第3話 妹と口止め料

 夜、夕飯を済ませた僕は、家にある自分の部屋にて、ベッドで寝転がっていた。


 手にはスマホがあるものの、ホーム画面のままで、指がまったく動かない。


「明日、学校か……」


 当たり前のことをつぶやきつつ、頭では、今日のことを考えていた。


 大野さんが弥市に告ることをどうにかするべきか。


 いや、どうにかしなければ、須和田さんが電車に飛び込むかもしれない。冗談だと思いたいが、ほんの僅かの可能性がありそうに感じてしまうのがもどかしかった。


 なので、色々と考えすぎていて、ノックする音が聞こえなかったらしい。


「お兄ちゃん?」


 気づけば、ドアが開いた隙間から、妹の果歩が顔を覗かせてきた。


 僕は起き上がるなり、目を合わせる。


「お風呂?」


「うん、お風呂」


 果歩はうなずくなり、ゆっくりと部屋に入ってくる。


 見れば、中学二年で小柄な果歩は、パジャマ姿で髪がまだしっとりと濡れていた。シャンプーやリンスの香りが漂ってきて、僕の鼻孔をくすぐってくる。


「もしかして、今出たばかり?」


「うん」


 こくりと首を縦に振る果歩。とりあえず、風呂が空いたということのようだ。


「じゃあ、入るか」


 僕は言うなり、ベッドから出る。


「ところで、お兄ちゃん」


 不意に、果歩が僕の袖を掴み、呼び止めてくる。


「どうかした?」


「お兄ちゃん、今日公園で誰かと話してた」


「ああ、まあ、確かにそうだけど」


 僕がぎこちなく曖昧な返事をすると、果歩は手の力を強めてきた。


「会ってたの、大野さんだった」


「もしかして、果歩、近くにいた?」


「ずっと見てた」


 妹の答えに、僕は内心困ってしまう。


 果歩は大野さんのことを嫌っているようだった。おそらく、僕が振られたことを知ってからだ。


「お兄ちゃんと大野さんが何を話してたのか、果歩は気になる」


「いや、特に大した話は」


「お兄ちゃんにとっては大した話でなくても、果歩にとっては重要な話」


 果歩の言葉に、僕は頬を掻きつつ、悩んでしまう。


 おそらく、果歩にとっては、大野さんが僕と話していたこと自体が許せないのだろう。だから、内容は何であれ、関係ない。


「まあ、そのう、大野さん。好きな人ができたらしくて」


「それでお兄ちゃんに相談……」


 果歩は口ごもるなり、俯き加減になってしまう。僕は誤解しそうだと察して、慌てて付け加える。


「いや、相談とかじゃなくて、何だろう、とりあえず、明日告るらしいから、それで上手くいくか不安だったみたいで、それで、誰かに話せば少しは不安が取り除けると思ったらしくて、で、それでたまたま通りかかった僕と話して」


「お兄ちゃん」


「何? 果歩」


「お兄ちゃんは大野さんと関わっちゃダメ」


「何で?」


「大野さんだから」


 もはや、大野さんの存在自体が果歩にとってはダメなようだ。


 僕としては、あまり嫌ってほしくない気持ちがある。お互いに一度もまだ会ったことないからだ。


「あのう、果歩。僕が振られたのは単に、一方的な片想いだったというだけで、大野さんは何も」


「お兄ちゃんを振ったっていう時点で、悪いのは大野さん」


 果歩は僕の袖から手を離すと、正面に回り込んできた。


「だから、そんな大野さんとお兄ちゃんが会っていたこと、果歩は悲しい」


 見つめてきた果歩の瞳はうっすらと潤んでいた。


 僕はため息をつくと、おもむろに果歩の頭を軽く叩く。


「僕は別に、大野さんのことを嫌ってなんかない。振られたのも、まあ、仕方ないかなって思ってるし」


「お兄ちゃんは優しすぎ」


 果歩は指で涙を拭いつつ、不満げにつぶやいた。


 僕は「かもね」と相づちを打ちつつ、笑みをこぼす。


 本音としては、大野さんを嫌いになってほしくない。


 なので、いつかは大野さんと果歩を会わせて、一方的なわだかまりをなくしてほしいなと。


 でも、そこまでどう持っていくかは悩みの種だった。


「お兄ちゃん。電話」


 果歩の声に、僕は振り返ると、ベッドに置いてあったスマホが震えていることに気づく。


 僕が慌てて取ると、画面に映っていたのは弥市からの着信だった。


「もしかして、大野さん……」


「いや、違う。弥市だね」


 僕が答えると、果歩は安堵をしたかのような表情を浮かべた。


「弥市先輩なら大丈夫」


 果歩は口にするなり、ドアを閉め、何事もなかったかのように部屋から立ち去ってしまった。


 僕は妹がいなくなったことを確かめると、電話を繋ぐ。


「拓斗。遅い時間の電話にすまない」


 聞こえてきた弥市の声は申し訳なさを漂わせていた。


「ちょっと相談事があって」


「何?」


「いや、実はその……」


 弥市はどこか言いづらそうな調子で口ごもってしまう。


 僕は何だか嫌な予感がしてならなかった。


「須和田さんと何かあったとか?」


「いや、特に何かあったというわけではなくて……。そのう、まあ、うん。今から言うことはここだけの話に留めておいてほしい」


「わかったけど、その話って?」


「実は、彼女ができた」


 弥市の告白ははじめ、僕にとって、どう受け止めればいいのかわからないものだった。


「彼女、ね」


「そう、彼女ができた」


「おめでとう」


「ありがとう」


 僕が褒め、弥市が感謝を述べるというやり取りの後、お互い沈黙の間が空いた。


「そのう、相手って、須和田さん?」


「……」


 返事がない弥市。同時に、僕の予想はハズレだとわかった。


「曽谷先輩」


「曽谷先輩って、もしかして、生徒会の?」


「うん」


 肯定の返事をする弥市。


 もしかしたら、大野さんが告って成功したのではという予想も違っていた。


「曽谷先輩か……」


 僕は口にしつつ、おもむろにため息を漏らしてしまう。


 曽谷先輩こと、曽谷千春は二年の生徒会副会長だ。で、次期生徒会長とも噂されている人だ。


「ちなみにどっちから?」


「まあ、自分からで」


「それはその、改めておめでとう」


「ありがとう」


 ぎこちない弥市の言葉から、素直に嬉しさを表せない心境が読み取れる。


「拓斗。一応、聞いてもいい?」


「何?」


「楓が自分のことを好きだったの、いつから知ってた?」


 唐突な質問に、僕は驚き、いや、落ち着こうとベッドに腰を降ろした。


「いつからって、まあ、夏休み前からかな」


「そっか……」


 弥市の反応も無理はない。友人として、今まで黙っていたのだから。


 けど、好きだという気持ちは僕からでなく、直接本人からが望ましい。だから、色々と背中を押したりしたのだが、須和田さんはなかなか動けなかった。断られるかもしれない不安や恥ずかしさで。大野さんに振られた僕からすれば、しょうがないと思っていたけど。


「でも、まあ、教えてくれなくて正解だったよ」


「ごめん」


「謝ることないよ。もし、楓の気持ちを知っちゃったら、自分としては複雑な気持ちになっていたから」


「もしかしてだけど」


「何? 拓斗」


「曽谷先輩を好きになったのって、夏休み前から?」


「そうだね」


 弥市の声に、僕は「なるほどね」とうなずき、ベッドに再び寝転がる。


「ということは途中から須和田さんの気持ちに気づいてきたと」


「そうだね。だから、一緒に登下校する度にどうしようかと悩んだりして、いっそのこと自分が曽谷先輩のことを好きだということを伝えようともしたけど、やっぱりやめちゃったりして、それで、時間だけが過ぎていって……」


「で、曽谷先輩に告ったんだ」


「そうだね。だけど、まさか曽谷先輩がオッケーしてくれると思っていなくて」


「それは結果オーライってことで」


 僕は言いつつ、内心では須和田さんや大野さんのことが気になり始めていた。


「で、相談事っていうのは曽谷先輩とどう付き合っていけばいいか、人生で未だ彼女ゼロの僕にアドバイスがほしいとか?」


「拓斗はそういう自虐的な癖、なくした方がいいと思うよ」


「いや、今のは事実を述べたまでだから」


「拓斗らしい」


 スマホから、弥市の含み笑いが響いてきた。


「まあ、でも、残念ながら、そういう相談事ではなくて」


「須和田さんのこと?」


 僕の指摘に、「正解」と返事をする弥市。


「実は今日も帰りが一緒だったんだけど、その、曽谷先輩と付き合うことになったこと、まだ伝えられていなくて……」


「まあ、そうだろうね」


 僕は納得をしつつ、照明が灯っている部屋の天井をぼんやりと眺めた。


「だから、そのう、あまりにも身勝手なことは承知の上なんだけど、どういう風に楓に伝えればいいか、悩んでいて……」


「それは悩むだろうね……」


 口にした僕はベッドで仰向けになりつつ、頭を巡らす。


 須和田さんにとって、弥市に彼女ができたことは受け入れがたい事実のはず。


 何せ、告ろうとする大野さんを説得してほしいと頼んできたくらいだ。


「まあ、ここは二人っきりの時間を設けて、ちゃんと曽谷先輩と付き合い始めたことを伝えるしかないかなって」


 僕の回答に対して、弥市は反応がなかった。


 しばらくしても声がなかったので、通信が切れたのかと思ったくらいだ。


「弥市?」


「ああ、ごめんごめん。そうだね。やっぱり、真摯に向き合って、ちゃんと伝えるのが一番いいだろうね。変に小細工とか、遠回しな言い方をしても、かえって、楓を傷つけるだけだと思うし」


「そう、だね」


 僕はただ、相づちを打つことしかできなかった。


「ありがとう、拓斗。色々と決心がついたよ」


「いや、僕は特に何も」


「そこは遠慮しなくてもいいと思うけどね」


 そして、弥市は続けて、「後、遅くまで付き合わせて悪かった」と言い残し、電話を切った。


 弥市の通話が切れたスマホの画面を見つつ、僕はぼんやりとしてしまった。


「いや、本当に僕は何もしてないんだけど……」


 したことはせいぜい、弥市の話を聞き、受け答えしたくらい。どう須和田さんに伝えればいいかの話も、弥市ならすぐに思いつく内容だ。


 ただ、自分だけだと決心がつかないので、友人のひとりである僕に電話をしてきたのだろう。もし、出なければ、他の友人に連絡をしたかもしれない。


「つまりは、僕でなく、話せる相手なら、誰でもいいってことか……」


 僕はつぶやきつつ、公園で会った大野さんと同じだなと不意に感じた。


「さて、風呂にでも入るか」


 僕はスマホをベッドに置き、改めて立ち上がると、とある方向の視線に気づく。


「お兄ちゃん」


 見れば、ドアが開き、再び果歩が顔を覗かせてきた。


「果歩、もしかして、ずっと聞いてた?」


 僕の問いかけに、こくりとうなずく果歩。


「ちなみにどこまで聞いてた?」


「弥市先輩、楓先輩じゃない人と」


「うん、わかった」


 僕は果歩の言葉を制するなり、頭を抱える。


 果歩は弥市や須和田さんのLINEとか知っているので、ちょっとマズい。


「とりあえず、そのう、ここで話していたことは聞いていなかったということで」


「わかった」


 首を縦に振る果歩。だが、素直に受け入れてくれたかどうか、何となく不安だ。


「果歩。今度の日曜、何か奢るから」


「スペシャルフルーツパフェ」


「えっ?」


「インスタで有名って、クラスメイトのみんなが言ってた」


 確か、千五百円くらいだったはずだけど、断るわけにもいかない。


「わ、わかった。それを奢るってことで」


「やった」


 弾んだ小声とともに、小さくガッツポーズをする果歩。よほど嬉しかったらしい。まあ、口止め料としては致し方ない。


 果歩が再びいなくなり、二階から一階に降りる階段の足音を確かめた後、僕はため息をつく。


「そういえば、大野さん。このままだと明日、弥市に振られるってことか……」


 僕はつぶやくなり、真っ暗になったガラス窓を見やる。明日がやってくることに対して、憂鬱になってきた。


「振られることが本人よりも先にわかってるのって、何だかなあ……」


 僕は気が重くなり、その後、風呂に入ってからも大野さんのことが頭から離れなかった。

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