第13話 かくれんぼの続き

「ま、待って!」

 呆気に取られていた三人の中で、市原が、いの一番に反応を見せ、襖を開け放った。


 隣の部屋、不釣り合いに大きな介護用ベッドと両開きのずっしりとした仏壇が置かれた座敷。

 そこには誰もいなかった。線香とヤニの匂いが漂い、陽光を浴びて埃の舞い上がりがうっすらと見えるだけだった。


「お、おい、なんだ、ありゃあ? 本当に幽霊か?」と累が困惑した様子で言った。

 一姫は無意識の内に立ち上がり、呆然と立ち尽くす市原の肩を叩いた。

「探そう。多分、この部屋だよ」

 根拠のない確信めいたものがあった。

 第三者を納得させることのできない非論理的な予感に過ぎなかったが、先の体験を共有した三人の中では、これ以上なく納得のできる妙なる感覚であった。


 しかし、探すと言っても、隣の座敷は広くない。

 順当に、子供が隠れられそうな押し入れから探すことにした。襖の丸い取っ手を引いて押し入れを開けっぴろげにすると、中の布団を外に出し始めた。

「にしても、この部屋、なんつーか、臭くねえか?」

 累は布団を軽々と持ち上げながら、空港のバッグを嗅ぐ麻薬犬のように鼻を鳴らした。


「祖母が使っていた部屋なのよ。祖母はずっと煙草を吸っていたし、介護が必要になってからはオムツを取り替えたり、後は、仏壇があるから線香を焚いたり、色々と匂いが染みついちゃっているのよ」

 さほど時間はかからず布団を出し終えたが、特に手掛かりになりそうなものは見つからなかった。

「ここじゃねえなら、一体どこ探せばいいんだよ」

 押し入れの中に四つん這いになって入っていた累が、こちらを振り返りながら言った。

「そんなこと言われても、押し入れくらいしか……」

 市原の声が小さくなると、代わりに木の板が軋む不吉な音がした。


「うお……! やべ――ッ!」

 押し入れに入っていた累が方向転換して出ようとすると同時に、板が割れる音が響いた。胸に刺さるような鋭く響く音だった。

「……悪ぃ。床、割れちまった」

「累……。また筋肉ついた?」

「『また太った?』みたいな声色で聞くんじゃねえよ! 筋肉つくことはいいことだろ!」

 何事にも限度はあると一姫は思った。体重だけで床を割る筋肉量とは如何なるものか。


「いいわよ。どこもかしこもガタが来ている家だもの」

「悪かったよ。ああ、くそ、姿勢が悪くて足が抜けねえ」

「ほら、累。引っ張ってあげるから、腕出しなよ」

 累を引っ張り上げ――重かったため市原の協力を得た。むろん口には出さず視線だけで助けを求めた。『おおきなかぶ』もかくやである――、割れた床板に目をやると、床板には明らかに人工的な綺麗な小さ目の穴が開けられていた。指に引っかけて板自体を引き上げられそうな穴。


 一姫は興味本位にそれに指をかけて引き上げると、正方形型の割れた床板が持ち上がり、人一人が通れそうな穴が現れた。

 むわり――――。

 むせかえりそうな臭気を受けた。涙が出そうになると同時に、胸に去来したのは、形のない恐怖だった。咄嗟に口と鼻を両手で覆った。


 床板を開けて直ぐ下は、家屋の床下に繋がっているはずだが、床と地面の間に何かがつまった袋のようなものが挟まり密閉状態になっていた。地面には大きな穴が開いており、その先に降りるためにか、古い木製の梯子がついていた。

(子供の頃……、持ち上げた石の下からゲジゲジが出てきたことがあったけど、あの時の生理的な恐怖に似ている……)

 世界の裏側――、まるで黄泉の国に繋がっていると思わせるような、仄暗い虚の穴だった。


「おい……、なんだ、その薄気味悪ぃ穴はよ」

 累が一姫の肩越しに穴を覗いてきた。

「……防空待避所」

 一姫の隣まで来て、穴を覗き込んだ市原が言った。

「昔、祖母が、戦時中に床下に掘った防空待避所があったって話していたわ。祖父がとっくに埋めたって話していたけど……、埋めてなかったんだわ」


「防空壕じゃねえのかよ?」

「空襲が始まった最初の頃は、防空壕に避難していたらしいけど、防空法改正後は、空襲から逃げずに焼夷弾が落ちたら直ぐ消化するように通達されたらしいわ。防空待避所は、一時的に身を隠すだけで、逃げないで火を消すための出動場所なんだって。でも、実際は、燃えている中、上に登るなんて到底不可能で、多くの人がこの中で亡くなったそうよ」

 黄泉の穴だ。自ら下る、死の梯子だ。悲惨の痕だ。


「ここだわ。きっと、この中よ」

「こんな気持ち悪いところに六歳のガキが入るかよ?」

「男の子って秘密基地とか大好きだから、入ってもおかしくないと思うよ」

 和希も蜘蛛の巣が張った藪に囲まれた小さな空間を秘密基地だと言い張って、ピクニックシートを敷いたりして遊び場にしていたことを思い出した。そのくらいの歳の子供に、綺麗とか汚いとか、そういうことで怯む価値観はない。

「……」

 市原は無言で立ち上がると座敷を出て行った。


「……なんだ、あいつ……?」

 二分ほどで戻ってくると、手には縄とペンライトを持っていた。

「おいおいおいおい、まさか潜る気じゃねえだろうな?」

「私が、見つけないといけないのよ」

「止めとけよ。ガスとか溜まってるかもしれねえし、酸素なくて窒息したらどうすんだよ。実際、そういう事故って珍しくねえじゃねえか」

「だって……」

 市原の顔がぐしゃりと歪んだ。彼女の瞳は、ここではないどこか遠い過去を見るような影を湛えていた。

「だって……、まだ……、私が、鬼だから……。見つけてあげないと……、あの子……、いつまで、経っても……」


 ぽろぽろと、市原の目から涙が溢れていた。

 六歳の弟が、こんな暗い闇の、冷たい土の下で、誰にも見つけてもらえないまま亡くなったとすれば、それはどれだけ寂しいことだっただろう。

 もし、自分がかくれんぼに付き合ってあげれば。

 そう、市原が自問自答したのは、想像に難くなかった。


『もぉ、いぃーよぉー!』


 虚の穴から、透明な声が響いてきた。

 恐ろしくもあり、哀しくもある、急かすような、催促の声。

 一姫は市原の手から縄を取って、彼女の腰に巻き始めた。

「あ、こら、一姫まで……! くそっ! 分かったよ、行くなら行け! だが言っておくが、三分だけだそ。三分で戻ってこなかったら無理矢理引き上げるからな!」

 市原は制服の袖で涙を拭って、深く頷いた。

 生理的に受け付けない嫌な臭いが漂う穴の中に、細身の小さな市原の体がどんどん潜っていった。


「……大丈夫かよ、あいつ」

 縄をゆるく握りながら、累は呟いた。

「累って、なんだかんだで優しいよね」

「茶化すなよ」

 累のこういう頼りがいのある優しさが、一姫にとって居心地の良いものだった。

 少しずつ短くなって行っていた縄の動きが止まり、数秒後、絶叫が響き渡った。


『ああああああああ――――ッッ!!!!』

 痛烈な叫び声は、穴の中から、市原のものだった。

「おい! どうした!」

 累の叫びに市原は答えず、ずるずると体を引きずるように梯子を登って出てきた。

 穴から這い上がった市原の顔は真っ青で、ところどころが土で汚れ、体が震えていた。


「うっ……うう……ああぁぁ」

 苦しそうに片手で胸を押さえながら、もう片方の手は猫のように爪を立てて畳みを引っ掻いていた。

「ぃ、いた……」

「……優真くん?」

「…ぅん。ゆ、優真の、服と……、ほ、骨が……。子供の、小さい、骨が……、うああぁぁ」

 その苦しみ方は、あまりに痛ましかった。


 精神的な苦痛に、辛さに、市原は耐えられず、みっともなく涙と鼻水を垂らしながら、畳みを爪で掻いて、制服をぐしゃりと握りしめて……、一姫はそれを見て体が震え、鳥肌が立った。

(……羨ましい……)

 どうして、そう思った。

 苦しみ、痛み、嘆き、涙する人を前にして、抱く感情では決してないはずなのに、一姫はただただ羨ましかった。

 あまりに場違いな想いを抱いたことに、一姫は強烈な羞恥を感じた。


『あ! 見つかった!』

 嬉しげな澄明な男の子の声が、後ろから挙がった。

 振り返ると、その子はいた。

 梁の上にいた男の子。

 かくれんぼをしていた男の子。

 虚の穴で亡くなった『若葉の霊』。

 得意げな顔で立っていたその子は、おもむろに駆け出すと縁側から庭に飛び出した。


「ま、待って……!」

 市原は必死な顔で立ち上がると、男の子を追いかけた。

 思わず、一姫も後を追った。

 男の子は庭を出て、小さな木の門を通って道路に出た。市原も縁側から外に出て、靴下のままその子を追いかけた。


「あ、おい、一姫! ど、どうすんだよ!」

「あっ……、累は……、えっと、け、警察呼んで待ってて! 直ぐ戻るから!」

 一姫は庭に出っぱなしになっていた古ぼけたサンダルを履いて、もう一足を手で掴んで、市原を追いかけ始めた。

 通りすがりの中学生や買い物帰りの近所のおばさんなどの視線を受けて走り、一姫はトゥイクから聞いた話を思い出していた。


 境界となる空間は、生死と関わりを持っている。

 人の霊魂は死後四十九日は屋根や軒端に留まる伝承は一般的であり、葬式の際に縁側から棺を出すのは死者との縁切りだという習俗もある。これを逆手に取って、嫁に行く時は座敷の縁側から出て、再び家に戻ってこなくて済むようにする婚姻習俗も存在する。


(縁側から出ていった優真くんは、きっと、もう家には戻ってこない……)

 だからこそ、これが、彼との最期のお別れになる。

 瓦を被った土塀の脇を走って行くと、男の子――優真くんは扉が開かれた寺院の門を潜り、舗装された道を走り、鎮座するいくつもの墓石の前を通り過ぎていった。

 そして、寺院墓地の一番奥まった位置にある一つの墓石に、吸い込まれるように消えた。


 息を乱しながら墓の前に行くと、市原が同じく息を切らしながら、その前にへたり込んでいた。酷く、悲しそうな顔をしていた。

 手入れの行き届いた墓石には『市原家』と刻まれていた。

「不思議……」

 一滴ずつ水を落とすように、小さく、少しずつ、市原は呟き始めた。

「お墓に、優真の骨はないし、お盆くらいしか来たことなかったのに、一直線にここまで走って来て……」

 市原は這って墓石の前まで行くと、その表面を優しく撫でた。

「ごめんね……、ずっと、見つけてあげられなくて……。いつか、私も、ここに来るから。そしたら、また一緒に、かくれんぼしようね……」


 柔らかい風が吹いた。

 離れた位置に生えたシダレヤナギの巨木が、風に揺れて葉の擦れる音を立てた。

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