第138話 <回想>永守裕子②

 もう全てがどうでもよくなって何も考えたくなかった。とにかく何もしたくなかった。放っておいてほしかった。一人になってただボーっと一日を過ごしていたかった。


 その後の検査で永守裕子は重度の精神病を患っていることが判明し、刑事の勧めによって更生施設に移ってそこで療養生活を始めることとなった。


 突然すぎる息子との別れ。誰の協力も一切得られない中でのワンオペ育児の辛さから楽になりたいがために命を絶とうとした決断が、愛息が誘拐されるという悲惨な結果を招いた。


 それにも関わらず、待てど暮らせど息子に関する報せが来ないことにイライラして悲憤慷慨すると思われたが、行方が分からない息子を心配する様子は無く、ただ一日中ボーっと過ごすだけの毎日を送っているだけだった。それはまるで、魂を抜かれた屍が死んでも死にきれず辺りを彷徨っているように見える。


 それから五年もの療養生活を経て精神状態は改善されたものの、息子に会えない寂しさ、そして会いたいという気持ちは不思議と湧かなかった。というより、どのような気持ちで会えば良いのか分からないと言う方が正確かもしれない。


 今更会って何になるというのか。どんな顔をすれば良いのか、どんな言葉をかければ良いのだろうか。今の自分に母親と名乗る資格は無いと思っていた。その上、確かに息子は誰かに誘拐されてしまったが、それはある意味辛くて苦しい育児から自由になったも同然で、この事実に対して永守裕子はこの五年の間複雑な気持ちで向き合ってきた。


 社会復帰してから二年の月日が経ったそのときだった。彼女の身体に癌が見つかり、しかも病状は既に進行していて生きられるのも持ってあと数年ほど。このまま「本当の死」というのを静かに待っていれば良いのではないかと考える。


 心残りなど無い筈なのに、ふとした瞬間に息子の顔が脳裏に浮かんで胸を締め付ける。愛して育てたのにいつしか自分の事しか考えられなくなり、周りが見えなくなってあろうことかこの手でかけようとした。


 自分はなんて身勝手な人間なのだろうかと自分に対して激しい憎悪を覚える。刻一刻と死へと近づいていく度にその想いが強くなっていく。ここで漸く、自分が犯した罪の代償を理解する。


 それは今の永守裕子が背負うにはあまりにも酷で大きすぎる代償であるが、癌が発覚したのも、息子と本当の意味で向き合わねばならないことに気付くいい機会なのかもしれないと思った。


 死ねばもう二度と会えない。ならばせめて、死ぬ前に一度でいいから会って、一言「駄目な母親でごめんなさい」と心の底から謝りたい。そう胸に誓い、どこかで生きている息子に会いに行こうと一念発起する。


「それで私のことを探し出して尋ねてきたのですね」と岩嶺が言うと、永守裕子はゆっくりと頷く。


 以前綾川なる者から頂いた名刺を見て柾にコンタクトを取ってみたが繋がらず、記載されてあった病院も調べてみたが、数年前の土砂崩れで既に廃病院になっていることを知り、更にはこの病院を経営していた綾川も交通事故で死亡していることが判明。


 そして綾川の死と養護施設放火の容疑で逮捕されて服役中の岩嶺の存在を突き止めて会いに来たと話した。それを受けて岩嶺は、自身がこうして刑務所に入れらているのは全くの濡れ衣であり、何者かによる仕業だと訴える。


 その何者かが息子を誘拐した犯人である可能性が高いと睨んだ永守裕子は岩嶺の協力を仰ぎ、出所を待つ間は文通と面会を通して情報を共有しながら犯人の手がかりを掴もうと独自に捜査を始める。


 しかしなかなか手がかりは見つからず、追い打ちをかけるように癌が進行してしまい、岩嶺とのやり取りも次第に文通だけとなった。


 それから暫くして岩嶺宛てに一通の手紙が届き、そこには永守裕子が三年間の闘病生活の末に亡くなったという記述があった。

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