

 出会った、のではなく、待ち伏せされていた、というのが正しいだろうか。

 護の用事は累ではなく、一姫と絵美、二人にあるらしかった。

 そうして、一姫と絵美は護の行きつけの喫茶店で、彼と向かい合っていた。

 窓からは、『玉浜』と呼ばれる町内唯一の浜辺から海が見えて、景色が良かった。


「あいよ、コロンビア。カフェラテは……、ツインテールのお嬢さんね。ブレンドはパツキンのお嬢さんね」

 スキンヘッドのマスターが、しゃがれた声でひとカップずつコーヒーを置いていった。


「にしても、護ちゃんが来るのも久しぶりじゃないの」

 マスターがお盆を脇に抱え込みつつ、腕を組んで護に話しかけた。

「ドイツに留学してたからね」

「累ちゃんは、今でもよく来るけどね。おっちゃんの話し相手になってくれるのさ。まあ、近頃……、いや、ここ数日は逆に累ちゃんの話を俺が聞く側だけどね」

「へえ、その累って子、よく来るんだね」

「……まあ、いいや。久しぶりに来たんだ。ゆっくりしていきな。お嬢ちゃんたちもね」


 無精髭を厚い指でなぞりながら言うと、マスターはカウンターの向こう側にひょこひょこと引っ込んでいった。

 客は一姫たち三人を除くと、マスターの対面にいるカウンター席の女性一人だけ。果たして採算は取れるのだろうかと、一姫は心配になった。


「それで、私たちに何のご用でしょうか」

 口火を切ったのは絵美だった。

 あまり友好的ではない口調は、累の現状を気にしてのことだろうか。

「その前にひとつ確認だけど、二人は松の友達、ということでいいよね?」

「あなたの言う松が、身長百七十センチ越えの大柄で、空手と筋肉が大好きな女子高生を指しているのであれば、その通りです」

 絵美が説明する累の人物像が妙に偏っているのは、まだ付き合いが短いからだろう。一姫なら加えて、『かわいいもの好きな上に、実はこっそり少女漫画を読んでいる純情可憐な少女』という説明を付け加えるだろう。


「そう、それだよ」

 真っ白な陶磁器のカップを受け皿に置いて、護は言った。

「人物像は正に彼女だし、君たちにお願いしたいこともそれなんだよ」

「それとは?」

「空手だよ、空手。今日、君たちにお願いしたいことは、松に空手を止めるよう説得してくれないか、ということだよ」


 護の言葉を受けて、彼と二人の間に沈黙という名の時間的空白が生まれた。

「空手を止めるよう説得って……、どうしてですか?」

 思わぬ護の発言に、一姫は質問した。

「何故も何もないよ。松に空手なんて似合わないさ。というより、女性が武道を学ぶなんて、そもそもナンセンスだと思わないかい? 女性は女性らしくあるべきさ。あんなに筋肉でバキバキになって、手もごつごつで、見ていられないよ」


 一姫は胸の内側に、黒いヘドロのような波が泡立つ感触を味わった。

「親父も親父さ。女の子に空手を教えるなんて、何を考えているんだろう。女の子はさ、運動なんて健康のために無理をしすぎない程度に留めるべきなんだよ。太りすぎも痩せすぎもよくないけど、筋肉の付けすぎもよくないだろう? だからあんなに男勝りな性格になっちゃうのさ。女性はね、お淑やかで、温厚で、大人しいくらいが丁度いいのさ」

 護の偏見に満ちた女性観を聞いて、絵美が不快そうな表情を作った。『男らしさ』とか『女らしさ』とか、誰かの生き方を他人が強制することに対して、一姫も絵美同様に思うところがあった。


「……少なくとも、今の彼女は、あなたが望むようなお淑やかさと温厚さは兼ね備えているかと思いますが?」

 朝に一姫が累を動揺させて乱れはしたものの、それから先は朝一番に邂逅した時の口調と態度で累は過ごしていた。

 今までの累とは、まるで別人の女性だった。


「土曜日に、俺が自らああいう立ち振る舞いを教えたからね。でも、未だに、空手は続けている。それじゃあ駄目だ。女性らしくない。乱暴な格闘技を学ぶ女性が美しいだなんて、俺は思えない。第一、今の世の中、格闘技を習って何になるんだい? 下手に自分は強いんだという自尊心が芽生えて、暴力に頼る前時代的な不良を作るだけに終わるんじゃないかい?」

(……止めて欲しい)

「松の顔が良いことは認めるよ。体のラインも綺麗さ。でも、美しくない」

(美しくない……? 不良……?)

「だから、君たちに辞めるよう説得して欲しいんだ。無論、報酬は出すよ。ね? 頼むよ」

(そんなこと、ないのに……)


 ふと、一姫は、道場の真ん中で一心不乱に練習を重ねる累の姿を思い出した。

 あれは、夜遅く、和葉が空手道場に入った最初の時期、まだ一姫が和葉を迎えに道場まで足を運んでいた頃だ。その後直ぐに、和葉から怒濤の反抗をもらって迎えは止めたが、そうなる前に何度か、累の練習風景を見た。


 道着姿で粒の大きい汗を飛ばしながら、空手の形を幾度となく繰り返し、一人きりで練習を重ねる姿。

 とっぷりと日が暮れて、不安な闇が街を沈めても、無機質な明かりの下で自身だけを見つめて鍛錬する姿。

 何度となく足を止め、心惹かれた。

 まるで、ひたむきさを体現した姿だった。

 その背後にこそ、累の美しさはあった。


 だがしかし、累のそれは、自覚されたものでも、意識的に作り出されたものでもなかった。

 好いたものを一途に想った結果だった。

 好いた人がいたから空手道場に通い、空手が好きだから真摯に鍛錬に打ち込み、安田先生を尊敬していたから、辛くても挫けずに空手を続けた。


 累の美しさは、ひとえに好きなものを追い続けた結果だ。

 累のその美しい花は、彼女の一途で真っ直ぐな気持ちの裏に隠れていたものだった。

 累はそれを、好きな人――護さんのために、表に出した。


(それなのに……、それなのに……)

 護は、累の上辺しか見ず、美しい花の土壌となったその想いを否定した。

 気がつくと、一姫は立ち上がっていた。

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