第7話 尾張の纐纈

 一姫は玄関まで行って重厚な扉を開けて来客を出迎えると、見知った友達の姿があった。


「よう、一姫。悪いな筋トレ中のところ」

「いや、みんながみんな、家に帰ったら筋トレをしていると思わないで欲しいかな」

 名前は、纐纈こうけつるい。中学校から高校までずっと同じクラスで、一番付き合いの長い友達だった。


 百七十三センチの身長に広く逞しい肩幅、先日まで中学生だったとは思えないほど筋肉隆々な体躯、厚く荒れた手の平、ギラギラと鋭い眼光、後ろに流した短い黒髪。全国中学生空手道選手権大会、女子個人で形、組手共に三連覇を果たし、審査委員会をして、恐るべき中学生と言わしめた女の子。


 中学校では『尾張の纐纈』と、格好良いような恥ずかしいような二つ名で呼ばれていた。

 名付けの元は、今昔物語で怪力を持った女が登場する『尾張の国の女、細畳を取り返す語』から。クラスの男子が冗談半分で呼び出すと、異様にしっくりきたため妙に広がってしまい、累を知らない他校の人でも、その異名と空手の強さだけは知っているという、奇妙な状況になってしまった。

 お陰で高校に入ってから、累が噂の『尾張の纐纈』だと知ったクラスメイトが、無駄に累を怖がっているという悲しい現状が生まれている。


 しかし、一姫にとっては一番の友達だった。

「和葉が道場に体育袋忘れてたから、届けに来たんだよ」

「わざわざごめんね」

 一姫は累に差し出された赤布の膨らんだ袋を受け取った。

「なあに、どうせ帰り道だ」


 累と和葉は同じ空手道場に通っているが、累の練習内容は他の子とは異なるらしく、同じ道場でもこうして帰宅時間に差異が生まれる。中学生と高校生でも、また内容が異なるのだろう。

「和葉は道場ではどう? うまくやれてる?」

 中学に入ってから、つまりつい最近、道場に入った和葉を心配して一姫は質問をした。和葉は割と毒を吐くため、クラスメイトや道場の子たちとうまくコミュニケーションを取れているのか、虐められていないか、いやむしろ虐めていないか、一姫は過度に心配していた。


「心配ねえって。他の連中とも仲良いし、筋も中々だ。安心しとけ。いずれは私みたいに筋肉もつくし、腕も上がるさ。安田先生を信じな」

「うーん。累みたいな筋肉隆々な和葉はちょっと嫌かな」

「一姫はもうちっと筋肉つけた方がいいぞ? なんだ? この細っこい白腕は」

 累は一姫の手首を掴むと、魚の内臓を食べたような顔をした。


「やべえな。私が摘まんだだけで折れそうだ」

「骨ってそんな簡単に折れるんだっけ?」

「試してみっか!」

「友達の腕は握力計じゃないよ?」

 以前、林檎を片手で潰せると実践して見せてくれたことを思い出して恐くなった。


「ところで、一姫さ」

 累は一姫の腕から手を離すと、人差し指で一姫のお腹を一つ突っついた。力は入れておらず、くすぐったいくらいだった。

「お前、なんか悩んでるだろ」

「……さっき、トゥイクと和葉にも似たようなこと言われたな。そんなに顔に出てる?」

「分かりやすすぎて、無視するのが忍びないほどだ」

「そこまでなんだ……」


 ものすごく気を遣われている。

「……じゃあ、ちょっと、相談してもいい?」

「今更そんな気ィ遣う仲でもでもねえだろ」

 すごく男らしくて、格好良いと思った。


 一姫は学校の昇降口で会った市原のこと、彼女が落としたお金とその時の言葉を伝え、そのことについて、切り込んで事情を尋ねてみるべきか打ち明けた。

「ふうん。市原絵美ね。なんだか、頭の良さそうな名前だな」

 頭の悪そうな感想だと思ったが、口には出さなかった。

「頭悪そうな感想だと思っただろ?」

「私の顔って、口よりお喋りなんだね」

「嘘でも否定しろよ!」


 この歳になって知った、割と衝撃的な事実だった。

「よし! そんじゃま、明日にでも、その市原って奴に事情聞いてみようぜ」

「いや、事情を聞くか聞かないかで悩んでたんだけど」

「嫌がられたら撤退すればいいだけの話じゃねえか。おめえは細けえことで悩み過ぎなんだよ。和葉にはなんの遠慮もしねえくせに」

「和葉は妹だからね」


「うるせえ。もう決まりだ。決定事項だ。内閣にだって覆せねえ」

「分かったよ……。じゃあ、明日、一緒に聞きに行こう」

 こうなった累を止められるのは、道場の安田先生の張り手くらいだ。

 しかし、累のこうした強引な態度は一姫にとって好ましいものだった。

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