第5話 <回想>雨夜の兄弟喧嘩
喧嘩が強くて勝負を挑んでくる者たちを返り討ちにするほど強かったが、無益な争いを好まず、弱い者を決していじめたりしない心の優しい兄だった。その上端正な顔立ちをしていて通っていた学校では常にモテモテだったとか。
そんな兄に最初は憧れを抱き、自分も同じような男になりたいと思っていたが、同じ屋根の下で一緒に生活していくうちに兄に有って自分には無いものの違いが浮き彫りになって、互いの違いをまざまざと見せつけられた。
こんなに近くにいるのに、とても遠い雲の上の存在のように感じられた。年齢が二歳離れているだけでこれだけの差が生まれるとは思わなかった。
そのうち兄弟に対する親の接し方もだんだん変わっていった。高校生になった頃には、弟である自分がヘマをし、不手際をやらかしてしまった際は「お兄ちゃんを見習え」だの「お兄ちゃんだったらこうする」と、やたら「兄ちゃん」という言葉を使って比較して叱ってくる。
自分が親に怒られている時は大抵私事をしていて我関せずといった感じで、特にこれといったフォローや慰めの言葉すらかけてはくれない。この時の兄はもう高三になっており、対して自分は高一で、受験勉強で忙しく弟に構っていられるほど暇じゃないのか、それとも多感な弟とどのように接すれば良いか分かりかねているのか。
どちらにせよ、家族の中で一番近しい存在だと思っていた楽観的な兄に対して、段々と嫌気が射して激しいコンプレックスをも抱くようになり、抱いていた憧れもいつしか憎しみに変わっていった。
それから平沼は、自分の身は自分で守れるように徹底的に力を付けようと、様々な格闘技を独学で勉強していった。自分の存在を証明するためには決闘を申し込んで憎き兄を超越するしかない。
平沼は兄に話があると伝え、人目の付かない高架下のトンネルで来るのを待ち構える。この決闘の為に自分の全てを懸けてきた。もし負けてしまったら死んだも同然だ。いざという時の最終手段として、ポケットに忍ばせた小型のナイフで重傷を負わせて勝つ。
やがて兄がふらっとやってきて、これまで兄に対して激しい劣等感を抱いていたこと、いつも完璧な兄と比較されて肩身の狭い思いをしてきたこと、今の今まで溜め込んでいた感情を洗い浚い全て吐き出すように息巻いた。
弟の心の叫びに兄も呼応するように、声を震わせて胸の内を打ち明ける。どうコミュニケーションを図れば良いのかずっと困っていて悶々としていたことや、弟の気持ちを全く顧みず、かまけてしまったことに自責の念を感じているようだった。
初めて本音を言い合って兄弟の気持ちが通じ合った瞬間だった。どうしてもっと思いやってやれなかったのだろうかと互いに悔恨の念に駆られた。だが時すでに遅く、互いの溝はもう大きく開いており、以前の関係には戻れない。
言葉や口で言うだけではほんのちょっとしか響かない。魂を揺さぶるためには拳で訴えかけるしかない。
戦闘態勢を取り、タイミングを見計らってほぼ同時に一歩を踏み出した。闘いの幕は切って落とされた。
互いに全力を出し切った兄弟喧嘩は兄の勝利で幕を閉じた。信じられなかった。勝利へのシミュレーションは完璧だったのに、いざ戦いを始めたらこうも打ちのめされてしまうなんて、事実として到底受け入れられることがどうしても出来なかった。
起き上りざま、ズボンのポケットに忍ばせておいたナイフを取り出して兄に向かって猪突猛進する。負けた屈辱とそれを認めないフラストレーションが沸々と込み上げていき、凶暴性をむき出しにして殺意を駆り立てる。もはや勝敗は無意味。何としてでも兄を下す。その事実さえあれば心が満たされる筈だと衝動的に考えての行動だった。
思いもよらない行動に出た弟に瞬間的に驚くも、咄嗟に伸ばした腕を掴んで背負い投げをして冷静に対応した。アスファルトの地面に全身を強打し、またもや仰向けに倒れてしまった。
一瞬何が起こったのか分からなかった。直後に兄は弟が持っていたナイフを奪って投げ捨てた後、跨って弟の顔面を勢いよく殴り、両手で胸倉を掴んで「目を覚ませ!」と一喝されて平沼はふと我に返った。危うく兄を手に掛けるところだったとハッとした。
冷静さを取り戻すように息を落ち着かせていく。兄は横たわったままの弟を憐みの視線を送りながら徐に立ち上がって外に目をやり、来た頃は小雨程度だった雨がいつの間にか激しくなっているのに気付いた。
「酷い雨だな。もう帰ろう、肩貸すよ」と言ってすかさず手を差し伸べた。
「いいよ。ちょっと休んでから行く。まだ体が痛い……」と恥ずかしがっているのを誤魔化すように両目の上に腕を置く。良かれと思う兄らしい親切な行動に余計なお世話だと思ってつい拒絶してしまった。
「……じゃあ、先に帰るよ」と寂しそうに言ってパーカーのフードを深々と被り、早足に歩いてその場を後にする。やっぱりこのまま一人で置いていくのは若干後ろめたいが、弟の意を汲むためにもと心を鬼にして雨の中を歩いていった。
辛うじて体力は残っていた。兄がいなくなったのを確認した時、キラッと光るものがあったので何だろうと目を凝らした。兄を刺そうと持ってきた小さなナイフだった。
てっきり兄が拾って持って帰っていったものと思っていたが、先ほどのどさくさの中で存在を忘れてしまったのか、探すのが面倒臭かったからか、理由は分からない。
殺傷能力を持つ刃物であるためそのままにしておくわけにはいかず、ゆっくり立ち上がって足を引きずりながら投げ捨てられたナイフを拾いに行った。そして出口近くの壁に寄りかかって体育座りの姿勢で座り込む。それはまるで雨が止むのを待って雨宿りする幼子のようだった。
休んで体力が戻るのを待っている間平沼は思い悩んだ。二度も負けてしまい、最早兄には敵わないと観念した。これでは、折角大風呂敷を広げて改革を約束したのに味噌を付けてしまい、これではメンバーたちにも顔すら合わせられないだろう。このまま泣き寝入りし、姿を消して路頭に迷ってしまうのだろうか。
色んな悩みや不安が一気に噴出し、あまりのやるせなさにたまらず大声で叫んだ。叫び声はトンネル中に虚しく響き渡るも、ザーッと降りしきる雨の音にかき消されていった。そして誰にも理解されないやるせなさと寂寥感に不覚にも涙を流してしまう。
すると、反対側の出口から誰かが走って入って来るのが見えた。黒のスーツを着た五十代くらいのサラリーマンの男性と見た。傘を忘れたのだろうか、全身びしょ濡れだった。平沼は頬を伝った涙をシャツの袖でサッと拭い、突然現れた男が気になってじっと見つめ、害は無さそうだと判断して項垂れて塞ぎ込む。
男が歩いて近づいて来て、平沼の近くに鞄を置いて平沼に話しかけるのでもなく両手を腰に当てて外の雨を眺めた。するとその男は「まあ、こういう日もあるもんさ」と何気なく口にした。唐突な独白に吃驚して体をブルっと震わせ、顔を上げてスーツ姿の男を見る。
「昔親父がよく言ってたんだ。天気は心の写し鏡だって。心が晴れれば空も晴れる。心が曇れば空も曇る。心が泣けば、雨が降る。雨がこんなに酷いんじゃ、今でもどこかで誰かが大粒の涙を流して泣いてるんじゃないかな」と続けて言った。
それを聞いた平沼がドキッとした。まさに今の自分のことを遠回しで言っているかのような口ぶりで聞き捨てならなかった。それはまるで、魚の骨が喉の奥に引っかかって中々取り除けないような、どうしようもない不快感に似ていた。
どこからともなく現れた赤の他人に、知ったようなことを偉そうに言われる筋合いは無い、と反論して論破したい思いに駆られた。心なしか、雨が上がるのを優雅に待つその立ち姿さえ烏滸がましく見える。
敗北は死んだも同然だ。兄に負けるならまだしも、こっちの事情など知る由も無いしがない会社員に無条件で負けるなんて己のプライドが許せる筈も無く、悔しくてたまらなかった。無性に腹が立ってきてそのうち炎の如くメラメラ燃え上がり、感情の箍が外れてコントロール出来なくなりそうだった。
どこまでも沸き上がる怒りを落ち着かせるように、目を閉じて自分の心と対話する。今から行う行為が善か悪かよりも、自分の感情に正直に従うべきか迷った末、決心したように再び目を開く。
徐に立ち上がってナイフの柄をギュッと握りしめ、男の元へ一心不乱に走って突っ込んでいった。
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