第9話 親ガチャ
郵便ポストに届いている郵便物を取ってから帰宅すると、キッチンにいた母親が玄関にやって来て掌を差し出した。洸太の帰りが遅いことに不自然に思った母親は、「診察と参考書を借りたぐらいで、どうしてそんなに時間がかかるの!」鬼の形相で捲し立ててきた。
「参考書を探すのに手間取ったから」と理由を説明したが、「予め本屋さんに注文してある筈だけど」と反論され、観念して何も言い返せない。
「一体どこで油売ってたの? まさか日向君と会ったりしてるんじゃあないでしょうね?」
女性の第六感と言うのは恐るべきものがある。僕のことで常に神経質になっている母親なら尚更だ。下手に嘘をついたり、言を左右にして茶を濁しても見破られるだけ。圧に押されて口籠り、蛇に睨まれた蛙のように固まっている様子に耐えかねた母親は、返答を促すようにすぐ側にある棚の上に置いてあった消臭スプレー缶で洸太の頭を一思いに殴った。
ドンッと鈍い音がして洸太は反射的に打たれた部分に手を当てる。強烈な痛みを伴ったがスーッと引いていった。
「もう少し受験生としての自覚を持ってよ!」と大声で一喝する母親。「こっち来なさい!」と蟀谷を強く引っ張られ、リビングの床に座らされた。真向かいに母親も座って躾と言う名の説教が始まった。二、三時間はかかったと思う。母親の折檻に対して洸太はひたすら謝り、何とか怒りを鎮められた。
これまでのと比べれば今回はまだラッキーな方だった。ある時体調を崩して早退したときはズボンのベルトの金具部分で顔を勢いよく引っぱたかれたり、帰りが一分遅くなっただけでリモコンを投げつけてきたり、酷い時はテストで百点取れなかっただけで、フライパンで叩かれそうになることもあった。
それから部屋に戻り、現実から逃れるように勉強に精を出す。母親の設けたルールは、門限までに帰宅すること。その日の出来事をありのまま詳らかに話すこと。門限までに必ず帰宅すること。
一分でも遅刻したらその日の晩ご飯は無し。そもそも帰宅に遅刻なんて馬鹿げていると思っていたが、家の中では母親は絶対であり、決して抗うことが出来ず従う他なかった。
勉強を終えた頃には時間は七時を回り、母親に一階に来るように呼ばれた。母親が作った料理の匂いに誘われて食欲をそそられるも、帰宅時間を過ぎてしまったので夕飯は食べられない。母親は自分の分だけ作り、立っている洸太の前で食べ始める。美味しそうに食べるその様子を見てお腹が「グー」と鳴った。
「それで、医者に何て言われたの」母親は洸太を見向きもせず、口にご飯を運びながら聞いた。
「原因が掴めなかったらしくて……ひとまず薬を服用して経過を見て下さいと言われました」言葉を慎重に選びながら答えた。母親は言葉遣いにも厳しいので敬語で受け答えするように心がけている。
「それでも治らなかったらどうするの」
「治らなかったら……その……」
「学校を休んだ上に私のお金で払ってあげたんだから、少しぐらい責任感と危機感を持ったらどうなの? 本当に頭が痛いのか知らないけど。あなたが雨の日に橋から落ちて川に流されて病院に搬送された時、私がどれぐらい苦労したか覚えてる?」
「はい……」そう詰る母親に押され、洸太がその時の記憶を想起しながら絞り出すように言う。
小学生五年生だったある日の学校帰り。雨が激しく降りしきる中傘を差して小川を跨ぐ石橋を渡っている途中、これまで味わったことの無い激しい頭痛に襲われた。まるで頭を大きな金槌で叩かれているような痛さで、そのあまりの痛さに目眩がしてよろめいて姿勢を崩し、意識を失う。次に目覚めたのは病院のベッドの上だった。
隣に母親が椅子に姿勢正しく座って洸太を見ており、洸太は「看病してくれてありがとうございます」と言いかけたが、母親の何とも言えない表情を見て、安堵とは縁遠い落胆と失望を感じ取って感謝の言葉を喉の奥に仕舞いこんだ。
この時の母親の無言の圧力はとても耐えがたいものだった。それ以来怪我に気を付けていたつもりだったが、ここのところ酷い頭痛が続いているので、そういった事態もまた起こり得るのではないかと不安で仕方が無い。
「折角あなたの身体づくりと健康のために空手までやらせてあげたのに。どうしてくれるのよ。言っておくけど、もし仮病だった時は承知しないからね。もうこんなことはこれっきりにしてくれる? これ以上スケジュールを送らせるわけにはいかないから」
「……善処します」と母親の念押しに洸太は、前向きな姿勢を示すしか出来なかった。
「それと、担任の先生との二者面談はもう済んだの?」
「来週の月曜日にやる予定です……」
「そう」
頭痛に苛まれようが病気になろうが聖央大に合格しろと命令される。それでも従うしかない。僕はあくまでお母さんの道具でしかなかった。だからどんなに粗雑に扱われようが期待されていると思うようにした。
母親の夢を叶えるためにも僕は何としてでも頑張ると誓った。今度こそ、褒めてもらえるようにしなければ。ピリッと張り詰めた空気の中、洸太が思い切って切り出す。
「こ、この間、学校で良いことがあったんです。国語の授業で、お父さんとの思い出を元にした短編を書いたら、担任の先生に凄く褒められたんですよね」
「そう」と、いつものようにけんもほろろに突き放す。
「……そういえば、結婚したんですよね」
「そうよ」と事務的に生返事をする。
「写真とかないの? 見たこと無いなと思いまして」
「あの人写真嫌いだから」
「どうして一回も顔を見せてくれないのですか?」
「彼は今単身赴任で海外にいるの。だからあまり帰って来ない」と素っ気なく返す。
「それだったら電話とかメールぐらい……」
「しつこいわね、何なの? そんなのあなたには関係ないでしょ!? あなたは兎に角、聖央大に受かるように受験勉強に集中していればいいのよ! 余計なことしないでよね!」
しつこく食い下がる洸太に母親は遂に激昂して黙り込んだ。産んでくれと頼んだ覚えは無いのに、と理不尽とも言える度が過ぎた圧力に静かに怒りを覚える。
「この次も余計なことを聞いてきたら、またご飯抜きにするからね」
「えっ……」
「返事は!」
「はい……」
誰にだって幸せになれる権利がある。拳を握りしめ、込み上げる憤怒を必死に抑える洸太。その瞬間、ガラスのコップが勝手に倒れて、中に入っていた水が零れてテーブルに広がっていく。一秒にも満たないほんの一瞬の出来事で、何をどうしたら勝手にそうなるのか分からなかった。
洸太は、ヒステリックに怒号を飛ばす母親の話よりも、目の前で起こった不可思議な現象に気を取られていた。またこの前のコンビニのように力が暴走してしまうのではないかと恐怖に怯える。
その後、自分の部屋に戻って一通のA4サイズの封筒をポンと机に置いた。それは二週間前に受けた模試の結果の書類の入った封筒で、開けて結果を見てみたところ、聖央大学の合格確率はCと記されていた。
その結果を見て、洸太はたまらず模試をクシャクシャに丸めてごみ箱に叩き付けるように投げ捨てる。これまでの自分の勉強に対する姿勢を振り返って、何となくこういう結果になるだろうと予想していた。
とはいえ、聖央大学に何としてでも合格しろと命令を受けている以上、この模試の結果を言えるわけがない。結果を知って母親が鬼の形相で憤慨するイメージがパッと浮かんだ。どんなに取り繕ったところで、来る三者面談で知ることになる。それまでに腹を括るしかない。
ひとまず今日はもう寝よう。寝ている間に記憶が整理されて心も落ち着いている筈。そうすれば父親の件と模試の件も明日ゆっくり考えられる。
出来ることなら、寝て翌日起きたときに全く違う現実になっていることを願った。
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