第143話 凪の湖

 沈んでいく太陽と入れ替わるように夜が黒い雨雲を連れてきた。


 キリスは負傷した岩嶺に施した「治癒奉祀」を行った場所で、門限を過ぎても帰って来ない子供を玄関で待ち続ける親のようにじっと仁王立ちしている。


 やがて空一面を覆ったその雨雲から雨がぽつぽつと降り始めた。時とともに雨が強まっていく。それでも彼は微動だにせず、洸太が岩嶺とともに下っていった方向を険しい顔で見つめて洸太の帰りを待ち続ける。

 

 そして暫くすると、洸太の姿が見えてきた。無事に戻って来たことに安堵する一方で自分の目を疑った。土砂降りの雨にも関わらず、傘を差さず自分と同様に全身びしょ濡れになって帰還していた。


 いつもならちょっとでも水に触れることはおろか、見たり聞いたりすることを頑なに嫌がる筈の洸太が、濡れていることに対して怯えている様子は全く感じられず落ち着いていた。


 それどころか、心なしか精気が漲っているような顔つきで威風堂々としており、以前の洸太と見違える程変わっていて、一体どういう風の吹き回しなのだろうかと驚嘆する。


「よく戻って来たな。ご苦労だった。長旅で疲れただろう。この雨だし、先ずは晩餐にしよう」


「お待たせしてすみません。その前にやり残したことがありまして」その瞳からは、絶対に自分のトラウマを克服してやるという強い意志と覚悟が感じられた。


「……そうか、分かった」洸太の真っすぐな視線と口調から何が何でも譲れないという真剣さが伝わってきて、不覚にも了承した自分に驚く。


 それから二人がは例の湖へ向かった。ただでさえ真っ暗の中を吹き荒ぶ雨風に晒されながら、道なき道を進むのはやはり危険だと判断したキリスが再度前を歩いていく洸太に呼びかける。


「洸太君、やっぱり明日出直そう。この天気だときっと湖も荒れて――」と言い終える前に湖が見えてきて言葉を失った。


 よく見ると、この暴風雨のような悪天候にも関わらず、雨風は湖の上をただ通り過ぎていく。まるで湖自体が見えない大きな天蓋を被せられて守られていて、それ故に湖面は漣すら立たない程静かだった。


 遮るものなど何もないこの開けた場所でこのような超常現象が自然発生することはあり得ない。これは明らかに念力操作によるものだ。そしてこの特殊な状況を作り出しているのは他でもない洸太だった。


 目を瞬かせて呆然とするキリスに脇目も振らず、洸太が念力で身体を徐に浮かせて湖まで降りて行く。


 そして水際に降り立った瞬間、湖面の水が固まって今度は足場ではなく肩幅と同じ幅の長い一本道が形成された。その一本道は小島へ一直線に続いており、その光景はまるで洸太を歓迎して招待しているかのようだった。洸太は一呼吸置いてから無言でその水の道を渡ろうと一歩を踏み出す。


 以前キリスがやって見せたのと同じように踏み込んでも靴の裏は全く濡れていない状態で一歩ずつ歩いて渡っていく。その姿に緊張や恐怖を感じている様子は無く、それは水に対する恐怖を克服出来たことを示していた。


 そのまま順調に進んでいき、初めて挑戦した時に先が思いやられるほど遠いと思っていた小島ももうすぐそこまで近づけた。そして遂に、水の道を渡り切って小島に足を踏み入れることに成功した。


 前回は突如鯉が跳ねて水が顔にかかった拍子によろけてバランスを崩し、案の定落下して念力が暴発して危うく溺れかけるという散々な結果に終わったが、今回はそういった不測のトラブルは一切起こらず無事に辿り着くことが出来た。


 小島から見渡す景色を堪能した後、キリスのいる方へ振り返り、「出来ました」と言わんばかりの達成感に満ちた表情を浮かべた。

 

 それを受けてこの一部始終を終始呆気に取られながら見ていたキリスは、洸太が見事試練を乗り越えたのだと確信し、


「これで漸く、が行える。今の彼なら、きっと耐えられる筈だ……」と興奮の入り混じった口調でそう呟き、胸を膨らませる。


 そんな彼らを祝福するかのように、雨が止んだ。

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