二 そして私は若葉の霊に会った

第5話 限定された富のイメージ

 限定された富のイメージ。

 土地、財産、地位、名誉、健康、安全、愛情、友情といった、人生において望ましい事柄はすべて限定された量しかなく、その上いつも不足しており、それを増加させることもできない。そのため、特定個人が何かを得ると、他の人が犠牲となり、それが多すぎれば、全体にすら影響を及ぼす。


 アメリカの社会人類学者であるフォスターが、農民の行動・思想を理解するために打ち出した理論だというが、

「つまり、俺がいつも節制した生活を送っているのは、姉さんや君たちが得られる富を減らさないためなんだよ」

 和葉に貧乏性を指摘されたトゥイクが、その理論を用いて言い訳をするのは非常に苦しいと一姫は思った。トゥイクはもちろん農民ではなく、文化人類学を専攻とする大学の講師だ。


 トゥイクは日本の文化と歴史に魅入られて、日本の大学に入学したが、両親には反対されていたため、一ユーロの援助も得られず、大学生活の四年間は貧しさに喘いでいたという。大学卒業と共に、姉であるアイティ――ルミが日本人男性と結婚したのを気に、両親とも仲直りしたが、そのまま大学に留まって、今では講師を務めている。


 もう生活に困るような金銭事情ではないはずだったが、それでもやはり、トゥイクは細々とした節制生活を送っている。四年もの間、『贅沢は敵』を信条として染みついた生活習慣は、そう簡単には変えられないそうだ。

「欲しがりません、結婚するまでは。だよ」とトゥイクは言う。

 基となった言葉を口にした日本が贅沢できたのは、果たして何年後のことだっただろう。


(奇跡の復興と言われたはずだけれど、トゥイクの結婚も奇跡が起きないとできないのかな? 奇跡の結婚! 奇跡が起きますように!)

 と一姫は一人神頼み。


 結婚はともかく、トゥイクの話を思い出したのは、きっかけがあったからだった。

 始まりは、高校の一日の授業が終わった放課後のことだった。

 高校に入学してからというもの、情熱溢れる保健教員から度々呼び出しを受けてはカウンセリングを受けさせられていた一姫は、今日も今日とて、保健室に顔を出し終えて、さてあとは帰るだけ、という運びだった。


 一姫は今でも通院しているため、病院でも学校でもカウンセリングを受けさせられるのには辟易した。自覚症状は皆無であったが、周りは一姫を何か重大な病気に罹っているかのように扱うため、不安にもなる。


 昇降口まで歩き、整然と並ぶ下駄箱が見えてくると、突風が吹いた。

 入り口から風が吹き込むと、誰もいないと思っていた昇降口の下駄箱の影から、

「あっ!」

 と女の子が小さく叫ぶ声が聞こえた。


 同時に、紙幣が舞った。

 見間違いかとも思ったが、風が止んで、空中をひらりと舞う長方形の紙を見るとそれは紛れもなく、日本銀行が発券している銀行券の一種、一万円札だった。一枚きりではなく、何枚も、春の桜の花びらが散るように舞っていた。


 下駄箱の影から、長い髪を後頭部の高いところで二つ結んだ、背の低い女の子が現れた。

 その子は慌てて紙幣を拾い始めたと思うと、一姫に気がついて体を硬直させた。


「手伝うよ」

 一姫はその子の近くまで行ってしゃがみ込むと、紙幣を拾い集めるのを手伝った。

 しかし、その子は勢いよく立ち上がり、拾ったはずの紙幣を床に落とした。

「私のじゃないわ……」

「……え?」

「私のじゃないから……」

 強ばった顔をして、その子は回れ右をして立ち去ってしまった。昇降口の向こう側に消える背中を見つめて、一姫はどうしようかと思い、一先ずは紙幣をかき集めた。


 紙幣は全部で五枚、五万円もあった。高校生のお小遣いにしては多すぎるし、例え社会人でも、キャッシュレスが一般化しているこの時代、これだけのお金を普段から持ち歩くことはあまりないだろうと思った。

 一姫は、アイティの実家があるフィンランドの首都、ヘルシンキまでの片道切符を買えるこのお金をどうすれば良いのか考えあぐねた。


 先ほどの女の子は、一姫のクラスで見覚えがあった。

 確か名前は、市原絵美。

 市原不動産という、最近はCMでも名前を聞くようになった、この辺りでは名の知れた不動産屋の娘だと聞いたことがある。一姫は噂話をあまり好まないものの、学校という小さなコミュニティに属していれば、好むと好まないに関わらず、噂というのは耳に入ってくる。


 曰く、市原絵美という人間は、お金を持っていることを人に見せびらかす趣味があると。

 中学校に入ってから、市原の教科書やノートやファイルからお札が落ちてくる出来事が頻発したらしい。頻発、ということは一度や二度ではなく、何度も。そのため、市原はわざとお金を鞄に潜ませて自分の家がお金持ちであることをアピールしているという噂が立った。


 あくまでも噂。しかし、お金は確かに鞄に入っていた。とはいえ……。

「あの態度は……」

 到底、お金持ちをアピールしたいようには見えなかった。そもそも、誰もいない昇降口でアピールも何もない。実際には一姫がいた訳だが、市原の位置からは見えなかっただろう。


 裸の一万円札の束を握って考えていると、帰宅を急かすチャイムが鳴った。

「……明日、返せばいっか」

 一姫はバッグの奥にお札の束を突っ込んで、靴を履き替えて校舎を出た。

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