09 母と息子
家に帰ると、母親が玄関で待っていた。
「ただいま」
そう言って靴を脱ぎ、家にあがると、母親が俺を無言で抱き締めてきた。俺は言った。
「焼肉食べてきたから、匂い移るよ?」
「いいの。お風呂まだだし」
そのまましばらくされるがままになっていた。俺は呟いた。
「……また心細くなったの?」
「うん」
俺は背が高くないが、それはきっと母親の遺伝だろう。彼女は百四十センチ台しかない。小さな身体に抱き締められていると、まるで親子が逆転したかのようだ。まあ、こういうことにももう慣れたが。俺はそっと母親を引きはがすと言った。
「お風呂、入ってきなよ」
「そうする」
母親はとぼとぼと浴室へ行った。俺は黒いダウンジャケットを脱いでリビングのソファに座り、父親を見つめた。
俺の父親は、俺が高校生のときに死んだ。遺影の彼は、まだ四十代だった。歳を取るごとに、俺は彼に似てきていた。一重の目。広い額。俺は遺影を手に取って、彼の顔をなぞった。
酒が足りない。
俺はダイニングテーブルに書置きを残し、コンビニに行くことにした。そこで缶ビールを一本買い、近所の公園のベンチに座った。ぐっと一気に半分ほど飲んだ。そして、タバコを取り出した。
なあ、全部お前のせいだぞ。
俺は紫煙を吐き出しながら、父親に言った。大学生にもなった息子を抱き締めてくる母親が異常であることを、俺はよく分かっていた。それでも、俺には何の選択肢も無かった。父親はもう居ないのだから。俺が彼女を守るしか無いのだから。スマホが振動した。俺は既読をつけないよう、ホーム画面で文面を見た。
『早く帰ってきて』
時刻は夜十時だった。もう少しくらい、ここに居てもいいだろう。俺はちびちびと缶の残りを飲みながら、タバコを吸った。そして、楓にラインを打った。
『ピアス買ったよ』
返事はすぐに来た。
『いつ空いてる?』
『明日とかダメかな? 俺は四限終わり』
『いいよ。終わったら、喫煙所で待ち合わせね』
俺は自分の耳たぶを触った。楓がここに触れてくれたときのことを思い出した。彼女の小さな手がまぶたの裏に浮かんだ。
『楽しみにしてる』
俺はそう送った。既読がついた。それ以来、返信は無かった。俺はゴミ箱に空き缶を放り込み、帰ることにした。
帰宅すると、ソファで母親がうつむいていた。手には遺影があった。
「遅かったじゃない」
母親は恨めしい目で俺を見上げていた。俺は彼女の手を取ると、そっと遺影を元の位置に戻した。
「俺、風呂入ってくるわ」
「そう」
シャワーを浴びながら、考えていたのは、やはり楓のことだった。明日会える。そのことだけが、今の俺を支えていた。タオルで身体を拭き、ジャージに着替え、リビングへ行くと、母親はまだソファに座っていた。
「純ちゃん」
母親が俺の名前を呼んだ。父親が死ぬまでは、呼び捨てだったのに。俺は彼女の隣に座った。
「母さん、もう寝ろよ」
「眠れそうにないの」
俺は母親の肩を抱いた。そして、幼子にするように、ポンポンと叩いた。彼女はつうっと涙を流し始めた。
「ごめんね、こんな母さんで」
「いいって。薬飲んだの?」
「まだ」
「早く飲めよ」
ソファから立ち上がり、俺は引き出しを開けた。
「ほら。はい」
「ありがとう、純ちゃん」
俺は母親の手を掴んで立たせ、ベッドへと連れていった。母親が眠るまで、彼女の部屋に居ることにした。彼女は言った。
「ねえ、純ちゃん。覚えてる? 恐竜博物館に行ったとき、迷子になったでしょう」
「覚えてねぇよ。いつの話だよ」
「純ちゃんが四歳のとき。父さんも母さんも、必死で探したなぁ……」
こうして昔話をしていると、母親はよく眠れるようだ。俺にとってはつまらないが、その話をしっかりと聞いてやった。そして、ようやく寝付いたのを確認して、俺は自分の部屋のベッドに仰向けに倒れ込んだ。
「クソ親父」
俺の呪詛は天井に消えた。本当は、違う大学に行きたかった。でも、一人暮らしをすることを母親が許さなかった。それで苦労して今のところに入ったのだ。父親は多額の保険金を残して死んだから、奨学金を借りなくて済んだのは皮肉な話だが。
楓の声が聞きたい。
でも、電話をする勇気など俺には無かった。他に電話ができる相手というのも居ない。千晴の顔がちらついたが、彼にいきなり電話をするのも変だろう。俺はまぶたを閉じた。眠れなかった。もっと酒を飲んでおけば良かった。
結局、俺は父親の部屋に行った。ここならタバコが吸えるのだ。父親の遺品はほとんど手つかずで、彼の趣味だったプラモデルが製作途中のまま、未だに机の上に放置されていた。俺は一服しながら、フラフラと部屋の中を歩いた。
なあ、父さん。俺、これからどうしたらいいんだよ。
もちろん答えなど返ってこなかった。全てが、俺自身が、自分で考えて、決めねばいけないことだった。
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