第4話 誰が死んだのか
それから、和希は何度か同じような体験をした。
いつも水の落ちる音から始まり、手首を掴まれ、ベッドの下に引きずり込まれそうになった。まるでそれは、水の中に――池に引きずり込もうとしているかのようで、死んだ一姫が和希を責め立てているように感じた。
夜は決して眠れず、電気をつけた部屋で、ベッドの中央に体育座りをして、朝がくるのを待つ日々が続いた。食事もろくに喉を通らず、小学校にも通えず、いつしか和希は病院に入院していた。
病院は街の郊外に建っていて、周りは田んぼばかりだった。和希に割り当てられた部屋にはベッドがなく、畳みに敷いた布団で眠るように言われた。
病院の中でも和希がいたところは、子供ばかりだった。多くが和希と同じ小学生くらいの子供で、変な子ばかりだった。
今まで他の子と遊んでいたのに突然前触れもなく泣き出す子もいたし、看護師や他の子に話しかけられても一言も話さないでずっと絵ばかり描いている子もいたし、一日中トイレに籠もって食事も摂ろうとしない子もいた。
そういう和希も、夜は一人では決して眠れなかったし、ベッドではなく布団でなくてはならなかった。それに、雨が降ると心が落ち着かなくなり、本を読んでいたり他の子と遊んでいても、ぼうっと呆然とすることが多かった。
一姫のことは考えないようにしていた。
それでも、雨が降った夜には、池で溺れる一姫の声や土の上に寝そべる一姫の姿が思い出されて、ふいに泣き出してしまうことがあった。それは悲しみではなく、恐怖で……。
しかし、寂しくはなかった。
週末になるとアイティが和葉を連れて遊びにきてくれたし、たまにトゥイクも一緒に来てくれた。小学校の友達と遊べないのは残念だったが、ここもそんなに悪くないと思い始めていた。
「和希くん。髪、切らない? ずいぶんと伸びたでしょ?」
ある日、なじみとなった看護師――通子がそう言って、看護師がいないと入ることができないお風呂場で髪を切ってくれた。
病院には不思議と、和希のような子供が入ってもいい部屋には鏡がなかった。鏡があるこのお風呂場も、普段和希が入っているお風呂場とは別の場所だった。
髪を切ってもらいながら、そういえば、鏡以外にもないものが多いと思った。はさみとかカッターとか画鋲とかもない。ポスターとか子供が描いた絵とかを飾る時もテープで壁に貼ったりと、なんだか変な病院だと和希は思った。
鏡の前の椅子に座ると、和希は不思議な心持ちになった。
「金色で綺麗な髪ね。お母さんゆずりかしら?」
通子がそう言いながら散髪ケープを被せてくれている中、和希はずっと鏡を見ていた。
(あれ……? 一姫がいる……?)
金色の髪を肩口で揺らした一姫。青みがかった灰色の瞳をした一姫。真っ白で綺麗な肌をした一姫。すべて和希が知っている一姫が、そこにいた。
(ここに一姫がいるなら、あの日、池で溺れたのは……?)
そういえばあの日、アイティや、かずきを池から引き上げてくれた職員の人は、和希だと言っていた。
金色の髪を肩口で揺らした和希。青みがかった灰色の瞳をした和希。真っ白な肌をした和希。
溺れたかずきは、和希の服を着ていた。白いシャツ、赤のカットソーの半袖シャツ、薄い青のジーンズ。すべて和希の服。
和希の格好をしたかずきが、池で溺れていたのを覚えている。
和希の格好をしたかずきが、土の上に寝かされていたのを覚えている。
和希の格好をしたかずきを、アイティが和希だと頷いたのを覚えている。
(ああ、なんだ、そっか)
簡単なことだった。どうして今まで気がつかなかったのか。
(あの雨の日、池で溺れたのは――和希なんだ)
そう、みんなが言っていたではないか。
(和希は、死んじゃったんだ)
『誰のせいでこうなったと思ってるの……?』
誰かが耳元で囁いた気がした。
「それは……、和希のせい……」
(和希が、和希のせいで死んだの)
そう呟いた和希――一姫の声に、通子は不思議そうな顔をしながらも髪を切り続けた。
それからだった。
一姫の気持ちは晴れやかになった。もう和希の幽霊が夜中にやってきては手首を掴むことはなくなった。雨の日に、心が落ち着かなくなって呆然とすることもなくなった。夜に雨音を聞いて和希が溺れたことを思い出して泣き出すこともなくなった。
「和希くん、かわいいわね。スカート履いちゃって」
小学生用の算数の問題集を解いていると、通子が話しかけてきた。
「ありがとう、通子さん。でも、私は女の子だから、『くん』づけじゃない方が嬉しいな」
「……そうね。ごめんなさいね、和希ちゃん」
一姫は自分ではもう入院の必要はないと思っていたけれど、退院の許可はまだ下りていない。
むしろ、アイティとトゥイクは面会にくる度に複雑そうな顔をし、和葉に至ってはまだ和希のことを忘れられない様子で、一姫を見る度に「どうしてお兄ちゃん、お姉ちゃんの格好してるの? またイタズラ?」と言ってくるほどだった。
アイティには面会の度に自分の部屋から服を持ってきて欲しいと言っているのに、よく和希の服と間違えて持ってくる。
トゥイクに相談すると「うーん、そうだね。一応、姉さんに話してみるよ」とは言ってくれるものの、間違いは一向に減らなかった。
そのため、ようやく持ってきてくれたこのスカートは大事に着ていた。
「和希ちゃん。叔父さんが面会に着てくれているわよ」
「はーい」
(平日なのにトゥイクが来るなんて珍しい。うん? 初めてかも?)
そう思いながら、一姫は面会室まで足を運んだ。
木製の艶の入った丸テーブルと椅子が四脚だけの部屋に入ると、トゥイクが椅子に座って待っていた。
「やあ、和希くん。元気してる?」
「トゥイク。『くん』づけは止めてって言ってるでしょ」
「いやいや。俺にとって、和希くんはいつまでも経っても、どうなっても和希くんだからね。そう簡単には止められないよ」
いまいち意味は汲み取れなかった。
大人にとって子供はどれだけ成長しても子供だから、『くん』『ちゃん』づけで呼ぶのは止められない、という意味だろうか。それならせめて、『ちゃん』づけにして欲しいと思った。
「それで、調子はどうかな? 例の夢は見なくなったんだろう?」
「うん。もう夜はぐっすり眠れるよ」
「そいつは良かった。姉さんが届けてくれたスカートは履いているみたいだね」
「そうなの。ようやくアイティが間違えずに届けてきたからね」
「そっか……」
私がそう答えると、トゥイクは複雑そうな、悲しそうな表情を作った。
「そうそう。一応ね、退院の許可は下りたよ」
「え? 本当?」
「本当さ。精神的には落ち着いているから、このまま病院にいるよりは、自宅で家族と一緒に過ごした方が良いんじゃないかって、お医者さんは言ってる。姉さんも、このまま入院を続けるくらいなら、今のままでもいいんじゃないかってさ。ま、俺はお医者さんの言うことには同意するけど、姉さんの意見には賛成しかねるね」
(アイティの意見には賛成できないって、どういう意味だろう?)
「そんな訳で、もうちょっとで和希くんは退院だ。週末、姉さんと一緒にお医者さんから詳しい説明があると思うから、本当は、俺がわざわざ来て言う必要もなかったんだけど……」
そう言ってから、トゥイクは逡巡したように目を泳がせた。
「……これは、やっぱり、言っておこうかな……」
「何を?」
「まだ今の和希くんには理解できないかもしれないけど、俺がこれから言うことは、しっかり覚えておいて欲しい。いいね?」
トゥイクが何を言おうとしているのかは分からなかったが、一姫はとりあえず頷いた。
「君はこれから、色々な人を傷つけることになるかもしれない。そんな時、どうしてそうなったのかをきちんと考えること。考えることを止めちゃ駄目だよ。これは、君の家族の一員である叔父からの忠告だ。きちんと覚えておくように」
トゥイクが前置きしたように、彼の言うことを、一姫はうまく飲み込むことができなかった。
(どうして私が、誰かを傷つけることになるんだろう……? ううん。きっと、もっと優しい人間になれって意味なんだ。誰も傷つけることのない、優しい人間に。うん。これからはもっと、うんと優しくなろう!)
それから、一姫は退院して、自宅から小学校に通うことになった。
環境は随分と変化した。通う小学校は変わり、友達も変わり、アイティの一姫に対する態度はぎこちなくなり、和葉はよそよそしくなり、唯一変わらないのはトゥイクくらいだったが、相変わらず『くん』づけは取れない。
中学校に進学する頃には、アイティの態度は自然なものになったが、和葉の態度はよそよそしいどころか棘が出始めていた。少し早い思春期特有の反抗なのだと一姫は理解した。
そして、今春、一姫は高校に進学した。
和希が亡くなって、六年が経っていた。
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