46 既成事実

 月曜日の昼休み。喫煙所に行くと、香織が一人で立っていた。


「よう、香織。雅紀は?」

「今待ってるとこ。もうすぐ来るんじゃないかな。それより聞いたよ? この前の奈緒ちゃんと付き合ったんだって?」


 俺は目を見開いた。どうしてそういうことになっているんだ。


「女の子たちの間で話題になってたよ? 純ったら、ようやく楓ちゃんのこと吹っ切れたんだね」

「いや、そうじゃない。そうじゃないんだ」


 説明をしようとすると、雅紀が現れた。


「おお! 純、ついに彼女できたんだってな!」

「だから、そうじゃないんだってば! ちょっと待ってて!」


 俺は奈緒にラインをした。


『俺たちが付き合ってるってどういうこと?』


 返事はすぐにきた。


『既成事実あるじゃない』


 俺はタバコを地面に落としてしまった。スマホの画面を勝手に覗いてきた香織が、ニタニタと笑いながら言った。


「まーたヤバい女に捕まったみたいだねぇ……」


 タバコを拾い、灰皿に放り込んだ後、俺は雅紀に寄りかかった。


「どうしよう、俺」

「あー、詳しくは昼メシ食べながら聞くぞ?」


 食堂で、俺は香織と雅紀に奈緒のことを話した。香織は爆笑しはじめ、雅紀はこめかみに手を当てていた。香織は涙を流しながら言った。


「あーおかしい! 純ってつくづくおバカさんだねぇ?」

「もう何とでも言え」


 雅紀が言った。


「もう奈緒ちゃんで良くないか?」

「いや、あいつこわいんだよ!」


 その時、何人かの女の子たちと一緒に、奈緒が俺たちの席の近くを歩いてきた。


「あっ、純くーん」


 奈緒は呑気に手を振ってきた。俺もとりあえず手を挙げた。女の子たちはクスクス笑いながら、俺たちの側を通り過ぎて行った。香織が言った。


「こりゃあ、しっかり周知されてますね?」

「こわい。マジこわいあの女」


 ゼミ内でも、俺と奈緒が付き合ったという話は知れ渡っていた。なんと寺本教授にまでだ。彼は俺たちを見ると微笑んだ。


「いやぁ、若いっていいねぇ」

「あはは……」


 俺は笑うしかなかった。ゼミの後、俺は居酒屋で、奈緒を問い詰めていた。


「何で付き合ってることにしてるんだよ!」

「だって、そうでもしないと純くん繋ぎ止めれないでしょう?」

「気まずいだろうが!」

「わたしは楽しいよ?」


 ダメだ。どうにかして俺に幻滅してもらわないと。


「俺、楓とは続けるぞ?」

「ご自由にどうぞ。でも、名目上の彼女はわたしだから」

「結婚する気とかないぞ?」

「ふふん、これから変えてみせるもん」


 三年間想われていたのだ。これは簡単に覆せそうにない。俺はビールをぐいっと飲み込んだ。奈緒は足を組み、俺を見つめてきた。


「ということで、これからよろしくね?」

「あーもう、それでいいよ!」


 それから、俺と奈緒は、恋人らしく過ごした。何ヵ月か付き合ったことにしておいて、別れたらそれでいいだろう。そう軽く考えていたのである。しかし、季節は夏を過ぎ、秋になった。俺たちはまだ、続いていた。

 バイト中、俺は龍介さんに相談した。


「彼女、まだ冷めてくれないんですけど」


 龍介さんは言った。


「こりゃあ長期戦になりそうだな。まあ、人並みの幸せを手に入れるのも悪くないんじゃない?」

「でも、俺は冷めて欲しいんです。情けないところとか、たくさん見せてるんですけど、全て可愛いで終わります」

「奈緒ちゃんって子、相当純くんに入れ込んでるんだねぇ……」


 奈緒の家で、セックスをした後、俺は彼女に告げた。


「奈緒とは、マジで結婚とか考えてないからな」

「就職したら考えも変わるよ。普通に家庭を持って、子供が生まれて、そういうのも素敵だと思えるよ」


 今後のことを信じて疑わない目だった。確かに、そういう幸せを夢想する自分も居た。奈緒と過ごすのは、悪くない。学内で彼氏彼女として振る舞うことも、まんざらではない気がしていた。

 俺と楓と千晴の仲は、特殊な関係だという自覚はあった。俺の母親や、祖父母、叔父や叔母といった親戚には、まず話せないようなものだった。

 しかし、奈緒なら違う。周囲に紹介できて、認められて、大手を振って歩けるような人生を、彼女となら歩めるかもしれない。彼女はキスをせがんだ。俺は唇を重ねた。

 奈緒の家からの帰り道、楓から連絡がきた。


『今週の金曜日、開けといて。千晴と宅飲みしよう』


 俺は了解、と返した。わざわざこんな風に楓から来るのは珍しい。彼女からの誘いは大抵当日だからだ。

 何かあったな? 俺は直感的に思った。あまりいいことでは無い気がした。電車の中で、俺は千晴にラインをした。


『楓、どうしたんだろうな?』


 返事はすぐにきた。


『おそらくお母さんの命日ですよ』

『そういうことか』


 命日になると、心が揺らぐのは俺も同じだ。楓も今は不安定になっているのだろう。そんなとき、俺と千晴を頼ってくれるのは、嬉しくもあった。当日はしっかりと寄り添おう。俺はそう決めた。

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