15 傷痕
どれくらいそうしていたのだろう。酔って疲れた頭では、時間の感覚など分からなかった。俺と千晴は、休みながら何度もキスをしていた。俺が求めるだけ、彼は返してくれた。唇を離し、彼の瞳を見つめた。
「本当に、お前って綺麗だよな」
「ありがとうございます」
俺は千晴の髪を撫でた。飼っていたクロを思い出した。あの猫も、父親が死んだ日にどこかへ行き、帰って来なかった。元々は父親が拾ってきた猫だ。そういうこともあるのだろう、と俺は納得していた。
「千晴、ぎゅってして」
「はい」
千晴の腕が背中に回った。彼は強い力で抱き締めてくれた。とくん、とくん、という互いの鼓動が響き合っていた。こんなに安らかな気分になれたのはいつ以来だろう。ずっとそうしていると、酔いも覚めてきた。今さらになって恥ずかしくなってきた。俺は彼の胸で呟いた。
「ごめんな、千晴」
「いいんですよ」
じわり、と涙がこぼれてきた。千晴のニットを俺は濡らした。彼は背中をさすってくれた。ようやく涙が止まった頃、俺は笑顔を作って言った。
「あー、シャワーでも浴びるか」
「一緒にですか?」
「いや、交代で」
さすがの俺も、そこまでの勇気はなかった。先に俺が入り、千晴が入っている間はソファでタバコを吸っていた。二人ともバスローブ姿で、ベッドに並んで寝転んだ。頭はスッキリとしていた。なので、今の、というか今後の展開を、どうしたもんだかと悩みだした。
キス、しちゃったな。男同士で。しかもあんなに暑苦しいやつを。
楓に知られたら、どんな反応をするだろうか? 彼女のことだ、大笑いしてくれるだろうか。
ふと、千晴のバスローブの袖からのぞいた白い腕が目に入った。いくつもの切り傷があった。俺は驚いてそれを掴んだ。
「千晴、これ……」
「ああ、色々あったんですよ」
千晴は眉根を下げ、薄く笑った。俺は線を一本一本なぞった。とても深い傷だ。
「色々、って何だよ。いつからだよ」
「中学生のときです。今はしていませんよ」
理由を聞くのは簡単では無さそうだな。けれど、知ってしまってもいいものかどうか。俺は言葉を失くした。ピアスすら痛がるような奴が、自分の腕を切るなんて。俺は千晴を抱き締めた。
「今は大丈夫です。大丈夫ですから」
千晴は俺の背中を叩いた。動揺が収まらなかった。それで、俺はなおも強く彼にしがみついた。素足を絡ませ、決して離れないように。彼はそれに応えてくれた。また、鼓動が重なり始めた。俺はまぶたを閉じた。
翌朝、先に目覚めたのは俺だった。安らかに眠る千晴の腕の傷を少しずつ舐めた。
「……くすぐったいですよ」
「おはよう、千晴」
「おはようございます」
ラブホテルを出ても、すぐに帰る気になれなかった。それでモーニングに行くことにした。俺はサラダを、千晴はフルーツのセットを頼んだ。焼きたてのパンにかじりつき、俺は言った。
「なあ、千晴って家族とは仲いいのか?」
「ええ、それなりに」
「大事にしろよ。突然、居なくなることってあるからな」
「……そうですね」
あの日も、本当に突然だった。俺と母親が、クリスマスのチキンを準備して待っていると、電話が鳴った。警察署からの電話だった。あの時、崩れ落ちる母親の姿を、俺はまだハッキリと覚えていた。
「俺は父親とは、別に仲が良くも悪くもなかった。普通の親子関係だったと思う」
「はい」
「まあ、一人っ子だったから、甘やかされてたんだろうけどな。今となっては、よくわかんねぇや」
「そうですか」
昨夜、あんなことをしてしまったせいだろうか? 俺はやけにお喋りになってしまった。父親は、猫とプラモデルが好きだったこと。小さい頃はよく一緒に釣りに行ったこと。遺影にするための写真にろくなものが無くて、会社の集合写真を無理やり引き伸ばして使ったことを話した。
こんな下らない話を、千晴は時折相槌を打ちながら聞いてくれた。食後のコーヒーが尽きても、タバコを吸いながら、俺は話し続けていた。もう、話題が尽きて、俺が黙り込んだとき、彼は言った。
「ねえ、純。大学を卒業したら、一緒に暮らしましょうか」
「へっ?」
「僕と純なら上手くやっていけると思うんですよね」
「ってお前、家事とかできんの?」
「いやあ、全然」
「ダメじゃねぇか」
俺は笑った。すると、千晴がつんと俺の鼻先をつついた。
「やっと心から笑ってくれましたね」
「……そっか」
一緒に暮らす、か。悪くない。俺も、千晴とならやっていけそうな気がした。ただ、二人とも家事ができないのは問題だ。ゴミ屋敷になるのが容易に想像できた。
「なあ、千晴。今から練習しておこうか」
「何をです?」
「家事だよ家事。料理は……作れなくても何とかなるかもしれねぇけど。片付けくらいは、できるようになっておかないとな?」
千晴は、ぱあっと顔を輝かせ、俺の手を握った。
「はい。そうします」
そうして俺たちは、喫茶店を出て、別れた。もう、昼前になっていた。
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