第10話 トゥイクはお喋りが好き

「なんで行くって言っちゃったのかしら……」

「うん? 何か言った? 市原さん」

「なんでもないわ。行きましょう」


 一姫は市原を連れ立って、東明大学の正門を潜った。

 東明大学は高校から電車で四本先にあり、比較的郊外に建っている。大戦の空襲を生き延びた煉瓦造りの書庫や、平屋の白い壁をした木造の校舎や、赤錆びて廃墟じみたサークル棟など、奥に行けば行くほど目に楽しい建物が並んでいる。


 正面から入って直ぐの時計がついた土色の講堂を通り過ぎると、蔦が絡まって半ば呑まれつつある巨大な古びた建物に行き着く。赤煉瓦造りのどっしりとした二階建ての建物は、窓が白い木の枠で囲まれ、入り口がアーチ状になっている。

 中に入って学生たちの視線を浴びつつ、二階の奥まった研究室を扉の窓から覗くと、トゥイクが学生と混ざってお喋りをしていた。


 トゥイクが覗いている一姫に気がついて、扉を開けた。

「いやあ、和希くんが俺を頼ってくるなんて随分久しぶりだなあ。数年前に、和葉ちゃんから蛇蝎のごとく嫌われて相談してきた時以来じゃないの?」

 トゥイクには事前に連絡を入れていたので、快く出迎えてくれた。トゥイクの後ろで研究室の学生たちが、興味津々という感じにこちらを覗いていた。


「ごめんね、トゥイク。仕事があるのに」

「いいさ。まあ、教授には後でぐちぐち言われるけど、いつものことだし。あの婆さん恐えんだもんなあ。もう七十なのに全然元気だし。ありゃもう妖怪だな、妖怪」

「妖怪……」と市原が意味深に呟いた。

「おや、もしかして、そちらが例の座敷童に会ったお嬢さん?」


「初めまして、市原絵美と申します。この度は、お時間を取っていただき、ありがとうございます」

 丁寧過ぎるほどの言葉遣いで市原はトゥイクに頭を下げた。

「おや、丁寧。でも、そんな他人行儀にされると話しにくいなあ。もっと雑でいいよ」

「雑でいい、ですか……」

「そっ。俺の生き方みたいに」

「……」


(市原さんが反応に困ってる!)

「市原さん。トゥイクと付き合うコツは、話の半分はスルーすることだよ」

「それ、これから話を聞こうとする人の態度なの?」


「ああ、いいのいいの。教授や学生にもよくスルーされるから。駄洒落言った時とかは特にね。『玉藻の前の賜物たまものだ』とか『崇徳すとく天皇、酢溶くの?』とか『ぬえって服縫える?』とか『一反いったん木綿もめん、一旦揉め……」

「じゃあ、トゥイク、たしか構内にカフェテラスがあったから、そこで話していい?」


 駄洒落が一つ投下される度に、市原の目の光が薄くなっていったため、一姫はトゥイクをスルーして話を進めた。

「こんな感じ。こんな距離感でいいのさ」

「よく分かりました」

「じゃあ、行こっか」


 廊下を歩きながら、お喋りなトゥイクは飽きることなく口を動かし続けた。

「そういえば、累ちゃんはどうしたの? 今日は一緒じゃないのかい?」

「累は空手で忙しいから、道場に行ってるよ。安田先生、厳しいからね」

「そういや、一回練習サボったら、怒られなかった代わりに三日間口利いてくれなかったって言ってたね。ボコボコにされるより辛かったって」

「累は安田先生を父親みたいに慕ってるから」


「家族以外に尊敬できる人がいるってのは良いことさ。和希くんも俺のこと尊敬していいんだぜ?」

「尊敬してるよ? たまにイラッとするけど、それも家族なら普通だよね」

「それほんとに尊敬してる?」

「……仲、良いんですね」

 校舎を出たところで、市原が後ろから控えめに言った。


「そう? まあ、和希くんの母親は俺の姉さんで、仲良し姉弟だから。日本にいる唯一の家族だし。しかも、二人して日本贔屓! サウナが少ないのは残念だけど」

「ほんと、トゥイクはサウナ好きだよね」

「サウナってフィンランド語なんだぜ? フィンランド人はみんなサウナが大好きなのさ」


 トゥイクのサウナトークが長々と始まったところで、一姫と市原は相槌を打つだけになり、やがてカフェテラスに辿り着いた。トゥイクがコーヒーを買ってくれて、三人でオープンテラスの木製のテーブルと椅子まで行って席についた。


「サウナもそうだけど、フィンランド人は大のコーヒー好きで、フィンランドのコーヒーの消費量は世界一位なんだ。労働法でコーヒーブレイクは必ず入れるように定められていて、一日に十杯も飲む人も……」


「それでトゥイク、市原さんの相談なんだけどね」

「おっと、そうだった」とトゥイクは啜っていたコーヒーを置いた。「電話で和希くんから話は聞いていたけど、なんでも座敷童が出るんだって?」

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