第57話 <回想>母との約束

 どんよりとした雨雲が黒い絨毯の如く空を覆っていた。急発達した爆弾低気圧により横殴りの雨が降りしきり、風が激しく吹き荒れる嵐の夜。雅人はしっかりした足取りで平沼が指定した倉庫に向かっていた。


 道中でふと、ある人と交わした約束を想起する。まだ小学生だった頃、俺は何かにつけてすぐに手を出して心臓に病を抱えるお母さんをいつも困らせる子供だった。

 

「貧乏人」と罵られては殴り、いたずらをされたら突っかかって押し倒して怪我をさせてそのまま喧嘩に発展してしまうことが日常茶飯事になっていた。怪我を負って帰ってくる俺を見る度にお母さんはよく頭を抱えて泣いている姿は今でもはっきり覚えている。


 酷い時には発作を起こして倒れてしまうこともあった。俺自身、どうしていつも手を出してしまうのかよく分からなかった。気が付いたら手を出していることが多かった。だからお母さんに「何でいつもお母さんを困らせるの?」と泣きながら怒られても何も答えられなかった。

 

 そんなある日、毎度の如くクラスメイトと喧嘩になって遂にお母さんが先生に呼び出され、「相手の親御さんが謝罪を求めています」と当時担任だった先生に言われた。お母さんは胸が圧し潰される思いで俺と一緒に相手の自宅を訪問することになった。迎え入れてくれたのは相手方の父親だった。


「あの……治療費、幾らですか?」向かい合って座っている相手方の父親に恐る恐る聞いてみる。


「そんなものは必要ありません。俺から言えることは一つだけだ。母さんを泣かせるんじゃない。こうやって泣かせて謝らせて、悲しい思いを何度も何度もさせるんじゃない。お前にも色々あることは何となく知ってる。だがな、男である以上グッと堪えろ。これから母さんを守ってやるんだから。それが男ってもんだ。もし何かあったら、次からは俺に言いなさい」

 

 俺はその父親の顔を真っすぐ見て、そして言う言葉を一つ一つ噛みしめるように聴いていた。決してその父親の迫力が凄いとか怖いからといったわけではなく、一国の王からこの俺にしかできない重要な使命を与えられたような感覚と似ていた。それほどの強烈な印象を与えてくれた。

 

 あの出来事がきっかけで、俺は何があっても絶対に手を出さないと決めた。喧嘩沙汰も減ってお母さんを安心させることが出来た。自分の家族じゃない方からも色々教えを乞うというのも大事な経験だったなと振り返って思う。


 今はどこで何をしているのか分からないが、あの人に言われた言葉は今でも座右の銘として俺の心の支えになっている。それがあの人との約束だから。

 

 しかし、あの恐ろしい事件を境に俺は遂に約束を破ることになる。ある夜、俺は複数の不良たちと喧嘩沙汰になってしまった。サラリーマンの男性が不良にカツアゲされているところを偶然見かけた時、その男性がどことなくお父さんと似ていると感じてお父さんが殺されたあの夜がフラッシュバックし、二度とあんな思いをしたくない一心で、止めるべく割って入ってそのまま殴り合いになった。

 

 なんとか撃退したものの、お母さんに折角買ってもらった服はボロボロ。顔と身体は傷だらけ。この姿を見られたら「何で喧嘩したの!」と激怒するに違いない。とはいえ帰る家は一つしかなく、帰らないわけにもいかなかった。

 

 腹を括って家に帰宅し、お母さんは玄関まで迎えにきてくれて案の定叱責されたが、最後は俺を抱きしめながら「お帰りなさい」と言われた。たとえ俺の顔に顔に痣が出来ていることも服がボロボロでもお母さんはそれについて何も聞いて来ない。


 それはきっと、俺の行動を見て、あの時お父さんを失ったことを未だに悔やんでいることを察してくれているんだと思う。

 

 お父さんが亡くなってからも、お母さんは普段と変わらない様子を見せていた。近所のスーパーで週六日、一日八時間働いてヘトヘトになっている筈なのに、俺の前では決して疲れた顔をせず、炊事、洗濯、掃除を黙々と卒なくこなす。


 俺が学校へ行くときも快く『行ってらっしゃい』と屈託のない笑顔で見送ってくれ、帰宅した時は『お帰りなさい』と迎えてくれる。そんなお母さんの作る弁当や料理はどれも美味しい。


 心臓に重い病気を抱えている上にあんなことがあって本当は誰よりも辛くて大変な筈なのに、それでもお母さんは悟られまいと笑顔で接してくれていた。お母さんがそこまで平静を装っている姿を見ていると、胸がギュウっと握り潰されるように苦しかった。

 

 何とかしてあげたいという想いが強くなった。そして俺は決意した。もう二度とお母さんを泣かせたりはしない。その揺るぎない信念で俺は一流大学を目指して猛勉強を始めた。お母さんは俺が守る。そして病気を何としてでも治してみせる! 


 と胸に誓って自分を奮い立たせて勉強に励み、就職して一生懸命仕事してお金をたくさん稼いで病気を治して恩返しをしたいと密かに思っていた。お母さんには内緒にしていたつもりだったが、それでも陰ながら応援してくれていた。

 

 それなのに、またこうしてお母さんの身に危険が迫って来たとは思ってもみなかった。脳裏に入って来た光景では、キッチンで料理している時に突然バットや鉄棒を持った数人の男たちに襲われ、慌てふためくお母さんはあまりの重圧に耐えかねてみるみるうちに過呼吸になり、床に倒れてしまった。


 俺が着いた時には平沼達の姿は無く、すぐに救急車を呼んでお母さんは担架に乗せられて病院へと運ばれていった。

 

 俺に危害を加えるならまだしも、大事な家族を傷つけるなんて。その上、玄関の監視カメラに向かって顔を近づけ、「今度こそ殺してやるから一人で来い」そして、「横浜市中区の山野埠頭の倉庫街にある三番倉庫で待っている」とわざわざ居場所まで提示してくれた。

 

 この平沼からの宣戦布告を受けた雅人は怒りに震えて拳を強く握りしめた。この件に決着を付けてから母親の看病をすることにした。救急隊員から搬送先の病院を聞いて救急車が走り出すのを見送ると、一も二も無く平沼たちが待ち受けている倉庫へ足早に直行する。

 

 そうやってなりふり構わずヘラヘラしている奴が一番嫌いだ。絶対に許さない。許せるわけがない。向こうが一線を越えてくるなら、こっちもそれ相応の対応を取る他ない。

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