第2話 きっかけの船

 アイティ(Äiti)とはフィンランド語で母親を意味し、和希たち兄妹は母親――遠野ルミをそう呼んでいた。

 フィンランド人であるアイティは、自然をこよなく愛していた。フィンランドには自然享受権という権利があり、住民でも旅行者でも居住者のいない森や沼地を自由に散策して、きのこやベリーなどの食物を採集したり、レクリエーションを楽しむことができる。


 アイティもフィンランドにいた頃は、太陽が沈まない夏には湖畔近くのサマーコテージでボート漕ぎをしたり、摘んだばかりのベリーでお菓子を焼いたりしたらしい。肺が凍るような長い冬には、スキーを楽しんだり、サウナに入ってから氷を割った湖に飛び込んだりして、太陽の出ない極寒を満喫していた。

 そんな話をうんと小さい頃から何度となく聞かされ、自然と触れ合うことの大切さを知識として、何より経験として、和希たちは教え込まれていた。


 その日も自然の中に身を浸すために、自宅からほど近い『山上池』と呼ばれる、文字通り山の上にある池にまで遊びに出ていた。

 池に向かうために軽自動車を走らせるアイティの隣には、寝息を立てて眠る六歳の和葉の姿があり、和希は後部座席で妹の一姫と顔を近づけてこそこそと話をしていた。

 そんな和希たちを尻目に、アイティはトゥイクから聞いたという『山上池』の話をしていた。


「これから行く『山上池』は『姿見の池』とも『鏡池』とも呼ばれているみたいで、風のない晴れた日に行くと、水面が鏡みたいになるんだって。あと、河童が出るって噂があるみたいよ。でも、河童って何かしら? 魚? 日本の固有種? 食べられるのかしら?」

「アイティ、河童は日本の妖怪だよ」と一姫は言った。

「そうよ。フィンランドのナッキみたいなものよ」と和希が言った。

「へえ、そうなの。二人とも物知りね」


 和希は一姫と顔を突き合わせて、自分たちのイタズラがバレていないことに、くすくすと笑い合った。

 二人とも肩口で揺れる金髪と青みがかった灰色の瞳は同じであったが、服装が違っていた。

 兄の和希は、星空模様の黒い薄手の長袖シャツに、赤チェック模様のスカートを履いていた。つるんとした細めの生足がスカートの下から出ている。

 妹の一姫は、白いシャツの上に、赤のカットソーの半袖シャツを着て、下には薄い青のジーンズを履いていた。


 本来の服装は逆だった。

 和希が着ている服は、元々は一姫のものであり、一姫が着ている服は、元々は和希のものだった。イタズラとはつまるところ、服装の入れ替えだった。二人の容姿は二卵性とは思えないほどよく似ていたため、服装を入れ替えるとアイティですら見分けがつかないほどだった。


 大人を翻弄する背徳的な楽しさを覚えた和希たちは、ことあるごとに服装を取り替えっこしてお互いの演技をし、大人たちだけではなく、小学校の友達をも騙してきた。二人は小学校のクラスこそ違ったけれど、入れ替わって授業を受けたこともあったし、その状態のまま友達の家に遊びに行ったこともあった。妹の和葉以外にはバレたことがなく、二人のちょっとした自慢の特技だった。

 今日もアイティは気がついていない。うまく騙せているようだった。


 和葉は直感に優れたところがあるため、既に気がついているかもしれなかったが、アイティに告げ口しないように大分前から言いくるめているため、大丈夫だろうと和希は思った。

 やがて、自動車が観光地となっている『山上池』の駐車場に止まった。駐車場の目の前にはレストランと土産屋と『山上池』の歴史を鑑賞できる施設が合わさった、昭和の時代を感じる建物がある。日曜日なのに人はまばらで、家族連れや年配の人がほとんどだった。

 自動車を降りて、ひょうたん型の大きめの池を一周できる舗装された観光ルートに出てから、和葉が「あっ!」と声を上げた。


「アイティ、カシャカシャ忘れた」

「家? それとも車の中?」

「分かんない!」

 カシャカシャとは、和葉が誕生日に買ってもらった子供用のインスタントカメラのことで、和希は和葉が家を出る時にキャラものの肩掛けのバッグに入れていたのを覚えていた。

「多分車の中よ。和葉、バッグも忘れてるし」

「ああ、もう、しょうがないわね。和葉と車まで戻るから、二人とも、ここを動かないでね」


 アイティは和葉の手を引いて、元来た道を戻って行った。

 イタズラ好きの和希と一姫が、黙ってその場所に留まっているはずもなく、二人は勝手に辺りを散策し始めた。

「狸! 一姫、狸がいる!」と和希が指さした。

「ほんと? どこにいるのよ?」と一姫が聞いた。

 アイティがいなくなったので、二人は普段の口調に戻っていた。


 和希が指さした先には、小さな赤ちゃん狸が所在なさげに和希たちを見ていた。ふさふさの毛とくりんとした目に魅了された和希たちは、わっと駆けだした。

 子狸は怯えたように回れ右して後ろの藪の中に逃げていった。

 和希と一姫は藪だろうとお構いなしに突進して、子狸を追いかけた。

 柔らかい土と落ち葉の絨毯を足裏に感じつつ、しなった茎にすずなりに生えた葉っぱをかき分け、のんびり葉っぱを齧るカミキリ虫を手で追いやり、汗が転がる体に草いきれを浴びつつ、観光ルートを外れた道なき道を進むと、頑丈そうな木の柵にぶつかった。


 柵の向こう側は池だった。柵を越えて池に突き出したブナの枝が影を作っている。

「狸は?」

「どっか行っちゃったね」

 一姫がブナの木や棘の生えた藪で視界の悪い中、キョロキョロしながら言った。狸どころか他の観光客の姿も見えなかった。恐らく、観光客が入ってはいけないところだったが、和希たちにとって重要なことではなかった。


「でも、狸っておいしくないらしいわ」

「え。一姫、食べる気だったの?」

「トゥイクがおいしくなかったって言ってた。でも、食べてみたいじゃない。和希もそう思うでしょ?」

「いや、全然」

「え?」

「え?」

 疑問符を浮かべながら、一姫と顔を見合わせた。

 一姫とは双子だったが、たまにこうして噛み合わないことがある。


「お姉ちゃんが食べたいって言ってるんだから、和希も食べなさいよ」

「食べないよ。だいたい、一姫は妹だよ」

「ちょっと早く生まれたからって調子乗らないの」

「でも、僕の方が早く生まれたんだから、お兄ちゃんだもん」

「こないだホラー番組見て、私の布団に潜り込んできたくせに」

「べ、別に怖かった訳じゃないよ」

「嘘よ。夜中に私がトイレに行く時だってついてきたじゃない」

「だ、だって……」


 一姫は生まれた順番的には妹だったが、力関係的には立派にお姉ちゃんだった。それでもお兄ちゃんとしての意地がある以上、こうして反抗して見せていたが、結局いつも言いくるめられるのだった。

「そうだ」と一姫は手を合わせた。「和希、船のラジコン持ってきてたじゃない。浮かべてみなさいよ」

「ええ? ここから?」


 和希は背負った一姫のリュックサックから帆船のラジコンを取り出して、柵から身を乗り出してその下の池を覗いた。和希たちのいるところから池の水面までは一メートルほどある。

「ここから落とすの、ちょっと怖……あっ」

 柵にかけてぶらぶらさせていた手の中から、帆船のラジコンがすべり落ちて、水面に叩きつけられた。

「ああ……」

 和希が悲壮な声を挙げて落ち込むと、一姫が何でもないへっちゃらな様子で池の東側を指さした。

「レストランの傍にボートが止まってたところあったじゃない。ラジコンなんだから、そこまで動かせばいいでしょ」

「電池……まだ入れてない……」

「ほんと、和希って抜けてるよね」


ぽつん、と水面に小さな波紋が生まれたと思うと、和希の頬に冷たい水滴が当たった。

「雨だ……」

 粒の大きい水滴がさらさらと空から落ちて、池の水面に波紋を踊らせ、土に染みをつくり、和希たちの体を濡らし始めた。

「もう、しょうがないわね。さっさと取って戻るよ」

 一姫はブナの木から、手頃な木の枝を二本頂戴すると、柵から身を乗り出して、ラジコンを箸のように摘まみ上げようとした。

「取れる?」

「うーん……」


 危なっかしい体勢で一姫はうなりながら、枝でなんとかラジコンを拾い上げようとした。

「やっぱり、アイティを呼んでくるよ。怒られるかな……」

 和希は怒られることを恐れながら、未だ努力している一姫に背を向けて、アイティを呼んでこようと来た道を引き返そうとした。

「あっ!」

 一姫の声が聞こえたと思うと、ドボンッと大きなものが落ちる音がした。

 振り返ると柵のところにいた一姫が消えていた。


「一姫……?」

 急いで柵まで戻り池を覗き込むと、一姫が池に落ちてもがいていた。池は深いのか、泳げない一姫は何度も水の中に頭を落としながら、呼吸をしようと懸命に水を漕いでいた。

「かず……、たす、助けて……。かず……」

 声を上げようとする度に沈み込み、途切れ途切れの叫びが和希の耳を突いた。

「ま、待ってて……。あい……アイティ……呼んでくるから……」

 和希は来た道を走って、アイティと別れた場所まで戻ろうとした。

 藪をかき分けつつ舗装された観光ルートまで出たが、アイティの姿も他の観光客の姿もなかった。雨のためレストランのある建物まで戻ったのだろうか。和希は焦る気持ちを抑えきれずに走り、雨に濡れた道で転びつつ、レストランのある建物まで戻った。


レストランに併設された土産屋のビニールの屋根の下で雨宿りをしていたアイティと和葉を見つけて、和希は荒い呼吸を繰り返しながら近づいた。

「ちょっと、一姫、ちゃんと待ってなさいっていったじゃない」

 和希の姿を認めたアイティは、未だに一姫だと勘違いしたまま怒った口調で言った。

「か、一姫が……、一姫が、池に落ちちゃった!」

「……は?」


一瞬呆然となったアイティは、直ぐに気を取り戻して、和希の肩を掴んだ。

「どこ? どこで落ちたの?」

「あの……狸追いかけて……道逸れた先で、柵があって……」

 あの場所をどう説明すれば良いのか分からず、和希は混乱した頭で途切れ途切れに言葉を繋いだ。

「ちょっと……、ちょっと待ってなさい。今、職員の人に話してくるから。和葉をちゃんと見てるのよ。絶対、どこにも行くんじゃないわよ」

 焦りを隠せていないアイティは動揺した様子で和希と和葉を置いて、観光案内所の小屋まで走って行った。


 取り残された和希は体が震えていることに気がついた。暑い夏の日、ぬるい雨が降って蒸し暑くなっているはずなのに、体の震えは意識した途端、更に強くなった。

「お兄ちゃん、寒いの?」

 和葉が震える和希の手を取った。

 熱い妹の手を握りしめて、和希は信じてもいない神様に都合良く祈った。


(神様。一姫を助けてください。何でもします。もうアイティを騙したりしないから。いい子になるから。どうか、助けてください……)

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