第11話 誰もが誰かのヒーロー
ある日の夜。倉本と秘書の附田は奥多摩市にある廃病院へ来ていた。緩やかな傾斜を上って山ならではのいくつもの急カーブを曲がったところにこの病院がある。
この病院は嘗て小さな心療内科だったが、突如発生した土砂崩れを機に変わり果てた姿となっており、その後は訪れる者を恐怖に陥れる、怪奇現象が発生する最恐の心霊スポットの一つとして恐れられている。
「聖水の確保は順調ですか?」
「ええ。今回も大量に採取出来ましたよ」と、鳳來製薬主任研究員の國代が、右手に持っていたアタッシュケースをこれ見よがしに開けると、中には透明な液体が入っている試験管が数本あって、それを見て倉本は満足そうににやける。
「うむ。ご苦労でした」
「これぐらいのこと、お安い御用ですよ」
「これからも引き続き頼みます」
「かしこまりました。それにしても、この病院がもうすっかり心霊スポットとして知られているなんて信じられませんね」と國代が病院を振り返る。
「寧ろ願ったり叶ったりです。お蔭で我々の秘密が守られているのですから」
その後いくつか言葉を交わして別れた。
突如強く吹いてきた北風に不覚にも身震いする倉本。夜半で気温もかなり下がっていることも相まって一層寒く感じられた。附田は倉本社長を先に後部座席に座らせてから反対側に座り、二人が乗ったのを確認してから運転手は車を走らせた。
「それにしても夜は寒さが増すなあ」
「まだ二月ですからね」と、スマホを操作しながら間を開けずに淡々と答える。
「そうか、二月か」と意味ありげに言う。
「どうかしましたか?」
「いや、あれから今日で丁度十八年の歳月が経ったなあってね」
「何か思い当たる節でもあるのですか」
「本部で新人として働いていたころを思い出したんだ。ちょっとした騒動と言うか、事件に出くわしてね。忘れられないほど強烈なものだった」
「事件、ですか」
「ああ。その事件というのは――」
それから倉本は、十八年前に本部に在籍していた頃に出会ったスウェーデン人の少年ペレの非行ぶり、脱走及び逃避行、そして搬送先の病院での重病を患っていた、見知らぬ日本人の患者への移植手術にいたるまでの経緯を事細かに語っていった。附田は時々あいづちを打つなどのリアクションを取りながら話を傾聴していた。
「なるほど、そんなことがあったんですか。じゃあ倉本さんは彼のヒーローということですね」
「まさか。私はあの状況で何がベストなのかを考えて実行したに過ぎないさ。ヒーローなんて大袈裟だ」と不意に褒められたことに倉本は謙遜する。
「いいや、ヒーローと形容してもいいぐらいです。社長だけじゃありません。皆気付いていないだけで実は誰もが誰かのヒーローなんです。かく言う私も倉本社長に救われたんですから」
「いやいや、可愛い後輩が悪徳社長に濡れ衣を着せられちゃあ、黙ってられなかったからな」
「社長にとっては全然大したことないのかもしれませんが、私にとっては人生を左右する大きな出来事だったんです。何せ倉本さんがいなかったら僕は間違いなく残りの人生を刑務所の中で過ごしていたでしょう。危うく冤罪になるところでした。あの時は本当に心から感謝しています」と座ったまま姿勢を正してお辞儀をする。
「よしてくれ。恥ずかしいだろ」と言ってはにかんだが、満更でもない様子だった。
「あの時助けた患者も、私と同じようにあなたに感謝している筈です。だからこうして大出世を果たせた理由が分かったような気がします」
「いや、大出世に例えられるほどのものではないよ」
「どういうことですか?」
「私がこの地位を獲得できたのは、コネを使ったわけでもなく、実績や経験を積んでそれが評価されたからなどという聞こえの良いものではない。元々研究員として人体の研究に生涯を捧げて働くつもりでいたが、あの出来事がきっかけに幾つかの偶然が重なって、とんとん拍子で上手くいっただけの話だ」
「それがあったからこそ今があるのではありませんか。僕やその患者を救うという善い行いや徳を積んできたことですし」
「そうかもしれない。だが、この地位を利用して邪かつ非人道的なプロジェクトを進めようとしている。私のやろうとしていることなど……」と後ろめたさを滲ませながら述べる。
「それを自覚出来ているだけでもまだマシですよ。それに、たとえ今非人道的だと非難されても、結果的に倉本さんの考えが正しかったんだということを、僕が世間に知らしめますから」
「附田……」と附田の言葉に感動して無意識に目頭が熱くなった。
「社長に助けられたあの日から、この方に恩を返すとともに一生ついて行くと決めたんです。共にこのプロジェクトを完遂させましょう」
「ああ」
「それにしても、その移植手術を受けた日本人患者は今どうしてるんでしょうね」
「さあな。その少年に関するカルテや手術の記録は全て抹消されたから調べることは不可能だ。だから移植手術を受けたその患者がどこの誰であの後どうなって、今どこで何をしているのかは全く知らないし知る由も無い」
「その後の様子とか気になったりしないんですか?」
「一度ぐらい会ってみたいかな」
「まあ、あのペレという少年の心肺と血液を受け継いだんですから。どこかで元気でやってますよ、きっと」
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