北風が太陽

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第1話

「名波さん」

「はい」

「先日の報告書の件でメールを送ってあります。至急チェックして下さい」

「はい、真壁課長代理」


 ランチから帰ってきた私に、温感低めな声が掛けられる。思わず縮こまりそうになるものの、気合で背筋を伸ばす。気分は北風に吹かれた旅人だ。

 隣にいた仕事の相棒、紺野幸はわずかに首をすくめるような素振りをして、同情のこもった視線をこちらに投げて自分の席に戻っていく。

 私は速やかに自分のPCに向き合うと、真壁さんから指定されたメールをクリックして内容を改めた。

 先日の報告書とは、客先から拒否された担当の代わりに私が引き継いで請け負っている仕事の……まあ言ってみれば顛末書だ。

 私の在籍する部署の業務は、客先に赴いて自社の提供しているパッケージの保守を行う。客先は主に中小企業で、PCを使っての作業がほどんどだ。

 そして何故か派遣される先々で問題を起こす特定の同僚の尻拭いを、私が担当する羽目に陥ってかれこれ一年になろうとしている。その間に私が提出した報告書は実に6件、平均すると2ヶ月に一度は他人の尻拭いをしている状況だ。

 ただ個人的にはこういう仕事は苦ではない。周りもそれがわかっているから「またか~」なんて言いながらも状況を見ている。

 それなのに何故周囲が私に同情的な目を向けてくるかというと……3ヶ月前に異動してきた課長代理、真壁静佳さんがとても仕事ができて……できすぎて、周りから畏れられているからに他ならない。

 彼女が異動してくるまでは、よく言えばアットホーム、悪く言えばなあなあだった我が部署の空気は一変した。

 真壁さんの「それ、必要ですか?」という善意も悪意もこもっていないひんやりとした無機質な質問は、課長のデスク横のゴルフバッグから男性更衣室のいかがわしい本までも駆逐した……らしい、と冗談交じりに囁かれている。

 乱雑だった各自のデスクは整理され、瞬く間にフリーアドレス制が導入され、出社が時間ギリギリになると快適な席が取れないせいで部署全体の出社時間が早まった。ちなみに真壁さん自身は定時の2時間ほど前に出社して業務に当たっている。

 仕事が恐ろしくできて愛想の欠片もなく、結果的に大鉈を振るう形になっている真壁さんを、周りの社員は心の底から畏れ、遠巻きにしているようだ。

 その真壁さんは、部署の問題児の仕事を引き継いでいる私にそこそこ厳しい要求をしてくる。それが、周りが私に同情的な目を向けてくる要因になっていた。


 私はと言えば、真壁さんを敬遠する気持ちは全くない。

 むしろとても好ましく思っている。

 ただとても気まずい。

 何故かというと、


『なな、大丈夫だった?』


 モニタの端っこにメッセージがポップアップする。

 幸が心配して様子を伺ってるみたいだ。


『うん、大丈夫。普通のメールだったよ』

『本当に? 代理、ななにはなんかつっかかってくる感じしない?』

『そうかな? みんなと変わらないと思うよ。ありがとう』


 みんなと変わらないと言いつつ、たまに真壁さんの当たりが強いと感じる時があるのは黙っておく。

 私は真壁さんが大好きだけど、真壁さんは私を忌避する理由があるからだ。

 普通に口をきいてくれるだけでもありがたいと思えば、ちょっとくらいの当たりの強さなんて全くと言っていいほど気にならない。

 私は報告書についての真壁さんからの質問に答えるメールに取りかかりながら、この気まずい関係の発端に思いを巡らせる。


 私が真壁さんを初めて見たのは、半年ほど前の社員研修を兼ねたセミナーだった。

 きびきびと我々平社員を引率する、当時主任だった真壁さんはまずその姿勢の良さが目を引いた。

 そして綺麗なお顔と、それを引き立てるような艶やかな長い髪と、スーツをびしっと着こなした細いラインはとても美しいと思った。

 よく通る透明な声も、綺麗さを際立たせる細いメタルフレームの眼鏡も、私の注意を最大限に引くのには充分だった。

 研修は1週間続き、その間彼女の頭の良さと仕事に対する判断力と、何よりシャープな思考回路に私はすっかり魅せられてしまった。

 気がついたら寝ても覚めても真壁さんのことを考えるようになってしまい、これはいかん、と意を決して研修の最終日に告白することにした。

 まぁ結果は惨敗で「よく知らない人の告白に応じることはできないしむしろ失礼」と言われてスタートラインにすら立たせてもらえなかった。

 悲しかったけど仕方がない。

 気持ち悪いと言われなかっただけましだ。

 幸い彼女と私の勤務地はそこそこ距離があり、顔を合わせる機会は全くと言っていいほどない。こうして儚く散った私の告白は、時と共に風化して忘れられていくはずだった。


 の、だが。


 出世街道を最短距離で駆け上っていくだろうという私の予想に反して、中央から逸れたこんなのんびりとした支社に真壁さんは異動してきたのだった。

 主任から一足飛びに課長代理だから左遷ではないはずだ。だけどよりによって、どうして私のいるこの支社に配属されてしまったのか。

 いち平社員には全く与り知らぬところである。


 真壁さんに要求されたより詳細な報告を記入し、これまた速やかにメールを送る。

 すぐに受け取りましたという返事が来て、仕事ができるひとは処理が早いなあと改めて実感しながら、私は午後の仕事に取りかかった。


 ◇


「だから杉本はー、ななに何でも頼りすぎなんだってば」


 週末、仕事帰りに2人で寄った小料理屋で、幸がビールをひと口飲むと自分のことでもないのに不満の声を上げてくれる。

 杉本は私と幸の同僚で、客先でうっかり口を滑らせては相手方を怒らせて出入り禁止になっている例の問題児だ。

 仕事はできないけど人はいいから、私は嫌いではない。


「いやー、杉本がっていうより、ね」


 私は杏露酒のソーダ割りが入ったグラスを空にしてから、キャベツたっぷりの豚玉お好み焼きに箸をつけた。少し焦げたソースの香ばしい匂いが食欲をそそる。

 杉本がやらかした交代要員で私が派遣された後、相手方が大変満足してくれたことに味を占めた課長が、杉本の教育を差し置いてそのパターンを繰り返しているのが問題だと思う。

 杉本がほったらかしになっているのは、奴がコネ入社なのと関係があると私は睨んでいる。

 いいからちゃんと教育してくれ。

 幸が顔をしかめるのとほぼ同時に、私のスマホが助けを求めるように小さく振動する。仕事用の。

 確認すると噂の杉本からで、明日から始まる新しいキャンペーンのデータが見つからないという、かなり焦った感じの内容だった。


「ちょっと会社戻るわ」


 お好み焼きを口に詰め込み始めた私を、幸が横目で見てくる。


「杉本が、っていうより、何?」

「やっふぁりふぎほほのへーかも」

「やっぱり杉本のせいでしょ?」

「ふぐぅ」


 だからと言って無視できない。

 だって困るのは杉本ではなくお客さんなのだ。私が動けば解決するのが目に見えているなら動きたいし、動くべきだろう。


「ななは見た目に寄らず社畜だからなぁ」

「社畜言うな」


 お会計の準備をしながら、幸が呆れたように肩をすくめた。


 会社に戻ると、杉本は自分の席で所在無げに座っていて、私の姿を見ると嬉しそうに顔を輝かせた。

 うん、悪意は持ってないんだ、それがよくわかるから憎めない。

 データの格納場所を念入りに説明して、明日の客先に持って行く資料の準備を手伝って、最近はうまくいくことが多いから大丈夫、自分を信じてがんばって、と励ますと、安心したのかようやく杉本の表情が明るくなる。

 ななさんわざわざ戻って来てくれてありがとう、と何度もお礼を言って、杉本は帰っていった。

 明日がんばるんだよ。

 心の中でエールを送ってひと息つくと、時間は20時を回っている。なんだかんだで1時間くらい面倒を見ていた計算だ。

 ちらりと真壁さんのデスクを見ると、まだPCの電源はついたままだ。

 あの美麗な姿が見れずに残念なような、ホッとしたような微妙な気持ちを持て余しながら給湯室に行く。コーヒーの一杯くらいは許されるだろう……許されるよね?

 電気ケトルのスイッチを入れ、自分のマグカップに手をかけようとしたところで声を掛けられて小さく飛び上がった。


「まだ誰かいるの? ……名波さん? 今日はもう、退社したんじゃなかったの」


 声を掛けたのがそのひとでなければこんなに驚かなかっただろう。

 特徴のあるその声だけで、それが誰だか振り向かずとも分かってしまう。


「おつかれさまです。ちょっと所用で」


 気まずさを押し殺しながら振り向くと、いつも通りきちんとスーツを着こなした真壁さんが立っている。腕を組んでいるのは不機嫌さの表れだろうか。

 真壁さんがこの支社に来てから、一対一で向かい合うのは初めてだ。こうやって話すのも。

 改めて、見た目も好みだし、仕事ができるところもいいし、胸の奥に触れてくるような声も好きだと実感する。……多少、冷たく感じることもあるけど。


「また、杉本さん?」

「あー、ええっと、まぁ……そんなところです」


 課長代理だから把握していて当たり前なんだけど、真壁さんをしてまたと言わしめるほど、杉本が私を頼り切っているのが知れ渡っていて肝を冷やす。

 個人的には杉本のことは好きでも嫌いでもないけれど、こういう時は何となく庇いたくなるのが人情だ。


「名波さん、杉本さんの仕事、ずいぶん助けてるのね?」

「はぁ、まぁ成り行きで……?」


 真壁さんの綺麗な眉間がひそめられる。

 お節介しすぎだと判断されて怒られるんだろうか。


「どうしてそんなに杉本さんのこと助けるの?」

「いや、ほっとけなくて」


 杉本が担当するお客さんを、だけど。


「……好きなの?」

「はい?」

「杉本さんのこと、好きなの?」


 ん?

 杉本が好きかって?

 いやいやいや、確かに守ってあげたい女性ランキングでは上位に来そうなくらい可愛いけれど、残念ながら私の好みじゃない。

 だいたい、半年前とはいえ、私、あなたが好きだって告白してるんですけど。

 振られたけど。

 振られましたけど!

 ちょっと腹が立ったので心の中でニ回唱えてみる。

 仕事に私情を挟んでほいほい尻拭いしてると思われるのも腹が立つ。


「いえ、全然ですけど」

「じゃあなんでいつも助けてあげてるの」

「そりゃあ同僚ですし、業務かぶってますし」

「だからって一旦退社したのに戻ってきて助けるなんて、やりすぎじゃなくて?」


 真壁さんの口調がどんどん冷たくなる。

 いや、おかしくない?

 そもそも杉本の教育をちゃんとやり直してくれれば私だって尻拭い専門みたいにならなくて済んだはずだ、つまり私被害者ですよね?

 なのでつい、言ってしまった。


「いけませんか」

「ええ」

「どうしてですか?」

「私が嫌だから」


 ん?

 真壁さんが?

 なんで?


「嫌って……なんでですか。だいたい付き合ってるわけでもないのになんでそんなこと言われなきゃいけないんです」

「じゃあ付き合う」

「じゃあって……ん? え? あの……えっ?」

「付き合ったら、言ってもいいんでしょう?」

「いやいやいや、付き合うって、何するか分かってます?」


 心の底からびっくりして、何か勘違いしてるんじゃなかろうかと思わず確認してしまう。

 でも、私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、スーツの襟を掴まれて引っ張られた。

 油断していた私はたたらを踏んで、足元に気を取られているうちに唇にとても柔らかくて幸せな感触が押しつけられる。

 そのひとの態度と裏腹に、温かい唇だった。

 しばらくして離れていくキスがとても寂しい気持ちにさせるくらいには真壁さんが好きだ。


「いや、えー? あれ?」

「……これでいいんでしょう?」

「えっと……んん?」


 混乱している私に、たたみかけるように言葉が投げつけられる。


「付き合うの、付き合わないの」

「アッ付き合います……」

「じゃあ抱きしめて」


 睨みつけるような眼光に不釣り合いな赤く染まった頬が可愛い。

 私はおずおずと手を伸ばして、その細い体をそっと引き寄せて腕の中に閉じ込めた。

 あれ?

 振られたんじゃ、なかったっけ?

 ぐるぐる回る疑問は、私の体に柔らかく回された腕の感触で隅に追いやられていく。

 だって、すごく、嬉しいし。

 他のことは、腕の中の温もりに比べたら些末なことでしかなくなっていった。




 ちなみに後日聞いてみたら、ここの支社に異動になったのは真壁さんが希望を出したからだそうだ。

 前々から本社に行く前に実績を作るように言われていて、問題のある(……)支社で手腕を発揮するようにというお達しだったらしい。

 しばらくして現課長は地方に左遷になり、真壁さんは課長になり、私は平社員からちょこっとだけ格上げされてチームリーダーになった。

 杉本は客先に赴く仕事から内勤になり、本人も幸せそうに仕事をしている。うっかりはまだあるけれど、だいぶマシにはなってきてるみたいだ。


「なな、最近紺野さんと一緒に居すぎじゃない」


 仕事の後に会社の外で待ち合わせて、並んで歩く真壁さんが冷たい声でそう尋問してくる。


「だって業務一緒だし、サブリーダーだし、しょうがなくない?」

「しょうがなくない」

「ええ……」


 これは拗ねてるな。

 今日ランチを外で一緒に食べられなかったからか。

 そのうち幸には真壁さんのことを言わなきゃいけないかもしれない。


「だいたい仕事中に仮にも上司を下の名前で呼ぶなんて」

「いや、そこは苗字を縮めて呼んでると思えばいいのでは?」


 私の苗字は名波だけど、下の名前は「なな」という。親になんて名前を付けてくれたんだと文句を言ったら、わかりやすくていいでしょ、と面倒くさそうに返された曰くつきの名前だ。

 名波なな。逆から読んでも……いや、やめよう。

 真壁さんはちょっと口を尖らせて明後日のほうを向いている。そんな顔も可愛い。

 予約していた蕎麦屋に入って、お冷を持ってきてくれた店員さんがごゆっくり、と声をかけて居なくなって個室でふたりきりになってもまだご機嫌斜めみたいだ。


「ねぇ、そんなに怒らないで」

「別に怒ってなんて」


 私は身を乗り出して、テーブル越しに真壁さんにキスした。

 無言の不意打ちに、真壁さんが赤くなったのが至近距離で見える。

 キスがちょっとだけ離れて、私はそっと真壁さんに囁いた。


「名前で呼んでるのは静佳さんだけだって、そう思ってるから。ね?」

「……ばか」


 小さな罵りの言葉は照れ隠しだってわかってるから、私は満足して座り直す。

 わざわざ私のことを知るために、私のいる支社に異動願いを出してくれたこのひとを大事にしたいし、甘やかしてあげたいし、たくさんキスしたいし、抱きしめたいと思う。

 真壁さんはお品書きを開いて、私の視線を遮るようにその影に顔を隠してしまう。

 そんなところも可愛い。


「今日」

「ん?」

「……泊まっていって」


 お品書き越しのおねだりに、自然と笑顔になってしまう。


「もちろん、ご希望通りに」


 私がうやうやしく答えたら、真壁さんがちらりと目だけでこちらを覗くのが見えた。

 それが可愛くて、心があったかくなって、顔がますますにやけちゃうのはしょうがないよね?

 私にとっては、真壁さんは間違いなく太陽なんだから。





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