第22話 <回想>茜と「まこ」①

 小学校三年生の時の下校中の出来事だった。いつも通っている公園を通っていたところ、何の前触れもなく雨が降り始めたので市宮茜は走ろうとして躓いてしまい、その場で転んで前に倒れ込む。転んだ拍子に膝に擦り傷を負ってしまった上に、降りしきる雨に濡れたという虚しさと傷の痛みからその場で泣き出してしまった。

 

 そんな時、黒のランドセルを背負った一人の男の子が青色の傘を差して近づいて来て濡れないように傘を被せると、「どうしたの?」と優しく問いかけられたので「うぅ……足怪我しちゃって、痛いよぉ……」と出血が止まらない膝の傷口を手で抑えて咽び泣きながら答える。

 

 痛そうに膝の傷を抑えて泣いている茜を見て黒髪の男の子はポケットから絆創膏をすかさず取り出して渡す。それを見た茜はいつの間にか泣き止んで受け取った。すると男の子は無邪気な声で「この傘あげる」と言って差していた傘を茜に託すように持たせた。「いいの?」と訊くと男の子は「うん」と頷き、「もう大丈夫だよ」と言い残してそのまま振り返って雨の中を走り出していった。

 

 思いがけず絆創膏だけでなく傘まで頂いたことへの「ありがとう」と言えなかったのが唯一の心残りだった。男の子が振り返った際にランドセルに付いていた名札を見たが、ほんの一瞬しか見えなかったため「まこ」の二文字しか覚えられなかった。

 

 それから時が経ち、高校へ上がった茜はあの時助けてくれた「まこ」なる男の子の存在が忘れられずにいた。この頃茜の家庭では、茜と父親との間に確執が生じていた。茜の父親は学校の経営で忙しく、週末は必ずどこかへ出かけていてともに過ごした思い出は一つもない。


 仕事にかまけて家族を顧みない父親と、その父親の行動に一切口出しするどころか寧ろ容認している母親に対しても怒りと軽蔑の感情を抱くようになり、家に帰っても二人のことを必要以上に避けて生活している。

 

 また、両親の関係が冷え切っていて父親が不貞行為を働いているという、聞き捨てならない嫌な噂が学校で出回るようになった。いつどこでどのように嗅ぎつけられたのか知る由も無いが、そういった唾棄するようないやらしい情報というのは伝播速度が速い。


 そうなれば学校での立場が危うくなって一気にスクールカーストの最下層に転落していじめの標的にされてしまう。一度最下層に落ちてしまったら二度と這い上がることは出来ない。

 

 最早自宅に自分の居場所は無いだろう。癒しが欲しい。「まこ」なる男の子ならきっと癒しになってあわよくば何とかしてくれる筈だと信じていた。そうした経緯もあって以前にも増して「まこ」なる男の子に会いたいという欲が強くなっていった。


 そのため茜に惚れ込んだ男子が告白してきたとしても、その男の名前にその二文字が入っていなかったり、それっぽい雰囲気や特徴が見られないと判断した場合は拒否し続けた。


 もしこの恵倫高校で「まこ」なる男の子がいなかったらもうこの先見つけられないだろうと諦めてこの気持ちを胸の奥底に封印しようと決めた。だからこそ、茜は必死になって探し続けた。

 

 目を皿にして校内を探し回っていたその時、同じクラスの友人の女の子から同じ学年の隣のB組の男子生徒が茜に放課後屋上に来てほしいと言われていることを聞いた。その男子生徒の名は城崎真だった。「真」という名前に驚いてもしかしたらと思い、二つ返事で放課後に屋上へ直行した。

 

 城崎真は、スクールカーストの頂点に君臨し、恵倫高校の生徒会長でありPTA会長の御子息で言わば学園におけるプリンスのような存在だった。そんな人に私のような地味で取るに足らない下級の人間が迂闊に近づけるわけがないと分かっていたが、もし、この機会を逃すならもう二度と聞くことができないかもしれないと思った。それに、その城崎と言う男が本当にその人なら、先ず「あの時私を助けてくれてありがとう」と一言お礼を言いたい。

 

 そして放課後、城崎に会いたい一心で若干ウキウキしながら屋上へ続く階段を上がって扉を開けると、夕陽に照らされてオレンジ色に見えるという幻想的な景色が目の前に広がっていた。


 視線の先に、立ったまま自殺防止用に設けられた三メートルもの高さを誇る鉄格子の前でズボンのポケットに手を入れながら、その向こう側に見える町や公園を眺めている城崎の姿があった。ドアが開いた音に反応して振り向く。

 

 整ったショートヘアーの黒髪に端正な顔立ち、制服の上から見ても分かる均整の取れた逞しい体形。その瞬間、茜は雷に打たれたような衝撃を受けた。ここに来るまでにもし人違いだったらどうしようと心配になったが、それも杞憂に終わった。


 間違いない。城崎真こそ、ずっと探し続けてきた「まこ」なる男の子の高校生になった姿であり、茜にとって紛れもなく運命的な瞬間だった。

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