パンドラの匣(短編集)

ちくわ天。

パンドラの匣

「何だよ、全然読まれてねえじゃん」


 4ヶ月前に書き始めた小説。

 今日1日でついたプレビューは27だ。

 好きで書いている小説でも、才能がないと言われているようなものだ。


 近況ノートを書き、エピソードの内容を考える。

 楽しい物語になったと自分では思う。

 そしてアップし、翌日、仕事から戻ってくるとほとんど読まれていない。

 何度、同じ日々を過ごしたことだろう。


 6畳のワンルームマンションには、物なんてほとんど置いてない。

 仕事に行って疲れて帰ってくるだけの毎日。

 フローリングの床は掃除されることもなく、茶色の床が少し灰色がかって見える。


 仕事は1ヶ月で嫌になった。

 大学時代とあまりにも違う生活が息苦しかった。

 それでも、石の上にも3年とか、優しい先輩に励まされて、何とか続けてきた。

 気がつけば、入社してから10年が過ぎていた。


 久しぶりに郵便受けに入っていた葉書に手を伸ばす。

 周りから少しずつ結婚の便りが届き始めていた。

 その葉書を眺め、幸せのおこぼれにあずかろうとするのだが、逆にみじめになるだけで、すぐに葉書をゴミ箱へ放り投げる。


 レンジのチーンという音が響く。

 近くのスーパー「マルカツ」の格安弁当が俺の身体を作っている。

 運動もせずに過ごした10年。

 順調に健康診断の結果は悪化していった。


「熱っ!」


 ぼんやりしていたせいだろう。

 膨らんだビニールが指にまとわりついてきた。

 今日はついてないな……。

 いや、今日もか。


 プラスティックの蓋をあけると、小さな湯気が立ち上る。

 悪い油で揚げた茶色いコロッケの匂いが鼻腔に入り込んでくる。

 こんなとき、ご飯からそういう匂いがするのはなぜだろう。

 ホクホクではなく、しんなりとしているコロッケを箸で2つに分け、片方を目の前まで持ってくる。

 熱さを警戒しながら、そろりと口に運ぶ。


「熱っ! 何だよ!!」


 口に軽いやけどの痛みを感じつつ、そのまま夕食を食べ進める。

 油くさいご飯にも、もう慣れてしまった。

 これまたしんなりした緑のレタスは、身体にいいだろうと思いながら毎回食べている。

 でも、こんな2きれで何が変わるだろう。

 消費税込み398円の弁当に、タニタ食堂ばりの健康改善なんて期待してはいけない。


 口に割箸をくわえたまま、リモコンでテレビをつける。

 別に見たい番組があるわけじゃない。

 ただ、音がないと寂しさが募る。


 赤いウインナーも、黄色い長方形の卵焼きも、これまでどれだけ食べたことだろう。

 こんなに食べているのに、味の感想は何も残っていない。


(俺の小説みたいだな)


 すぐに弁当を食べ終わり、また机に向かう。

 きっといい小説がかけるだろうと、少し奮発した椅子。

 人間工学に基づいて発想力を上げるらしいのだが、その効果はこれまで全く現れていなかった。


(あ、この人。またハートマークをつけてくれてる)


 最近は読んでくれているのか、それとも仕事のようにマークをつけているのか分かるようになってきた。

 当然、俺の小説は仕事のマーク付けがほとんどだ。

 それでも、全くないよりはいい。

 少なくとも、その人は俺がここにいるのを知ってくれている。


 きっと画面の向こうの人たちも、レビューのお礼をしなくてはいけないと思っているのだろう。

 でも、俺たちにそんな余裕はないよな。

 そう思いながら、自分も相手の小説にとび、仕事をする。


 相手の小説をきちんと読み、律儀にその感想を書いていたことがある。

 その作業を終えるまでに2時間を費やした。

 さらにレビューを書くと1人につき1時間が上乗せされた。

 残業を終えて、帰ってくるのは夜の8時。

 夜の11時からの創作活動は無理だと、すぐに止めてしまった。


 新しいエピソードをアップすると、すでに次の日になっていた。

 今日は書類の提出があるから少し早く電車に乗らなくてはいけない。

 目覚ましは6時ちょうどに合わせる。

 何度洗っても頭の脂の匂いがとれない枕を手元に引き寄せ、畳まれることのない布団に身体を横たえる。


 同期のサイトウは、もう係長になっている。

 課長だって俺とそんなに歳は離れてない。

 そんなに優秀とも思えない人たちが、どんどん階段を上がっていく。


 自分だけがその階段を見つけられずに、ただ立ち止まっている。

 仕事は好きじゃないと言い訳しても、好きな小説だって一歩も階段を上がれていない。


 そんなことを考えながら、ずっと天井を睨んでいた。

 横に置いているスマホを見ると、LINEにメッセージが残っていた。

 課のタチバナさんからだった。


「書類、大丈夫だったか? 明日、俺も手伝うよ。お疲れ」


 彼だけが出来の悪い俺の面倒を見てくれている。

 彼はずっと平社員のままだった。

 もう40代半ばになるだろう。

 少しずつ髪に白いものが目立っている。


 俺はタチバナさんが好きだ。

 でも、いつも自分のフォローをしてくれるこの優しい人を、俺は心のどこかで蔑んでいる。

 俺は、そんな自分が心底、嫌いだ。


 俺はスマホの画面を消す。


 俺もあと10年もすればタチバナさんのようになる。

 いや、俺はタチバナさんのように優しくなれない。

 駄目な先輩のくせに駄目な後輩を責めてしまいそうだ。


 どうせ眠れないからとパソコンを立ち上げ、自分の小説のワークスペースを確認する。


(プレビュー3か……)


 エピソードを公開してから1時間たつ。

 世界で3人の人が、自分に気がついてくれている。


(あれ?)


 珍しくエピソードに応援がついていた。

 何気なくクリックする。


「今回のお話、素敵ですね。いつも応援しています」


 時々、コメントを書いてくれるミスズさんからのメッセージだった。

 それを何回か読み、立ち上がって部屋の窓を開ける。

 窓の外には灰色のマンションの壁しか見えず、空はほんの少ししか見えなかった。


(本当は、広い空がそこにあるのになあ)


 すぐに窓を閉め、お礼のコメントを書こうとする。

 でも、今夜にしようと考え直す。


 パンドラが犯した一番の罪は希望を残したことだと、本で読んだことがある。

 全くその通りだと思う。

 パンドラが希望を残さなかったら、人はすぐに諦めることができるのだ。


 俺はそうしたい。


 でも、心の中に残ったパンドラの残滓が俺を苦しめる。

 その何かが自分に立ち上がれと言っている。


 スマホを拾い上げ、画面のLINEメッセージを眺める。


(タチバナさん。アールグレイミルクドーナツが好きだったな)


 会社近くのスターバックスは朝から営業している。

 そこでドーナツを買っていこう。

 タチバナさんは俺よりも出勤が早い。

 きっと笑ってくれるだろう。


 パソコンの画面を落とす前に、もう一度ワークスペースをクリックする。

 モニターにはプレビュー8の数字が青く光っていた。

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