第37話

「――そう、黒野さんから聞いたのね」

「はい、どうしても変更はできないんですか?」

 その日の放課後。俺は職員室に戻る途中の山下先生を呼び止めて、金曜日に行われる生放送の出演者を変更するように説得をしていた。

「聞いているなら分かっていると思うけど、もう告知はされているし変更するにしても、学校側の許可も必要なの。それにラジオ局側のスケジュールだってあるわ。今から手続きしても間に合わないわよ」

 放課後に職員室の前を通る生徒は少なく、ドアから離れた場所で俺と山下先生は二人だけで向かい合っている。

 ファイルを片手に持った、四十代半ばの女教師である山下先生は、俺の急な説得にも嫌な顔を見せず耳を傾けてくれている。

「先生こそ、黒野の事は分かっていますよね?」

 以前、黒野本人が説明してくれた、放送部に入部した動機。それを山下先生は知っているはずだ。

「えぇ、分かっているわよ」

「だったら、今の黒野には荷が重いって思わないんですか?」

 年齢的に、二十年ぐらい教師を続けているであろうベテラン教師に、俺は黒野にとっては難題とも言える役目を押しつけた真意を問いかけた。

「だからこそよ。あなたも、黒野さんの事は知っているんでしょう?」

 俺の問いかけに、毅然とした態度で答える山下先生。その言葉は自信とも確信ともとれる雰囲気が含まれていた。

「どういう事ですか?」

「黒野さんは、苦手を克服するために放送部に入ったのよ。だったら、その手助けをするのが教師の役目でしょ」

 山下先生の話を聞いて合点がいった。

 黒野は、入部した際の自己紹介では、人と話すのが苦手としか言っていない。つまり過去に起きた事までは話していないんだ。

 山下先生は、トラウマのせいで黒野が人と話せなくなった事を知らず、ただ苦手だから克服したいとしか認識していないんだ。

「毎日校内ラジオを頑張っているのは知ってるわ。だけど、いつもと違う環境で話す事は、黒野さんにとって良い経験になるはずよ」

 真相を知らない山下先生は、本当に黒野のためになると思い、生放送の出演者に抜擢したんだ。

「ですが……」

 反論しようとしたが、言いかけて止めてしまった。

 人の過去やトラウマ。それは、人にとってデリケートなものだ。それを俺が、勝手に話す事はためらわれる。

「黒野さんにとって、ラジオに出演する事が重荷なのは分かっているわ。だけど、苦手を克服するためには、時に背中を押してあげる事も大事よ」

 言いたい事は分かる。考えている事も正しい。だけど、それは全ての人に当てはまる事ではない。

 確かに、苦手を克服するには経験を積んで、慣れていく事で克服につながるだろう。だけど、黒野の場合はそれに当てはまるとは思えない。

 人と話すのが苦手なのは、トラウマが原因だ。これは、黒野本人がトラウマを乗り越える事が克服の手段だ。

 トラウマを抱えたまま生放送を迎え、大勢の前で話せないなんて事になれば、さらにトラウマを強める事になりかねない。

「もういいわね? あなたも黒野さんを応援してあげてね」

 そう言って、山下先生は職員室に向かっていった。

 俺は、黒野の過去を話す訳にもいかず、山下先生の言葉を反論できないままそれを受け入れるしかなかった。

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