29 三人の真実
あくびを噛み殺しながら、俺は写真屋のカウンターに立っていた。土曜日。今日も暇だ。眠気を紛らせるため、身体でも動かしておこうと思い、俺はバックヤードにあるシンクを掃除することにした。
掃除しながら、考えていたのは、楓の「バイバイ」についてだった。いつもはあんな事を言っただろうか?
もうすぐで上がりだ、というとき、スマホが振動した。楓からだった。
『今までありがとう。楽しかったよ』
俺はそれを見た瞬間、全身が強ばった。震える手でメッセージを打った。
『楓、どうした?』
既読はつかなかった。五時になり、写真屋を飛び出し、俺は楓に電話をした。出ない。コール音はする。とりあえず一旦家に帰り、着替えてからもう一度電話したが、ダメだった。既読もつかないままだ。
――ありがとう。
その言葉は、俺にとっては呪いのようなものだった。スマホを手に、微動だにできずにいると、千晴から電話がきた。
「純? 楓から、変なラインが来ましてね」
「俺もだ。電話も出ない」
「そうですか。何か、胸騒ぎがします」
「うん。俺、今から楓の家行くよ」
「僕も行きます」
俺は母親に、夕飯は要らないと叫び、スニーカーを履いて駆け出した。楓の部屋の前に着くと、既に千晴が居て、何度もインターホンを鳴らしていた。
「千晴」
「純。ダメです。出ません」
俺は集合ポストのことを思い出した。
「合鍵取ってくる」
俺は一旦階段を降り、ポストに手を突っ込んで鍵を取り出すと、それを使って扉を開けた。中は静まり返っていた。玄関から、ワンルームへと続く扉が閉まっていて、俺と千晴はそれを開けようとした。
「んっ? 重っ……」
「せーので開けましょう」
男二人がかりで扉を開けた。楓は扉の内側で、ドアノブにロープを結び、自分の首に巻き付けていた。目を閉じ、ぐったりとしていた。
「楓!」
俺は楓を揺さぶった。千晴が彼女の手首に指をあてた。
「脈はあります。大丈夫」
千晴は落ち着いていたが、俺はそうではなかった。
「楓! 楓!」
頬を叩くと、楓のこめかみがぴくりと動き、薄く目を開けた。良かった。生きてる。
「楓!」
俺は楓を抱き締めた。彼女は両手をだらりと下げたままだった。そして、俺の耳元で呟いた。
「そっか、あたし……死ねなかったんだね」
「何やってんだよ、バカ!」
千晴が俺の肩を叩いた。
「純。落ち着いて下さい」
「落ち着いていられるか!」
「とにかく、楓をベッドまで運びましょう」
俺と千晴は、肩を貸して楓を立たせると、ベッドに連れていった。仰向けに寝転がりながら、彼女はただ天井を見上げ、黙っていた。
よくよく部屋の中を見ると、空になった缶チューハイがいくつも転がっていた。俺は床に座り込み、楓が何か話し出すのを待った。
「ごめんね。二人とも」
ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。千晴は楓の頭を撫でて言った。
「理由は聞きません。ただ、楓は死ねなかった。それが結果です」
どうして千晴はこんなにも冷静でいられるのだろう。俺は頭をかきむしった。
「俺は知りたい。何でこんなことしたのか」
楓は首を動かし、俺の方を見た。青い唇で、何か言葉を紡ごうとしかけるが、上手くいかないようだった。千晴が言った。
「とりあえず、全員落ち着きましょう。コーヒー、淹れますね」
千晴はキッチンに立ち、三杯のコーヒーを作った。楓はベッドの上で三角座りになり、それを飲んだ。俺も、いくらか落ち着きを取り戻していた。そして、ぽつりと言った。
「なあ、楓。そんなに死にたかったのか?」
楓は壁を見つめたまま返した。
「……うん」
「何でだよ。言えよ」
「あたし、幸せだと思った」
ぽつり、ぽつりと楓は語りだした。
「幸せな日々が続くと、不安になった。この幸せはいつかは終わるんだって。そのことを考えたら、一番幸せな内に死にたいって思った」
その理由は、俺にはまるで理解できなかった。きっと、俺はまだ幼いんだろう。楓が言うことの本質を、俺は捉えられない。多分、千晴は分かっている。彼の方を見ると、そういう表情だった。
納得ができない俺は、いつの間にか涙を流していた。
「あのなぁ楓。自殺なんかしたらな。残された奴は一生苦しむんだぞ。それ、ちゃんと考えてたのか?」
「あたしだって……あたしだって、考えてたよ。それでも死にたかった」
「本当に考えてたら、こんなことしないだろ!」
「考えてた! 分かってた! 残された人の気持ちなら知ってるの! お母さんのときがそうだった!」
楓は俺を睨み付け、ボロボロと泣き出した。千晴はその涙をすくいとって言った。
「……残された人のことなら、僕にも分かります」
「えっ?」
「僕は兄を失いました」
「おい、何だよ。俺たち、そういうことかよ」
俺は話をまとめた。俺は父親を、楓は母親を、千晴は兄を自殺で亡くしていた。
俺たちは全員、自死遺族だったのだ。
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