第137話 <回想>永守裕子①

 その女性は永守裕子ながもりゆうこと名乗った。勿論岩嶺にとって面識など全くない赤の他人だった。「何故こんな自分にわざわざ会いに来たのか」と尋ねたところ、行方不明になった自分の息子を一緒に探してほしいと答える。


 聞けば彼女には十八歳の時に産んだ息子がいて、以来どこにいるのか行方が掴めないままだそう。聞けば彼女は重度の精神病を患っており、更生施設で五年間の療養生活を終えたばかりだった。


 そうなった経緯をもっと詳しく聞きたいと言うと、彼女は待っていました言わんばかりに重々しい口調で述懐する。


 彼女には十八の時に産んだ一人息子がいるらしく、夫に逃げられて家族や親戚にも見放されて天涯孤独になるも、女手一つで息子を育てて愛情を注いでいった。しかし、頼れる人が身近に誰一人いない状態での子育ては想像以上に厳しく辛いもので、日に日に彼女の心を蝕んでいった。


 息子を産んでから六年が経ち、遂に生活が困窮してしまったことでメンタルが限界に達してノイローゼになり、このどうしようもない苦しみから逃れたいがために幼い息子とともに心中を図る。


 誰からどう見てもこの選択は間違っているが、彼女にとっては最早自殺する以外に楽になれる方法は無いと思ってしまう程心身ともに疲弊しきっていた。次に目を覚ましたら愛する息子と一緒にあの世にいる。そう思うことで死に対する恐怖がいくらか和らぎ、前向きに受け入れることができた。

 

 完全に密閉した部屋の中で練炭を燃やす。予め睡眠薬を飲んであるので、燃やした練炭から発生する一酸化炭素の煙が苦しくても途中で起きることなく静かに死を迎えられるだろう。睡眠薬の効果で重くなっていく瞼をゆっくり閉じてそのまま二度と目覚めぬ深い眠りに着く。


 いよいよ肉体が死んで魂が引き剥がされているのだろうか、次第に五感が無くなっていき、意識が暗闇の中へ沈んでいくのが分かる。まるで、光さえも逃がさないブラックホールの中へ吸い込まれていくような感覚だった。


 遂に時間と空間も把握できなくなり、周りを見渡す限り何も無い漆黒の世界に閉ざされて「死んだ」と認識したその時、前方の中央部分に一点の小さな光が出現する。その光は針の穴のように小さく、数回ほど明滅を繰り返した後に消えてしまった。


 死んでいるのにどうして光が見えるのか不思議に思った次の瞬間、今度は針の穴程度だった光が、まるで覆い被さっていた闇を打ち消すかのように放射状にぐーんと広がっていった。そして気が付くと、目をぱっちり開けて天井に付けられているLEDシーリングライトから注がれる眩い青白の光を直視していた。


 周りに視線を向けると、どうやら自分はとある部屋の中にいるらしいことが分かった。視覚だけでなく部屋の匂いやベッドの触り心地、自分の心臓の音といった五感が、死んでいるというのにはっきりと感じ取れて生きているという実感があることに動揺を隠せない。


 暫くして誰かがノックをしながら「失礼します」と言って、黒いスーツ姿の二人の男性が部屋の中に入って来た。そのことに驚いたのもそうだが、刑事である二人から語られる真相にも言葉を失った。


 実は、成功したと思われていた練炭自殺は何者かが侵入したことで未遂に終わり、その後駆けつけてきた警察に意識を失っていた永守裕子は警察病院へ搬送されたのだという。


 刑事が顛末を話し終えた途端に永守裕子は、自分が生きているなら息子も生きている筈と思い、息子はどこにいるのか、同じ病院にいるのかと二人の刑事に詰め寄るように訊ねたところ、警察が発見したのは彼女だけで息子の姿は何処にも無かったと申し訳なさそうに告げる。


 もう一人の刑事が、到着した時には既に玄関のドアは開いている状態で、その侵入してきた何者かが大胆にも息子を攫ってしまったのではないかと推論を述べる。これを受けて彼女はショックのあまり茫然自失となり、力が抜けたようにだらんと俯いてしまった。


「犯人の顔に見覚えはありますか」という問いに対し、彼女は首を横に振る。「必ず犯人を捕まえて見せますので元気出してください」と励ます刑事の言葉にも何の反応も見せなかった。

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