第5話

 人生、転落するときは一瞬だ。

 大工で生計を立てていたロータルだったが、事故で片足を失ってしまった。奇跡的に一命は取り留めたものの、治療費で蓄えは底を尽き、働こうにもこの身体では新しい仕事など見つかるはずもない。

 家賃が払えなくなり、住処を追い出されるまで大した時間はかからなかった。

 ロータルのような者たちが流れていく先は決まっている。

 しかし、スラムに移り住んだとて働かなくていい理由にはならない。たしかに教会の炊き出しで一日一食は賄えるが、腹を満たすには到底足りるはずもなかった。

 餓えて体力が落ちれば病にかかりやすく、病に罹れば体力がないため回復は長引き、下手をすれば死ぬ。もちろん薬を買う金などはない。

 生きていくために金を稼ぐ必要があった。

 スラムの住民が得られる仕事は肉体労働か汚れ仕事である。

 だが、ロータルの身体ではそのどちらも満足にこなせない。

 そこで必死になって考え出したのが、前職の伝手を使った斡旋業だった。

 自分が働けないのならば、誰かに働いてもらえばいい。

 幸い、スラムには多くの労働力が余っていた。

 勢力の強い派閥が目ぼしい仕事を独占してしまっているため、弱小派閥や派閥に入っていない者たち――主に子供たちまで仕事が回っていなかったのだ。

 これを活用しない手はない。

 子供たちは日銭を稼ぐことができ、ロータルは斡旋料として八割をもらう。

 法外な斡旋料は、子供たちからだまし取ったわけでも私腹を肥やすためのものではない。

 すべて子供たちのためだ。

 最年少で五歳。最年長でも十四歳の子供が適切に金を使えるわけがない。

 大人ロータルが金銭管理をして衣食住を整え、まだ幼く働ける年齢ではない子供や体調を崩して働けない子供の生活費に充てる。

 ある意味、私営の孤児院に近いかもしれない。

 元来、子供が好きなロータルは、スラムにいる子供たちの現状を良く思っていなかった。これで一人でも多くの子供たちが死なずに済み、ついでにロータルも生きていける。

 現役時代にそれなりの職人であったロータルの顔は広く、斡旋する少年少女たちも多少の教育をして送り出していたから現場の評判も良い。

 気が付けば小規模ながらロータルを中心とした派閥が出来上がっていた。

 自分は働かず、子供たちに生活費を稼がせているのに罪悪感と後ろめたさを覚えるが、それしか生きる術がないのだから仕方がないと割り切るしかなかった。

 他派閥の関与は、より強力な派閥にみかじめ料を払うことで後ろ盾になってもらっている。

 数年後には最年長の子供たちが成人を迎え、斡旋先に正規雇用されるようになった。彼らからは恩返しとばかりに幾何かの金銭を仕送りしてくれている。

 それでも派閥の運営は常にギリギリだった。

 最年長者が抜けることは稼ぎ頭が抜けると同義だ。労働力が減少する一方、派閥を頼ってくる子供たちは常に一定数存在する。

 そして、転落はやはり一瞬だった。

 斡旋先で大規模な事故が起こり、年長組のほとんどが事故死してしまったのだ。

 稼ぎ頭を失った派閥はわずかな蓄えを切り崩しながら糊口をしのいでいたが、完全にジリ貧である。

 デニスとエミーリアが盲目の貴族らしい人物を連れてきたのは、まさにそんなときだった。



「早速で申し訳ないのですが、仕事の話をしても?」

「分かりました――場所を変えましょうか」

 ツェーザルと名乗る人物は、貴族ではないと告げていたが、装いや立ち振る舞いは平民でも商人でもない。貴族に会ったことも話したこともないから分からないが、少なくとも初見で見間違えてしまうほどの雰囲気があった。

 どちらにせよ、貴族に見えるほどの人物がスラムに仕事の話をもってきてくる時点で危険なニオイしかしない。

 あまりにも怪しすぎる。

 下手をしたら話を聞いただけで後に引けない厄介事に巻き込まれるかもしれなかった。

 話し声が聞こえないほど――家からでは姿さえも見えないほど離れたところまでやってきたのは、子供たちが巻き込まれないようにするためだ。

「ご足労をおかけして申し訳ありません。自己紹介が遅れてしましましたが、私はロータル。あの家にいる子供たちのまとめ役をしています」

「ご丁寧にありがとうございます。では僕も改めて自己紹介を」

 ツェーザルは右手でポーラーハットを掴み、胸元に添えながら優雅な一礼をしてみせる。

「僕はツェーザル・コルダナ。ここから山を二つ越えたところにある在地貴族の嫡男です」

「――ッ!?」

 家名を聞いた瞬間にロータルは片膝をつき頭を垂れた。

 この国で家名を持つ人間は貴族しかいないからだ。

(大変な無礼を働いてしまった……。私だけの首で済むだろうか……いや、済むようにしなければ)

 貴族ではないと言っていたが、そんなものは言質を取ったことにならない。

 前言などいくらでも翻す。スラムの住民相手ならば尚更だ。どんな理不尽でも通用してしまう。

 ツェーザルは深々と溜息を吐いた。それを聞き、ロータルは身を強張らせた。

「ロータルさん。最初に言ったと思いますが、僕は貴族ではありません。まだ襲爵の儀を済ませていませんので。立場的には貴族の嫡男でしかないんです」

「…………?」

 想定していたものとは違う言葉が投げかけられ、にわかに戸惑った。

 さらにツェーザルの言葉は続く。

「貴族の子供がデカい顔をしているのは親の威光があるからです。いわば虎の威を借りる狐ですね。親も子は可愛いですから我儘を聞いてしまう。ロータルさんたちが怖がるのも無理はありません。でも僕は違う」

「――ッ!?」

 明らかな貴族批判。

 ロータルは自分がいま置かれている状況も忘れて思わずあたりを見回してしまった。万が一貴族の耳に入ったらたとえ貴族の嫡男であっても大問題となる。

 だからこそ、この発言の意味は大きい。

 普通の貴族なら冗談でも絶対に言わない一言に、ロータルの警戒心はわずかに緩んだ。

「僭越ながら……あまりそのような発言はなされないほうが……」

「もちろん相手は選んでいますよ」

「………………なぜそこまで私を買って下さるのです?」

「自らを犠牲にしてでも子供たちを庇うあなたの姿に感銘を受けたからです」

「それでも……です。貴方様の言葉を疑っているわけでは――いえ、そう捉えられても致し方ありませんが他意はないのです。スラムこんなところで生きていると、どうにも疑り深くなってしまってしまうもので」

 普通の貴族ならばこの時点で無礼打ちを覚悟しなくてはならない。私の言うことが信じられないのか! と激昂してもおかしくはないからだ。

 しかし、ツェーザルは他の貴族と違うと信じたからこそ、偽らずに本音を口にした。

 ロータルの言葉を受け、ツェーザルは顎に手を当てている。

「たしかに。僕はロータルさんと初対面です。それで信じてくれという方がおこがましい。ならば、こういうのはどうでしょう? 子供は親を見て育つものです。デニスとエミーリアは言動は、とてもスラムで育ったとは思えないほど心優しいものでした。ですから、その親であるに等しいロータルさんも人として尊敬に値すべき人だと思ったわけです」

「…………いま、なんと?」

「尊敬する、と言ったんですよ」

 聞き間違えかと思って問い返してみたが、聞き間違いではなかったらしい。

 卑しいスラムの住民を貴族が褒めるなんて、三本足の鶏を見かけるようなものだ。

 なんと返答したらいいのか分からず、ただただ呆然とツェーザルの顔を見返すしかなかった。

「知った風な口を利くなと言われるかもしれませんが、スラムここでは大人でさえ自分が生きていくだけでやっとでしょう。それを子供たちを集めて生きていけるよう指導していく……。普通の人にはできない尊い行いだと、僕は思いますよ」

「そんな……畏れ多い……。私はただ、自分が生きていくために子供を利用したにすぎません」

 ロータルは組織が出来るまでの経緯を掻い摘んで話した。別に隠すようなことでもなかったし、子供を利用して生きているという罪悪感を吐露できるのは今しかないと思ったからだ。

 ツェーザルは、ロータルのつまらない話にも時おり相槌を打ち、耳を傾けてくれていた。そして最後に――

「やはり、ロータルさんは素晴らしい方だ。あなたに出会わせてくれたデニスには感謝しかありませんね」

 その言葉は、罪悪感を吐きだして出来たわずかな隙間に、吸い込まれるようにして収まった。

 自分のしていたことが認められた。肯定された。それも貴族の嫡男に、だ。

 こんなに栄誉なことはない。

(なんだか……、気持ちが軽くなったな……)

「ところで貴方様はどうしてスラムこんなところへ?」

「そうでしたね。実はスラムの住民を何人か領地に引き取りたいと考えていたんですよ。でも僕はスラムの事情に明るくありませんから、誰か頼める人はいないかと探していたんです」

「領地へ引き取りたい……?」

 正直、なにを言っているのか分からなかった。

 だから率直に思ったことを告げる。

「御冗談を。貴方様のような人を育てられた御父上がご当主なのですから、人手不足などあり得ぬでしょう」

「僕を評価してくれるのは大変ありがたいのですが、反面教師と言いますか……、恥ずかしながら父上は圧政を敷いておりまして……。領民の多くが他領に移り住んでしまったのです。しかし、その父上も先だって世を去りました。襲爵の儀を終えれば僕は晴れてコルダナ家当主となります。ようやく領地を良き方向へと改革したいのですが、去ってしまった領民は戻ってきてはくれません。移住者を募ろうにも僕の領地は残念ながら魅力ある土地でありません。そこで、これまでの罪滅ぼしの意味も込めてスラムの住民を引き取ろうかと思ったんですよ」

「そういう事情が……」

 なんという人格者だろう、とロータルは思った。

 ツェーザルは反面教師といったが、謙遜も良いところだ。

 ロータルも貴族をよく知っているわけではないが、噂に聞くような貴族たちならばそのまま圧政を敷き続けるだろう。間違っても罪滅ぼしにスラムの住民を引き取ろうなどという発想すら出てこないはずだ。

「コルダナ家次期当主の名に懸けて、引き取ったスラムの住民は自立するまで最低限の衣食住は無償で提供すると誓います。仕事も用意しましょう。もちろんその対価も支払います。どうでしょう? 既存の領民との軋轢を避けたいので、まずは健康な男女を五人ほど集めていただきたいのです」

 ツェーザルの目元を覆う黒に染めた紗の奥で、真剣な眼差しが向けられている。そう思えるほどに真摯な声音だった。

「それは願ってもみない話ですが……、私でよろしいのですか?」

「トータルさんだから、です」

 信頼されている。

 そう感じたら、言葉は自然と口から零れ落ちた。

「分かりました。お引き受けいたします」

 実のところ、ロータルに選択肢はないに等しかった。

 稼ぎ頭を失った派閥はジリ貧で、飢えて死ぬか、病で死ぬかの二択だ。

 そこに突如としてツェーザルが現れた。

 自立するまでの衣食住どころか仕事も用意してくれ、賃金も支払ってくれる。恐ろしいほど破格の待遇だ。

 選択の余地はない。

「引き受けてくれてありがとうございます。ところで、いつまでには集められそうですか?」

「明日……というのはさすがに難しいですが、二日もあれば十分でしょう」

「分かりました。では二日後の昼にここで落ち合いましょう」

 それからツェーザルは思い出した風に呟いた。

「――あぁそうだ。デニスとエミーリアにロータルさんのところに案内してくれるお礼を渡すと約束していたのでした」

「お礼……ですか?」

「はい。案内料として小金貨一枚ですね」

「き――」

 ロータルが絶句した。

 平民が使う主流の通貨は大銅貨で、その一つ上の小金貨が大金と呼ばれている。

 その二つ上の小金貨ともなれば、一家が数年遊んで暮らせる額だ。

 大銅貨が大金となるスラムならば、その小金貨一枚を巡って間違いなく百人単位で死人がでる。

「さすがに現金で渡すのは危険だと思いましたので、現物支給にするつもりなのです。食料、衣類、日用品、薬品……なにを買ってきましょうか?」

 冗談ではなく本気で言っている。

 そう感じたロータルは深呼吸をして暴れる心臓を落ち着かせようとして失敗したが、冷静な思考だけは辛うじて取り戻せた。

「お慈悲に感謝いたします。……しかし、失礼ながら過剰な施しかと。貴方様はどうしてそこまでしてくださるのですか……?」

「親を見て子は育つ、ですね。エミーリアも同じ質問をしてきましたよ」

「エミーリアが……」

「だから同じ言葉を返します。情報の価値を決めるのは貴方ではなく僕だ。この取引にはそれだけの価値がある」

「…………」

「付け加えるならば、僕の領地はそれだけ追い詰められているんです。スラムの住民であっても一人でも多くの労働力は欲しい。そしてロータルさんは銅貨一枚でも金が欲しい。利害は一致しています。違いますか?」

 ロータルは静かに首を横に振った。

 なにも間違ってはいない。

 派閥の維持に金は必要だ。

 そして、子供たちが生活を保障され正式な領民となれるならば育ての親としてこれ以上に喜ばしいことはない。

 ツェーザルは満足そうに頷き、懐から革袋を取り出した。

「ありがとうございます。では、これは前金です」

「そんな……。お金は先ほどいただいた案内料でも十分すぎるほどです」

 ロータルは固辞したが、ツェーザルは強引に革袋を握らせてきた。

「ロータルさん。このお仕事の話、今回だけと言った覚えはありませんよ?」

「――ッ!?」

「次もその次も。健康な子供を引き取りたい。そのための資金です」

 ロータルは強引に握らされた革袋を、今度は大事そうに包み込み、両膝をついた。

 健康な子供たちをツェーザルに引き渡すということは、稼ぎ頭がいなくなると同義だ。案内料で食いつなぐことはできても限界はある。

(神よ……)

 寵愛を賜った神オキザリスに数年ぶりの祈りを捧げる。

 事故で片足を失い、スラムに流れてから今日まで神は自分を見放したものだと思っていた。しかし、違った。ロータルの浅はかな思い違いだった。

 神はただ試練を与えていただけなのだ。

 救いの手は、いま差し伸べられた。

 愚かな自分を悔いるばかりだ。

 ツェーザルから渡された前金によって、いまはまだ健康とは程遠い子供たちも健康にしてやれる。底辺スラムから抜け出せる希望の光がたしかに差し込んだ瞬間だ。

「ありがたく使わせてもらいます」

 ロータルは眦に涙を滲ませながら、ただただ丁寧に頭を下げた。



「チョロいなあ異世界人! 日本の子供ガキでももっと用心深いってのによぉ」

宿屋に戻ってきたツェーザルは椅子に凭れ掛かり、スラムでのやり取りを思い出して意地の悪い笑みを浮かべていた。

 対して、ベッドに腰かけているアウレリアは不思議顔だ。

「異世界人がチョロいというか……、なんでロータスさんはあんな簡単にツェーザル様のことを信じてしまったんでしょうか?」

「あ? そんなの簡単だろ。俺がロータルの打ち明け話をちゃんと聞いていたからだ」

「――え、それだけ……?」

「そ。それだけだ。例えば、相手の話を聞かない、自分のことだけを喋る、相手が話してるのに遮って自分の意見を口にする、相手を見下してものを言う。そんなヤツ好きになるか?」

「なりませんねー。むしろ関わりたくないです」

「なら逆はどうだ?」

「そりゃあ好……あっ」

「だろ?」

 人に好かれるならば、嫌われる行為の逆をすればいい。

 D・カーネギー著『人を動かす』PART二‐四「聞き手に回る」に記されている。

「さて、日暮れまでにまだ少し時間があるな……。ちょっと薬局に行ってくるわ」

「薬局……? ツェーザル様、具合でもあるんですか?」

「いや、商売シノギのネタ探しだ。もしかしたら麻薬があるかもしれねぇからな」

「麻薬ってツェーザル様の世界にあったアブナイ薬ですよね? 薬局にあるのは傷や病気を癒す薬ですよ?」

(まぁ普通はそう考えるよな)

 だが、それは現代日本での常識だ。

 もし麻薬売買の商売シノギができるならば、アウレリアにも手を貸してもらわなければならないだろう。

「いい機会だ。歩きながら説明してやるよ」

 

 

(聞かなければ良かった……)

 ロータルとツェーザルの話を聞いてしまったエミーリアは、死ぬほど後悔していた。

『健康な男女を五人ほど集めていただけませんか?』

『分かりました。お引き受けいたします』

『お金は先ほどいただいた案内料でも十分すぎるほどです』

『次もその次も。健康な子供を引き取りたい。そのための資金です』

 ロータルとツェーザルが外に出ていったまま、なかなか帰ってこなかったので気になって神に祝福された証ゼーゲンを使って様子を伺ったのだ。

 エミーリアの神に祝福された証異能は、耳がいいこと。よく分からないけど、普通の人では聞こえない、少し離れた場所の音が聞こえるのだ。ただ、その力は不安定ですべての音が拾えるわけではなかった。

 しかし、聞こえてきた『健康な男女』『引き受ける』『大金』の言葉は、幼いエミーリアでも何の話をしているのか容易に想像ができた。

 ――人身売買。

 これまで自分たちを育ててきたロータルが進んで子供たちを売るとは考えられない。『銅貨一枚でも金が欲しい。利害は一致しています。違いますか?』という言葉から察するに、ロータルは何か弱みを握られて断れなかったのだろう。

 やはり盲目の男を信じるべきではなかったのだ。

(止めなきゃ! この話をなかったことにしてもらわないと――)

 ロータルの下へ向かおうとしたエミーリアは、しかし動くことができなかった。

 周囲には具合の悪い子供たちが苦しそうに横になっている。熱があったり、咳が止まらなかったり、顔色が悪かったり……。満足にご飯が食べれないから、体調は悪くなる一方だ。

 自分やデニスは年上で体力も多少はあるから、まだ大丈夫だが、それでも時間の問題だろう。

 なにもしなければ、全員が病か飢えで死んでいく。

 しかし、盲目の男からもらった金があれば当分は餓えなくても済む。病を癒す薬だって買えるかもしれない。

 その代わり――健康な男女五人が奴隷になる。

(全員が野垂れ死ぬよりは……)

 まだマシ……なのだろう。

 エミーリアは腹を括る。

 健康な男女に当てはまるのは十一人。

 盲目の男を連れてきたのは自分とデニスだ。当然、五人の中に入れてもらうとして、あとの三人にはゴメンとしか言いようがない。

 デニスにだけは事情を話そうかと思い――やめた。

 言ったところで混乱させてしまうだけだ。秘密を知る者は少ないほうがいい。 

 ロータルは二日後の昼にツェーザルと落ち合うと言っていた。

「あと二日……か」

 それでもう、この場所には二度と帰ってこれなくなる。

 残された時間はわずかしかない。

 それでも、エミーリアは普段通りに過ごすしかなかった。

 いつもと違った行動をすれば気づかれるかもしれない。

 それに事情を知らない者たちは、普段通りに過ごすしかないのだ。

 自分だけが悔いが残らないように過ごすのは違うような気がする。

 苦しい。悲しい。悔しい。辛い。痛い。切ない。寂しい――逃げ出してしまいたい。

 でも、これは盲目の男を連れてきた自分が負うべき責任だ。

 デニスを止められなかった自分の罪だ。

「…………ごめんなさい」

 エミーリアの謝罪は誰のもとにも届くことなく闇に消えた。


-------------------------------------

2024/6/11:加筆修正。誤字脱字の修正と一部表現の変更。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る