22 ありがとうの言葉

 楓の熱は、朝には下がっていた。俺はシャワーを浴びさせてもらい、一限へと向かった。必修だから、行かないわけにはいかない。

 昼休み、校内の喫煙所で楓にラインをした。


『病院行った?』

『行った。薬もらってきた。しばらくゆっくりする』


 一安心だ。今後はこちらからの連絡は控えよう。タバコを吸っていると、香織と雅紀が現れた。香織が調子のいい声で言った。


「そこのお兄さん! お昼ごはん一緒にどうだい?」

「いいよ、行こうか」

「わーい! どうする? 今日は外行く?」


 雅紀が言った。


「そうだな。カツ丼は?」

「えー、ボク他のがいい」

「じゃあパスタ」

「それで! 純もいい?」

「ああ、いいよ」


 俺たち三人は、パスタ屋に向かった。ランチセットがぴったり千円のところだ。食事が出てくるまでの間、俺は千晴と楓の看病をしたことを話した。香織はコロコロと笑った。


「何それ、変な三人だねぇ!」

「自分でもそう思う。千晴とは、卒業したら一緒に住む約束したし」

「マジで!?」


 それから、話は香織と雅紀の今後のことになった。雅紀が言った。


「オレは公務員試験受けるつもりだから。勉強ももう始めてる」

「ボクはなーんにも決めてない。でも、雅紀に養われるわけにはいかないし、何かの仕事には就かなくちゃね」


 このままいけば、二人は結婚するのだろう。どうやら年末に、雅紀は香織を自分の実家に連れていったらしい。もはや家族公認の仲というわけだ。香織が言った。


「ボク、早く子供欲しいんだよね! だから、産休育休取りやすい企業にするつもり」


 俺は言った。


「女の子は大変だな。そういうのも考えて就活しなきゃいけないから」

「むっ、純だって考えなきゃダメだよ! 今どき男性育休はフツーになりつつあるんだから。将来のためにも、そういうとこ見といた方がいいよ?」


 三人分のパスタが運ばれてきた。それを食べながら、俺は子供について考えていた。別に、今は欲しいとは思わない。でも、歳を取れば、その考えも変わるかもしれない。俺の信念なんて、そんなものだ。

 食後のコーヒーを飲みながら、雅紀が言った。


「この後どうする? オレと香織は授業ないけど」


 俺は答えた。


「図書館行こうかなぁって思ってる」

「そうか。じゃあここで解散だな。オレは香織の買い物に付き合ってくる」

「えへへ、コスメ見に行くのー」


 微笑ましい二人だ。結婚式には必ず呼んでもらおう。そして、宣言通り俺は大学の図書館へ行った。何かSF小説でも読んでみようと思ったのである。短編集なら取っつきやすいだろう、と俺は一冊の文庫本を手に取り、借りた。

 さて、今日はさすがに母親の料理を食べねばならないだろう。俺は帰宅した。キッチンで母親が歌を歌っていた。決して上手いとはいえないが、気持ちが良さそうだ。


「ただいま」

「おかえり。今日はクリームシチューにしたよ」

「おおっ、美味そう」


 鶏肉が沢山入ったクリームシチューを俺は味わった。ニンジンが、星の形にくりぬかれていた。俺は笑った。


「なんでわざわざ」

「純ちゃんが喜ぶかなあって思って」

「もう、俺は子供じゃないんだぞ?」

「子供だよ。母さんにとっては、いつまでもね」


 ここが、言うタイミングだろうか。俺は意を決した。


「なあ、母さん。俺さ、信頼できる男友達ができてさ。卒業したら、そいつと一緒に住もうと思ってるんだ」


 カタン、と母親がスプーンを皿に落とした。


「一緒に住む? 何で?」

「俺は就職したらこの家出たいんだ」


 ふるふると母親の唇が震えた。そして、一筋の涙を流し始めた。


「そうだよね。純ちゃんも、出たいよね。こんな母さんと一緒じゃ、嫌だよね」

「母さんが嫌なんじゃない。ただ、俺がそいつと住みたくなったってだけ。死ぬわけじゃないんだ。何かあったらすぐ帰れる距離にするから」


 母親は涙をぬぐった。しかし、どんどんこぼれ落ちるものがあった。


「やっぱり、嫌だよぉ……純ちゃん、ずっと、母さんの側に居てよぉ……」


 俺は立ち上がり、母親の背中をさすった。本当に小さな背中だ。でも、俺は、突き放さねばならない。いつまでも、引きずられるわけにはいかない。


「なあ、母さん。父さんなら、応援してくれたと思うよ」


 それでも母親は泣き止まなかった。俺はリビングの引き出しから、白い封筒を取り出した。

 父親の遺書だ。

 そこにはこう書かれていた。


「千恵子、純、今までありがとう」


 ただそれだけだ。

 クリスマス・イブの日。父親は、ビルの屋上から飛び降りた。直接の原因は、今となっては分からない。


「父さんはさ、俺のやりたいこと、いつも応援してくれた。やりたくないことも、わかってくれた。空手やりたくないって言ったら、簡単にやめさせてくれただろ?」

「うん……そうだったね」


 本当はこんな遺書、破り捨てたいと何度思ったことか。俺は「ありがとう」の文字をなぞった。弱々しい線だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る