第2話:はじめに言葉があった

「さ、マリー様、お食事が終わりましたら訓練ですわよ」

「ぅ、んれん?」


 エリザベスことエリイが食器を下げると、数枚の紙を持ってきてマリーに渡す。

 マリーが首を捻りながら紙を受け取ると、そこにはエリイが書いたのか、流ちょうな筆記体で賛美歌の歌詞が書かれていた。


「今のマリー様がしなければいけないことは、体力をつけること、そしてそのお声を治すことですわ」


 エリイはメイドエプロンを外し、いつの間にかややつり上がり気味な眼鏡を掛けて指示棒を手にしている。いかにも家庭教師ガヴァネスといった格好だが、マリーからみれば仮装コスプレにしか見えなかった。


「ぉえ……な、おす?」

「その発声! ああお労しい! マリー様――この塔では王女様と呼ぶのは革命委員会が禁止しているのでマリー様と呼ばせていただきますが、マリー様の発するお言葉は、まるでがたついた扉のきしむ音のようですわ」

「………………」


 言われなくてもマリーはそんなこと分かっていた。二年間、誰ともしゃべることが無かったので、喉の奥は閉じきり、舌は回らなく、自分の声と発音が醜くなってしまったことなど。

 だけど、それが何だというのだ。もうあたしが歌を歌うこともお芝居を演じることもないというのに。


「さあ、マリー様、ここに書かれている歌を歌いますよ。私が演奏しますので、マリー様はどうぞお歌いになってください」


 エリイが部屋に置かれている古びたスピネット小型チェンバロの前に座り、何度か調律をしたあと、賛美歌を弾き始める。

 神を讃える歌。最後に聞いたのはいつだったか。


 スピネットの音が塔に響く。エリイの指がなめらかに鍵盤を滑るように移動し優しい音を奏でる。

 しかし聞こえてきたのはスピネットの音色だけで、肝心の歌手の声は全く聞こえなかった。


「マリー様! お声がスピネットにかき消されてますよ! もっと大きな声で!」

「―――」


 そんなこと言われても。とマリーは言い返した。

 しかしその反論の声すら、開いた窓の風とスピネットの残響に消されてしまう。

 それほどまでに弱いのだ。マリーの声量は。


「あ……いきなり歌えと言われましても混乱いたしますわよね。私としたことが、失礼いたしました。ではまず喉を柔らかくいたしましょう」


 喉を柔らかく? マリーが疑問に潤いのない金髪を傾けると――


「ららら~!」


 いきなりエリイが大声で歌い始めた。

 あまりの声量に壁に掛けているタペスリーがはためき、テーブルのグラスは揺れ、なにごとかと見張りについていた衛兵が部屋になだれ込む。

 しかしエリイは気にすることなく、まるでオペラ歌手のように喉を震わせ、身体全体で歌う。


「いつ~~くつしみ~ふ~か~~き~、とも~なるイエスはぁ~~~~」


 エリイの歌声は窓から出て行き、塔の前を通った通行人や、塔の護衛をしているわずかな兵士まで、足を止めて姫君が幽閉されている部屋の窓を凝視する。

 まるでそこに塔の化け物が宿っているかのように、誰もが眉を顰め目を細める。


「つぅ~~み、とが~~、うれい~~を、とりさりたもう~~~~」

「お前! なに叫んでいるんだ!」


 衛兵達がエリイを止めようとするが、彼女は歌うのを止めなかった。胸の前に組んだ両手に力をいれ、歌い続ける。マリーの方を見ながら。


「こ~~~ころのなげき~~~を~~~、つ~つまずのべて~~~~」

「…………」

「な~~~どかはおろさ~~ぬ~、お~えるおもにを~~~~」

「……ぁ、め、て」


 聞いていられない、という風に、マリーは呟く。しかし蚊の鳴くような彼女の声量ではエリイには届かず、エリイは歌いつづける。


「ゃめて!!」


 ここではじめて気づいたエリイは、両手を組んだまま歌うのを止めた。

 止めに入った衛兵達も、初めて聞く姫の声に驚きながら目を大きくさせる。


「き、たない! 音痴! そんぁうたうたああいで!」


 音痴、と言われ少しだけエリイは傷ついた顔をしたが、すぐに居住まいを正し、にっこりと微笑む。


「まあ、歌わないで、なんて。歌うことはとても良いことですよ。声を出すと心の淀みがすっきりします」

「うちょ! ょど、み、なく、な、らない!」


 ぷいとエリイに背を向けたマリーを見て、ああ、またこの子の心が閉ざされそうになっている、とエリイは危惧した。

 マリーの幼女のような舌っ足らずの言葉ににやつく衛兵を追い出し、エリイはマリーの肩に手を置いて静かに言う。


「では、歌うのは止めて叫びましょう」


 ぴく、とマリーの薄い肩が震える。家庭教師のような身分の低いものに肩を触られているなど、以前のマリーなら扇で手を強く叩いていただろう。

 だが今はこの風変わりな家庭教師の言葉が気になった。


「ちゃ、けぶ?」

「そうです。喉をやわらかくするには全力で叫ぶのが一番です。それに腹の底から声を出すことで肺や腹筋も鍛えられます。体力の落ちているマリー様にはこれ以上ない良い方法です」


 なにを言ってるんだろう? 大声を出すのはエチケット違反だ。下賎の民ならともかく、貴婦人は笑うときは扇で口元を隠し白百合のように柔らかく笑うものだ。


「マリー様、聖書の『ヨハネによる福音書』はご存じですか?」

「……?」


 マリーは首を傾げた。名前は神父様から聞いたことがあるが、肝心の中身を忘れてしまった。この塔にある聖書はカトリックの旧約聖書しかなく、そちらは長い幽閉期間中に暗記してしまうほど読み込んだが、プロテスタントの新訳聖書はあまり触れてこなかった。このエリザベスという女はプロテスタントらしい。


「そこにこう記載されています。『はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。万物はこの方によって造られた』と。

 マリー様、言葉は神がお造りになった原初の命なんです。言葉には命が宿ると東方の国々では信じられています。そして言葉は光となって暗闇の中で輝いていたのです」

「………………」


 プロテスタントの教えなどほとんど知らないマリーでも、エリイの読んでくれた一文には惹かれるものがあった。

 はじめに言葉ありき、言葉は神。神がお造りになった原初の命……言葉は、声は、暗闇の中で人々を照らす光であった。


 だとしたら、言葉が酷く声も小さい自分は何者なのだろう? こんな自分が発する言葉にも、命が宿っているのだろうか?


「さあ、訓練を再開しましょう! あの窓に向かって叫びますよ~!」

「ぇ、あ、ちょ……」

「私の後に続いてください。いきますよ~。ららららら~~!!」


 またとんでもない声量で、エリイはアカペラで歌い始める。少し調子外れのその声は、塔の暗闇を滅するような、命輝く叫びであった。


「ららららら~~~」

「…………」

「あああああ~~~~」

「……ぁぁ」


 マリーは肺いっぱいに息を吸う。それまで淀んだ空気しか吸ってこなかった肺胞は最初悲鳴をあげたが、すぐに瑞々しい空気を吸って細胞が喜び、その喜びは身体全体に広がり貝のように閉じきっていた喉が開く。


「あ、ああ、あああああ~~~~」


 マリーが生まれて初めて発した叫びは、それは酷いもので、調律を忘れ金槌でめちゃくちゃに叩かれたピアノの鍵盤が鳴らすような歪な音であった。

 しかしマリーは叫ぶのを止めない。

 羞恥も、悲しみも、怒りも、全部この声に乗せて塔の向こうの革命委員会に届けば良い!


「あああああ~~~!!!!」

「その調子ですわマリー様! ららららら~~~!!」

「ああーーーあーーーーーあーーー!!!!」

「らーーー! らららーーーー!!」


 マリーとエリイは、競うように窓へ向かって大声で叫び続けた。

 その声は風に乗って首都中に響き渡り、近くの店は窓を閉め、町中で姫様が幽閉の苦しさのあまりに発狂した、と噂話が上がっていた。


 しかし塔の中の姫君は、王女即位から今までに見せたことがない煌めく顔で発声していた。

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