32 指切り

 夕方になって、やっと千晴が起きた。それまで俺と楓は、ほとんど何も喋らずに過ごしていた。楓が言った。


「千晴、何か食べる? 純が色々買ってきてくれたって」

「じゃあ、何か頂きます」


 千晴もそんなに食欲がないようで、冷凍の焼きおにぎりを一個だけ食べた。それから彼はバイトだ。家を出るとき、千晴は俺に耳打ちした。


「僕も、川上さんに相談してみます」

「うん、それがいい」


 俺は楓と二人っきりになった。そういえば、彼女はずっと同じ服を着たままだ。


「楓、風呂入ったか?」

「ううん。めんどい」

「一緒に入ろう。洗ってやる」


 楓は渋々服を脱ぐと、洗濯機に放り込んだ。俺も服を脱ぎ、彼女を丁寧に洗ってやった。首筋には、まだ痕が残っていた。タオルで髪を拭いてやりながら、俺は彼女に聞いた。


「なあ、あのラインって、俺と千晴にだけ送ったのか?」

「そうだよ」

「他に、このこと言える友達っているか? ほら……香織と雅紀とか」

「全部は、言えない」

「うん、分かった。理由は言えないけど、楓が落ち込んでることにして、また今度あいつら呼ぶのはどうだ?」

「いいよ。あの子たちなら、会いたいって思える」


 そして、洗濯をしようとしたのだが、俺には使い方がわからなかった。結局、楓が自分でした。干すのは俺も手伝った。

 二人でベッドに入り、ぴったりとくっついた。こうしていると、楓も安心するようだった。夜の一時になる頃、すうすうと寝息が聞こえてきた。眠れるのは良いことだ。

 三時頃になり、千晴が戻ってきた。


「川上さんには、手を引けと言われましたよ」


 俺と千晴はローテーブルを挟んで向かい合い、缶ビールを開けていた。


「そっか。俺も、バイトの先輩から、ダメだと思ったら手放せって言われた」

「やっぱり、僕たちだけでは無理かもしれませんね」

「そのことだけどよ。楓が、俺と共通の友達となら会いたいって言ったんだ。そいつらなら料理できるから、今度呼ばないか?」

「うん……いいですね」


 それから俺は、龍介さんの話をした。元婚約者が精神を患っていたということも。千晴は言った。


「正直、僕には専門的な知識がありません。楓はきっと、うつなのだと思いますけど」

「うん。俺もそう思う。でも、楓ってもっと根深い問題を抱えてるんだと感じるんだ。何か病名があるのかもしれない」

「こればかりは、精神科を受診するまでわかりませんね」


 俺たちはベランダに出た。千晴が俺のタバコを欲しがったので、一本渡した。


「僕もこれに変えましょうかね」

「えっ、何で?」

「別に、今のタバコにはそこまで思い入れが無いんですよ」

「キャスター・ホワイト?」

「ええ。バニラの香りがするでしょう? でも、僕も純と同じ香りに包まれたくなりました」


 タバコをくゆらせながら、俺は千晴に言った。


「ヒロキになるの、もうやめろよ」

「はい……そうですね」

「お前にとってはスッキリしたかもしれねぇけど、それでお兄さんが喜ぶとは思えねぇな」

「ごもっともです」


 千晴はうなだれた。彼の肩を俺は叩いた。


「まあ、俺もさ。父親が何で死んだのか、その理由がハッキリしてたら、復讐を考えていたかもしれねぇ。紙一重だったんだ」

「お父さんは、遺書など残されなかったんですか?」

「あったよ。ありがとう、だけ書いてあった。だから、楓のラインにはぞっとした」

「そうでしたか」


 タバコを消し、俺と千晴は抱き合った。俺は言った。


「お前もさ。辛かったんだよな」

「はい……」


 千晴は泣いていた。俺は彼の背中をさすった。夜風が頭の上を通りすぎていった。彼の体温がやけに暖かく感じた。

 俺は一旦身体を離し、千晴にキスをした。同じ匂いのタバコの味がした。彼は貪欲に俺を求めた。寒さなど、もう感じなかった。


「戻りましょうか」

「うん」


 楓はぐっすりと眠っていた。俺が額を撫でると、彼女の口角が上がった。


「なんか、夢でも見てんのかな」

「そうですね」


 もう一度、俺と千晴は向き合い、二人の話をした。


「千晴が背負っていたものは分かった。本音を言うと、重たい」

「ですよね」

「けどさ。やっぱりダメだわ。俺、お前と一緒に居たいんだわ。だから俺も背負う。卒業したら、一緒に暮らす約束。もう一度交わすぞ?」


 俺と千晴は指切りをした。解決しなければならない問題は山ほどある。楓のこと。母親のこと。就職のこと。それを一つ一つ、崩していこう。


「純と出会えて良かったです」

「俺も。あの日、スマホ忘れて良かったな?」

「はい。楓が巡り合わせてくれたんですね」


 ローテーブルを動かし、俺と千晴は横になった。指を絡め、ぎゅっと握り締めた。


「純、明日はどうします?」

「俺、一限から必修だから行ってくるよ」

「僕は授業が無いので、ここに居ます」

「おう。よろしくな。俺の友達……香織と雅紀にも、楓のこと話してみる」

「頼みます」


 二人とも、疲れていた。泥に落ちるように、眠りに着いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る