第3話 騙されたい嘘
一姫のびしょ濡れになった体が引き上げられた時には、一姫の呼吸は既に止まっており、心臓も動いていなかった。引き上げてくれた職員の人が、人工呼吸や心臓マッサージといった、小学校で消防の人が人形相手に見せてくれたことがある応急手当をしたが、一姫の体が再び動き出すことはなかった。
夏の雨の飛沫で濡れる中、一姫は湿った土の上に寝かされていた。
抹茶のような緑色のどろっとした藻と、黒茶色の濁った泥が、びしょ濡れた体にこびりつき、うっすらと開いた瞼の向こうから、泥水がしたたり落ちていた。
汚らしい動かない体は、惨めで、哀れで、恐ろしかった。
『誰のせいでこうなったと思ってるの……?』
誰かが耳元で囁いた気がした。
ぶちゅり。
と和希の胸の奥で何かが音を立てて潰れた。
全身を覆う気怠い疲労感と寒気がやってきて、筋肉が硬直し、震えが起こった。
「息子さんで、間違いないですか?」
そう職員の人がアイティに聞いていた。
「……はい。はい。そうです……」
アイティは呆然と頷いて答えていた。雨に濡れることも気にせず、アイティは一姫の体に覆い被さると、低く、声を挙げて泣き出した。
「お姉ちゃん、どうしちゃったの? なんでお外で眠ってるの? 風邪ひいちゃうよ?」
和葉は、手を繋いで傘を差す和希を見上げて、不思議そうに言った。
和希もまた不思議な心持ちだった。
『息子さんで、間違いないですか?』
職員の人はそう聞いた。
『はい。そうです』
アイティはそう答えた。
(一姫じゃない……?)
未だにアイティは一姫を和希と勘違いしていた。一姫を取り囲む大人たちもまた、一姫を男の子だと勘違いしている。
(一姫は死んだ? 違う? 一姫じゃない? 死んだのは、僕……?)
(溺れ死んだのは僕であって、一姫じゃない?)
そう考えると、和希の心はどこか軽くなったけれど、真実はそうではないと分かっていたので、決して受け入れることのできない嘘だった。
それでも、その嘘に、騙されたいと思った。
救急車が遅れながら到着すると、一姫の体と一緒に、和希たちは救急車に乗って病院まで行った。病院でようやく、亡くなったのは和希ではなく一姫であると分かり、叔父のトゥイクが額に汗をかきながら駆けつけると、アイティは堰を切ったようにトゥイクにすがって大声で泣き出した。
アイティは落ち着きを取り戻すことができず、一姫の傍を離れることを嫌がったため、アイティだけを病院に残して、和希と和葉はトゥイクと一緒に自宅まで帰った。
呆然とする和希と、事態を知らされず不思議そうにする和葉は、トゥイクが作ったミートソーススパゲッティを食べ、コーンスープをすすり、お風呂で体を温めてベッドに入った。
トゥイクは二階のアイティの部屋に泊まり、和葉は自室で眠り、和希は一姫との相部屋で一人きり、二段ベッドの下で横になっていた。
夜が部屋を浸していた。
丸形の蛍光灯がうっすらと灯った部屋は青暗い。
和希は寝付けずベッドで寝返りを打った。二段ベッドの上は一姫のベッドだ。いつもなら一姫の寝息や寝返りでベッドの軋む音が聞こえるはずだった。でも、今夜は静かだ。静かすぎた。異常なほどに。時計の音だけが不気味に大きく聞こえる。
(何が悪かったんだろう)
寝付けない夜の暗闇で、和希は昼間のことを考えていた。
一姫が死んだと分かってから今まで、和希は一粒の涙も流していなかった。悲しいという感情が沸かない。死体すら見たのに、未だに、一姫が死んだ実感が沸かない。
もし、狸を追いかけなかったら、一姫が溺れるようなこともなかったかもしれない。
もし、雨が降らなければ、近くに観光客がいて直ぐに助けを求められたかもしれない。
もし、溺れた場所をちゃんと伝えることができていたら、手遅れになる前に助けられたかもしれない。
(そもそも、僕が、ラジコンなんか落とさなかったら……)
何度も、『もしも』の可能性を考えていると、恐怖が再来した。一姫が池に落ちた音が、溺れて水をかく音が、助けを呼ぶ声が。
耳が恐怖を覚えている。
(僕のせい……。僕が、一姫を、殺した……)
ぴちょん――――ッ。
横を向いた和希の耳に、水が落ちる音が聞こえた。
瞬間、ベッド脇に投げ出していた右手を、何かが素早く掴んだ。
声にならない悲鳴が、ひゅぅと喉を通った。
子供の手。
和希くらいの、子供の白い濡れた手。
ぎゅぅと握ったまま離そうとしない子供の手が、和希をベッドから引きずり下ろそうとするかのように、強烈な力で引っ張った。
水のしたたる音、抵抗でベッドを揺らす軋み、時計が規則的に刻む針の音、そして、
『かず……、たす、助けて……。かず……』
静かな夜の中、人の声などないはずの暗闇の中、和希の耳に一姫の声が聞こえた。
溺れながら助けを求める声が。
ずるり、と和希の腕がベッドの下に引きずり落ちた。
「止めて……ッ! 止めて……」
肩口までベッドの外に落ちると、ベッドの脇にしゃがみ込む一姫と目が合った。
池の水と草の匂い。
黒い泥で汚れた金色の髪、泥水で濡れた血のように赤い服と白い肌、目の穴に詰まった泥は涙のようにたらたらと流れ続けていた。
『……和希……』
乞うような声が、一姫の口からこぽりっと泥と一緒に溢れた。
吐瀉物を嚥下したような嫌悪感が生まれた。
恐怖が肋骨の奥を乱暴に突き飛ばし、スプーンでかき混ぜたように胸の防波堤が崩れた。
「嫌だ……ッ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だァァ―――――ッ!!」
唾液で粘つく口の中から、切れそうな悲鳴が漏れた。
部屋の向こう側から扉を開く音がすると、廊下を勢いよく走る音と共に、部屋の扉が乱暴に開かれて電気がつけられた。
「和希くん! どうしたんだ!」
明るくなった部屋に、短い金色の髪をしたトゥイクが入ってきた。
気がつくと、手首を掴んでいた手も、一姫の姿も消えていた。池の匂いも泥や水の跡もなく、ただ和希は、ベッドから落ちかけているだけだった。
和希は体を起こしてベッドの中央まで移動して、一部でもベッドの外に出ないように体を抱え込んだ。
掴まれていた右手首を見ると、青痣ができていた。
人の手の形をした痣。
くっきりと、未練がましく。
和希の背中を蟻の大群が這い上るような寒気が走った。
「……ごめん、一姫……。ごめん……ごめん……」
膝に顔を埋めて泣く和希の背中を、トゥイクが撫でてくれた。
結局その夜は、眠ることができなかった。
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