第139話 母の愛
「じゃあ、お母さんとの再会は果たせなかったということですか……?」
「ああ。残念だった……あの時の私には、面会室での会話や手紙を通してで協力することが関の山だった。もしあの時、他の方法で君の母親を助けられていたら……すまない。本当に、すまない……」と声を詰まらせて嗚咽する。
「謝らないでください。でもまさか、お母さんが僕のことをずっと探し続けていたなんて。てっきり僕のことを産み落として厄介払いしてしまったとばかり……」
「そんなことない。片時も君のことを忘れたことはなかった。この部屋も君と二人で生活するために借りたものだ。そして彼女から貰った最後の手紙には、彼女が亡くなったらこの部屋を君に譲ると残してある。これがその証だ」
と、棚の引き出しの中から「洸太へ」と書いてある一通の手紙を洸太の前に差し出した。そこには、今岩嶺が言ったことと同じことが、永守裕子の筆跡でしっかり記されている。
「えっ、でもこの部屋は岩嶺さんが住んでいるんじゃ……?」
「私はあくまで、この部屋の管理を任されて借りの住まいにしているだけで、いずれは君に引き渡して出ていくつもりだ。この部屋だけじゃない。この部屋にある物は全て君の所有物になるし、それから保険金も残してある」
「お母さんは一人で、こんな……」
「それもこれも、君がこの先幸せに生きていけるようにしてきたことだ。確かに、自身にのしかかった様々な重圧と苦しみから逃れようと、心中という手段を取ったのは間違いだったが、だからこそ、離れ離れになって初めて息子の存在の大きさを知り、あの時の選択を反省して君に謝ろうとしていた。
息子の君に会いたい一心から、僅かな情報を頼りに手掛かりを掴もうと奔走してきた。彼女が癌に罹って死ぬその時まで捜索を諦めなかったのは、君のことを心から愛していて、もう一度二人でこの部屋で暮らして、人生をやり直したいと心から願っていたからだ。彼女は最後の最後まで息子である君を想い続けていたのだよ」と、永守裕子の想いを代弁するように胸中を明す。
それを聞いて洸太は、「ずるい」という感情を抱いた。これらの遺産を残すぐらいなら、せめて再び会えるその日まで足掻いて藻掻いてでも、懸命に生きて欲しかった。是非とも一目会ってみたかった。一緒に色んなところに行ってみたかった。一緒に美味しいものをたくさん食べてみたかった。
一緒に思い出を作りたかった。手料理がどんなものか食べてみたかった。その手で直接抱きしめて欲しかった。胸に顔をうずめて泣きじゃくって、「よしよし」と頭をなでて欲しかった。温もりを感じていたかった。一人にしてほしくなかった。
故人となった今、好きなことや嫌いなことも伝えられない。楽しかった思い出も悲しい出来事も共有できない。
自分が今までどんな人生を送り、どんな劣悪な環境でどんな思いで苦しんで必死に生きてきたのか。文句や愚痴の一つや二つぶつけることもできない。
写真を通してでしか、お母さんの温もりを推し量ることしかできない。こんな僕を産んでくれてありがとう、と感謝を伝えることも出来ない。
手元に置いて開いてあったアルバムの中の一枚の写真に視線を下す。きょとんした表情でカメラを見ている洸太を、二度と離さんばかりに愛しそうに抱きかかえて、白い歯を見せる母親の様子を写したものだった。
もしかしたら街中ですれ違っていたのかもしれない。それでも母親の洸太への想いは、岩嶺を経由してしっかりと洸太に伝えられた。最初に見た時とは違う、嬉しいような悲しいようなもどかしいような、色んな感情が複雑に絡み合ってドッと込み上がってくる。
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