第6話 和葉はかわいい

「和葉!」

 一姫がスーパーでの買い物の後で家路につこうと、自宅までの道のりを歩いていると、空手の練習を終えて帰宅する和葉の背中を見つけた。中学校のセーラー服を着た後ろ姿。後ろの小さめのポニーテイルが歩く度に揺れている。


(やっぱり私の妹はかわいい!)

 身内贔屓という自覚はあったものの、一姫の妹への愛慕は止まらない。街灯が並ぶ住宅街とはいえ薄暗い夜道を、まだ中学校に上がったばかりの妹を一人寂しく帰らせたくないという思いの芽生えが、一姫を小走りにさせた。

 和葉は隣に並んだ一姫を横目でちらりと確認すると、視線を戻して、むすっと黙りこくったまま歩みを進めた。


「和葉、夜道は危ないから、お姉ちゃんと手を繋ごっか」

 一姫の愛慕は止まらない。

「絶っ対に、嫌」

 力強く拒絶された。


「そんな和葉に歌を贈りましょう」

 一姫の言葉に和葉は怪訝な表情を浮かべて視線を向けてきた。

「『春されば、心の弾みつきたりて、うべも深まる、姉妹仲』」

 とこれみよがしに自作の歌を詠む一姫。

「……『世の中にたえて、和希なかりせば、春の心はのどけからまし』」

 と在原ありわらの業平なりひらの歌を改変して返歌する和葉。


「え。それ酷くない?」

 直訳すると、もしこの世に一姫がいなければ春はのどかに過ごせるのに、となる。

「……ごめん。ちょっと、言い過ぎた……かも」

 殊勝に和葉が謝ると、一姫はこれみよがしににっこりとした。

 和葉がしまったという顔をしたが、一姫はお構いなしに和葉にくっついて頭を撫でた。


「和葉はいい子だねえ。かわいいねえ。自慢の妹だなあ」

「ああ、もう! そういうことするから、和希のことが嫌いなの!」

「でも私は、和葉のことが大好きだよ」

 一姫の怯みのない揺るがない答えに、和葉は言葉に詰まって一歩後ずさりした。

「……ああ! もう! 勝手に言ってろ!」

「うん。勝手にするよ」

 一姫は和葉の手を勝手に取ると、機嫌良く家路を歩いた。


 諦めた和葉は「これだから、和希は……」とぶつぶつ呟いていた。

 自宅に着くと既に明かりがついていた。アイティは遅くなると連絡がきていたので、トゥイクが来ているのだろう。

 アイティは朝は早く夜は遅いため、平日は中々顔を合わせない。そんな家庭の事情があるためか、トゥイクは頻繁に家に来て一緒にいてくれる。しかし、三十路半ばの独身男性が、姉の家庭にかかりきりでいいものかと、若干気がかりな姪であった。


 玄関から中に入りリビングまで行くと、トゥイクがソファに寝そべってホチキスで留められた書類を読んでいた。

「おかえり、二人とも。相変わらず遅いね。叔父さん待ちくたびれちゃったよ」

「……トゥイクってよく来るけど、暇なの?」

 一姫も若干思っていたことを、和葉は歯に衣着せない言葉でざっくりと刺し込んだ。


「おいおい、そんな軽く言うけど、暇は贅沢なんだぜ」

「暇が、贅沢?」

「何にも縛られず、何をしてもいい時間が作れるってのは究極の贅沢さ。しかも、今の時代、何をするかの選択肢だって豊富にある。十八世紀初期の江戸時代の農村じゃ、年間二十日から三十日の休みしかなかったらしいよ。当時の休みには、農休日の『休み日』と祭礼のための『遊び日』の二種類があって、いつ休みにするのかは各村が独自に決めていたんだ。十八世紀後半には休みも増えて、八十日以上の地域もあったらしい。どうして江戸時代の後半になってからこんなにも休みが増えたのかというと……」

「で、暇なの?」


 トゥイクの講義が本格化する前に、和葉が話をぶった切ってそう聞いた。

「まさか。今もこうして、ちゃんと偉い先生方の論文に目を通していたところさ」

「自分のアパートでやれば?」

「寂しいこと言うなあ。和希くんは歓迎してくれるだろ?」

「うん。もちろん。でも、トゥイク。仕事もいいけど、いい加減、恋人の一人でも作ればいいと思うな」

「おおう。姉さんみたいなこと言うね」

「見た目は格好いいのに、どうしてモテないんだろうね?」

「性格の問題じゃない?」

「なんだろう、この兄妹。叔父さんに冷たくない?」


 いつもの距離感でトゥイクと話しながら、一姫は対面式キッチンの冷蔵庫に、買ってきた食材を詰め込み始めた。

「ちなみに和葉ちゃん、俺の性格のどこに問題があると思う?」

 トゥイクがまた答えにくい質問をしてきた。

 和葉は少し考えてから指を立てて口を開いた。

「トゥイクの話とかけまして無能な上司と解く」

「その心は?」と一姫は合いの手を入れた。

「分かった!」


トゥイクはぱちんっと指を鳴らした。

「どちらも『長いもの』だろう?」

「……」

 得意げに和葉の言葉を奪い取ったトゥイクに、若干イラッとした。

「いやあ、うまいねえ。『長い物には巻かれろ』と『無用の長物』、二つの『長いもの』がかかっているのかあ。あれ? 俺の話って長い上に役に立たないの?」

「……そういうところだから」と和葉はトゥイクを指さした。

「え? 何が?」


 なんとなく、トゥイクにいい人ができない理由が分かった気がした一姫であった。

「そういう和葉ちゃんには、気になる人とかはいないのかい? もう中学生なんだから、クラスに一人くらい気になる男の子がいてもおかしくはないだろう?」

「別に私は……」

「和葉にはまだ早い!」


 何か言いかけた和葉を遮って、一姫は力強く否定した。

「せめて高校……ううん、成人するまでは恋人は作らなくていい。うん、絶対その方がいい。中学で恋人を作っても、その相手と結婚するなんて希だしね。高校でだって同じだよ。だったら、例え灰色の学校生活を送ることになろうとも、恋人は作らない方がいい。大丈夫。和葉の交際相手はお姉ちゃんがしっかり見つけてあげるから。だからそれまでは、恋人を作ろうなんて絶っっ対思わないように!」

 無茶なことを言っている自覚はあったが、この際、多少大げさにしてでも和葉の恋愛事情に首を突っ込んだ方が、間違いは防げるのではないかと一姫は思った。


「……そういうところだから」と和葉は一姫を指さした。

「え? 何が?」

 指さされた一姫は、和葉にしかめっ面を向けられる理由が分からずに困惑した。

「なるほどね。子供の反抗期が酷くなるのは、身内が過度に干渉しすぎるからなんだね。いやあ、勉強になったよ」


 過度な干渉。トゥイクの何気ない言葉に、一姫の心臓が跳ねた。

「勉強しても、その知識を使う機会がなければ意味ないでしょ」

「中学生らしい意見どうも」

「……含みのある言い方」

「邪推するねえ。いいねえ。反抗期だねえ。中学生らしくなってきたねえ」


 棘のあるじゃれ合いをする二人から外れて、一姫はリビングに置いたバッグに視線を移した。

バッグには昇降口で拾った五万円が入っていた。明日一番で市原に返そうと考えて持って帰ってしまったが、大金であることを考えると先生に預けた方がよかったかもしれない。


 しかし、先生に預けてしまうと、市原にお金を返す時に事情を聞こうとするだろう。市原のあの言葉の真意は分からなかったが、先生とはいえ、入学して日が浅く信頼関係も築けていない相手から、明らかに深く重そうな事情を尋ねられるのは、嫌だろうと考えた。

 それくらいなら、既に多少でも関わってしまった一姫から返した方がいいと思った。


 何も聞かず、何も知らないまま、何も干渉せず。

 それが一番、当たり障りがない。

 しかし、

『私のじゃないから……』

 五万円という大金、その所有の否定、悪意ある噂。

(何も知らないってことは、ない)

 だから、知ってしまったのであれば、見て見ぬふりは嫌だと思い、ほんの少し、切り込んでみようかとも思ったが、これは、過度な干渉なのかもしれなくて……、


「……和希、どうかした?」

「え?」

「なんか、悩んでるって顔してるよね」

 和葉とトゥイク、二人から気を遣うような顔を向けられた。

「悩みごとなら相談に乗るよ? なあに、こう見えて、恋愛相談はお手の物だから」

「いや、恋愛相談ではないんだけど……」

「大体、トゥイクに恋愛相談って、セックスレスに悩んでる男が童貞に相談するようなもんじゃん」


 中学一年生女子の発言に、一姫とトゥイクはそろって唖然とした。

「か、和葉、年頃の女の子がそんなこと言っちゃいけません」

「そんなことって、何が?」

「だ、だから……、その……、セッ……とか……」


 一姫が口ごもりながら言うと、和葉は鼻で笑った。

「ええ? よく聞こえなーい。もう一度、はっきりと、大きな声で言ってくださーい。わん・もあ・ぷりーず」

 わざと煽るように言う和葉に、一姫は更に口ごもった。

 一姫が困っていると、丁度いいタイミングで来客を告げる呼び鈴が鳴った。

「あ、あー、お客さんだから出迎えなくっちゃ」


 これ幸いとリビングを出て行く一姫の後ろから、

「っち。逃げたか」

 と乱暴に舌打ちをする和葉の声が聞こえた。

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