第3話:希望の星
マリーとエリイの発声訓練開始から二週間が経過した。
朝。窓を開けて空気を入れ換え、身支度を済ませ朝食を済ませると窓へ向かって叫んで、喉を柔らかくする。
一通り全力で叫び終わったら蜂蜜入り紅茶を呑んで喉を潤し、マリーはベッドに横になり大声で聖書の一節を叫ぶ。横になれば自動的に腹式呼吸となり、より大きな声が出せる。
部屋の雑巾がけをしながらも詩を朗読し、床をゴロゴロ転がりながら大声で何篇もの詩を詠んだ。
昼食を済ませると部屋に飾られた十字架へ膝をつきながら賛美歌を歌う。もちろん全力の大声で。
女二人が膝をつきながら手を組んで十字架へと歌を叫んでいる姿は、まさに狂気の沙汰にしか見張りの衛兵達には見えなかった。
「あああああ~~~~い~つくし~~~み~ふか~~~~き、と~~~~もなるイエスはあ~~~!」
「ちゅ~~~み、とが、うれい~~~を、ちょ~~~りさりちゃもう~~~~」
まだ舌っ足らずではあったが、二週間前よりマリーは確実に声量が大きくなってきた。
喉が開き、腹筋と肺を使って叫ぶと、確かに心の奥底に澱のように溜まっていた汚れが消えていくのをマリーは感じた。
酷使された喉と腹筋は痛かったが、不快な感覚ではなかった。まるで夜会にてテンポの速いワルツを一晩中踊り明かした時のような心地よい疲れが身体を満たしていく。
見張りの衛兵を初め、どうやら町の民衆は塔の中の姫が発狂して毎日叫んでいると噂しているらしいが、マリーはそんなこと気にしなかった。
お父様とお母様を殺した民草など、殺意すら抱いている程なのだ。狂っていると思えば思え。
「あ”あ”、ぎょうもよくじゃけびましたね」
エリイが汗を拭きながらがびがびになった声を発する。マリーは苦笑して、蜂蜜入り紅茶を差し出す。エリイはわずかにお辞儀して紅茶を受け取り、少し音を立てて飲んだ。
そのエチケット違反にマリーはもう怒る気にはなれなかった。
このエリイという女は色々な意味で破天荒であったからだ。
「マリー様、床を転がりながら詩を詠みましょう」
「マリー様、横になりながら聖書をお読みくださいませ」
「マリー様、ストレッチしながら大声でおしゃべりしましょう」
いくつものおかしな提案を出され、マリーがノン! と言ってもなんやかんや言い訳してエリイは押し通る。
一つだけ、夜も大声で叫ばれてはたまらないと衛兵が言ってきたので、日が沈んだら窓を閉め、聖書を朗読し、ぴょんぴょん跳びはねるめちゃくちゃなダンスを踊りながら美しい詩を詠んだりといったことを寝るまでした。
まあ、さすがに跳びはねると下の階にドッスンドッスン響くので、これも禁止されたが。
「エリイ、ねる、の?」
「いいえマリー様、まだ月が低いですわ。今日は星のお話をいたしましょう」
エリイは寝る前に必ず美しい詩を読み聞かせてくれた。
今日の詩は、星に関する詩だ。
――星がひとつほしいと祈り
――おお、神よ、星を一つ取りに行かせておくれ
――きっと私の病める心をなだめてくれるその星を
――でもあなたは、私が星を取るのを望まない
――あなたはそれを望まないし、あなたはこの人生で私への少しの幸福も望まない
――見よ、私は不平は言わない。そして恨むこともせず嘲ることもせずに耐えている
――二つの石の間に隠れた、血だらけの鳥のように
「ど、どうして?」
マリーがベッドで枕を抱きながら、詩を詠うエリーに問う。
「どう、して、お星様、を取るのを望まないの?」
マリーの素朴な疑問に、エリイは優しく微笑む。
「マリー様、そのお星様は一体なんだと思いますか?」
「え、えっと……」
マリーは少し考え、そしてこう答える。
「……
「希望……素敵なお言葉ですわね。でも、お星様の中には凶星と呼ばれるものもありますよ」
すう、とエリイは息を吸い、詩の続きを読む。
――ああ、私に言っておくれ、その星は「死」なのだろうか
――それなら、私にその星を与えておくれ
――お腹をすかせている貧しきものに、一つのパンを与えるように
――神よ、私は、足の折れたロバと同じだ
――お与えになったものを引き下げるとは、ひどいことだ
――まるで心の中を、恐るべき風が通り過ぎるように感じる
――この病気を治すにはどうしたらいいか?
――神よ、あなたはそれを知っているだろうか?
「……この、神様、は、わざと意地悪、をしているの?」
マリーが小首を傾げながら疑問を口にした。ブラッシングを終えた金髪は二週間前より艶やかに輝いている。
エリイは詩集を手にしたまま柔らかく答える。
「神は人類皆を愛しています。この詩に出てくる少女も神に愛されているのです。でも、愛を感じ取れない不幸な方がいるのもまた事実です」
――思い出してほしい、神よ
――私が幼かったとき、母が静かに燭台を整えているあなたの飼い葉桶の近くへ、私がヒイラギの枝を運んだことを
――私がしたことを 少しばかり返してもらうことはできないだろうか
――もしもあの星が私の病める心を治せると思うなら
――神よ、あれを私にくれないか
――なぜなら、私はあの星が必要なのだから
――今夜それをこの凍えた心臓、この空虚な黒い心臓の上へ置くために
「マリー様は、この少女をどう思いますか?」
詩を詠いおえ、エリイがマリーに問いかける。
こうして詩を詠み終えると、エリイはいつもマリーに質問するのだ。この詩に出てくる人物はどんな人か、その方は不幸なのか幸せなのか、と。
マリーはその問いに真剣に考え、自分なりの答えを出す。普段使っていなかった脳が、細胞をフル回転させ知恵熱をだしても、それでもマリーは考え続けた。
「とても、純粋で、とても危うい子、だと、思う」
「それはどうしてです?」
エリイが問い返す。マリーはエリイの薄い灰色の目を見ながら、自分の考えを述べる。
「だ、って、この子、自分が不幸、だって、思い込んでいる、ように、思える。でも、自分の、未熟さ、に、なにも、出来ない、自分、の、力、不足、に、嘆いている、ように、思える」
たどたどしく答えながら、そうか、この少女、あたしとそっくりだ、とマリーは思った。
あたしも世界で一番不幸な女の子だと思っていたから。
そして下の食堂から聞こえる弟の泣き声に、何も出来ない自分を責め続けていたから。
あたしが囚われの身でなければ、王族に生まれなければ、革命さえ起こらなければ、お父様もお母様も叔母様も弟も生きて笑いあえたのに……!
「もし、マリー様がこの少女に会ったら、どんなことをしてあげたいですか?」
エリイがまた問う。
以前の自分なら、他人になにかしてあげるなどと思いもしなかっただろう。
だってあたしは王女だから。お母様の次に高貴な女性だったから。
他者からの愛は受けて当たり前、そうするだけの価値のある地位に就いていたのだから。
でも、今は少し違う。
賛美歌でも詠われている。罪も咎も重荷は分け合うものだって。
目の前に困っているものがいたら、今のあたしはそのものを助けてあげたい。エリイがあたしのことを理解しようとしてくれているように。
「お星様、の代わりに、あたしが、いるよって。あなたが、苦しむ、と、あたしも苦しいって、言ってあげたい」
マリーの青い瞳とエリイの灰色の瞳が交差し、そしてエリイの目が優しげに細められる。それでいいんだ、という風に。
――エリイ、あなたはあたしにとっての
マリーは心のなかでそう呟く。
いつか、この思いも言の葉に乗せられたらいいのに。
「さあ、マリー様、今日の詩はこれでおしまいです。明日も沢山おしゃべりしましょう」
エリイが静かに蝋燭の火を消す。
唐突に訪れた部屋の闇は夜空に似ており、マリーは夜空の天井に希望の星を見つけ、それを心の中でエリイにあげたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます