第26話 ゲレンデに置いてきた情熱

 姉さんから父さんと嫌う理由を聞いてから俺は両親に対する今後の対応で数日程度、何度頭を働かせていた。そんなとき栗之先輩から「今度実家に遊びにこない?」とトークアプリのメッセージを介して誘われた。メッセージを初めて閲覧したとは見間違いかと思ったが、週末の土曜日である今日、俺は栗之先輩と共に栗之先輩の実家に向かっている。


「わたしの家見えてきたよ」


 栗之先輩が人差し指を綺麗に真っ直ぐと伸ばす。栗之先輩の実家の最寄り駅から歩いて十分程度が経過していたが、人差し指で示された箇所はマンション暮らしである俺の想像を遥かに越える家があった。 屋根が平らな家は三階建てで壁の色は白色でありデザインそのものもシンプルにまとめられているが、壁や屋根からは凄まじい気品で満ちている。家の正面には家の扉へと続く短めの階段に車が二台は並べられる程度の幅があるシャッターが降ろされており、その奥はガレージだろう。


 両親の職業的にそれなりに裕福な家庭だとは想像していたが家の大きさや、車を複数台止められるガレージを目の当たりにした俺は家に視線を奪われながら心の中で「凄い」と感嘆していた。


「鍵開けるから待っててね」


 階段を上がって家の扉の前まで着くと、栗之先輩は肘にかけた上品なハンドバックから鍵を取り出し鍵穴に差し扉を開ける。


「さあどうぞ」

 栗之先輩に先導させる形で玄関へと足を踏み入れる。中に入るとピカピカに磨かれた艶のある木目の床と優雅さに溢れる白壁が待ち受けていた。内部も高級感に溢れていてあまりこの類の家に入ってことがない俺の心はざわついて落ち着きを失いかけていた。栗之先輩が先に靴を脱ぎ玄関から廊下に上がるとスリッパ入れからスリッパを一足取り出し自分で履く。


「松貴くんはこのスリッパ履いてね」

 更にもう一足スリッパを取り出し床に置いた。俺も靴を脱ぐと用意してもらったスリッパに履き替え、奥へと進む栗之先輩の後に続く。廊下の突き当りにある扉を栗之先輩が開けると広々とした空間が広がっており、右側にはキッチン、中央にダイニングテーブル、左側にはテレビやソファーなどが置かれており、手前の右側には二階へと続く階段があった。そしてソファーにはもたれてテレビを視聴している一人の女性がいた。


「栗之おかえりなさい。そちらがお友達の松貴くんであってるかしら?」

女性はこちらに気づくとテレビの電源を切り立ち上がり、俺に目を遣ったあと後栗之先輩の方に視線を変えた。

「そうだよお母さん。隣の人が前から話してた松貴くん」


 掌を俺に向けながら栗之先輩は自らの母親に俺を紹介する。紹介されたため栗之先輩の話が終わると俺は手短に挨拶をする。


「椎橋松貴といいます。栗之先輩には学校問わずお世話になっています」

「栗之の母です。栗之からは松貴くんの話をよく聞いていたから一目会えて良かったわ」


 非常に落ち着いた口振りで栗之のお母さんは挨拶を返してくる。母親ということもあり顔立ちなどは栗之先輩と似ている箇所が多い。おおらかな感じして親しみやすそうな印象がするのだが、何故か口元を綻ばせながら何かを確かめるように俺のことをまじまじ見つめてくる。予想外の行動に俺は困惑しつつも笑みを浮かべられていることから悪い印象は持たれていないと解釈する。


「栗之が実家に友達を連れてくるのは随分久しぶりね。ゆっくりしていってね」

「松貴くんわたしの部屋に二階だから上に行こう」


 栗之先輩は俺にそう促すと先に階段を上がっていく。俺は栗之先輩の動きを目で確認すると栗之先輩のお母さんに一礼し栗之先輩の後をついていく。二階に上がっている最中に俺は気になったことを尋ねる。


「栗之先輩のお父さんは今日はいないのですか?」

「今日は夕方の五時まで旧友と食事でいないってお父さんが言ってた」


 栗之のお父さんは以前二人きりで話した際の印象が未だに強く頭に残っていたため一目挨拶したかった。二階のとある扉の前に付くと栗之先輩がドアノブを回し扉を奥に押す。


「さあ松貴くん入って」


 栗之先輩に案内されて部屋に足を踏み入れる。白い天井と壁に囲まれた栗之先輩の自室は友達が四、五人訪れても空間に余裕がありそうなくらい広々としている。あまりの広さに俺はこの部屋の持ち主を羨ましくなる。部屋の中心にはピンクの絨毯が敷かれており、その上には小粋な木製のローテブルが設置されている。部屋にはチェストや白いベッドが他にもあるが部屋の奥にある勉強机には教科書などはなく雑誌など少量の物だけが置かれている。


 栗之先輩はローテーブルの前に座ると俺も少し距離を取って絨毯に腰掛ける。


「普段は住んでないから今はあんまり物はないんだよねこの部屋。チェストとかも中身あんまりなくて入っているのも昔着てたものばかりだし」


 懐かしむようにチェストに視線を当てながら部屋の事情について栗之先輩は語る。俺は語られたチェストを確認する。ベージュのチェストは収納に困らないと推測できるほど大きく引き出しが六つもあった。


「そういえば勉強机とかあんまり物置いてないですよね」

「必要なものは今の住居に持っていったからね。松貴くんちょっと待ってて」


 栗之先輩は俺の発言に誘導されるように勉強机の方を横目で見ると、何かを発見したように栗之先輩の眉が急激に吊り上がる。絨毯に手をつき体を起こした栗之先輩はそのまま勉強机の方に向かってしまう。勉強机から雑誌を取るとこちらへ戻ってくる。絨毯に腰掛けた栗之先輩は雑誌を机の上に広げるととある女性モデルを指す。


「このファッションどう思う?」


 浮き浮きとした声で栗之先輩は感想を求めてくるので俺は目尻に力が入るほど目を細めて指定された女性モデルに注目する。ファッション誌に掲載される服装なので当然ながらオシャレなのだがファッション素人の俺は具体的な意見が浮かばない。簡易的な意見でいいのか迷うが気取っても仕方がないので率直な意見を言う。


「このトップスとかいいですね」

「確かにこのトップスのデザインはかなり良いと思う。わたしもこんな衣装を作れたいいな」

「そういえばファッションデザイナーになるのが夢でしたよね」

「そうだよ、昔からファッションが好きだったからね」


 ファッション雑誌に手を添えながら想いを述べる少女の瞳はファッションデザイナーへの強い熱望を感じさせる。

その瞳を目の当たりにした俺は栗之先輩がファッションに対する志に関心が湧いた。


「なんでファッションデザイナーを目指しているんですか?」

「前にも言ったかもしれないけどファッションって身につけるものが違うだけで人の雰囲気とイメージを大きく変えてくれるでしょ? だからわたしは小さい頃から自分をコーディネートしてて友達とかにそれを褒めてもらえているうちにファッションがわたしの中心になっていたの。そのうちコーディネートからデザインにも興味を抱くようになってそれでファッションデザイナーになろうと決意したの」


 夢を抱く経緯を語る栗之先輩の話し振りには長年積み重ねてきた熱意がしっかりと詰まっていた。栗之先輩の熱意に触れた俺の心は激しく滾り出し、失われたスキーへの志を思い出す。もはや夢を持たない今の自分には無我夢中でゲレンデ滑り、技術を磨き、スキーの腕前が上達することを心掛けてきたかつての自分に嫉妬してしまいそうになる。


「栗之先輩からは物凄いを熱意が感じせされるので、素晴らしいデザイナーになれそうですね」

「この夢を叶えたいってずっと望んできたから、そうなれたら嬉しい。ファッションは好きだしわたしを支えてくれた存在だからできるかぎり深く長く関わっていきたいって今は思ってる」


「自分にはないけど好きなものと密接に関われる日々って苦しいこともあるけどきっと充実にしているんだろうな」


 今の自分にはスキーのような情熱を注ぐ存在はないと理解するほど感傷に浸ってしまう。


「今なくてもいつか見つければいいと思うよ。そういえば以前小学生の頃は本気で取り組んだいたものがあったって言ってたけどあれってなんだったの?」

「あれはアルペンスキーです。おじいちゃんに教えてもらっていたんですけど色々あって今はやってないんですよ。あの頃は本当に充実していたって、今は思っていますね」


 顔から力が抜けていくのを実感しながら今の現状を嘆くように問いに答える。脳裏に懐かしいスキーの思い出が再生される中、視界に温もりのある瞳が映り込む。瞳の主は俺の気持ちを確かめる率直な言葉を投げかけてくる。


「松貴くんはやっぱりまだスキーがしたい気持ちはある?」


 その問いかけは心の底で漂っていたスキーへの未練を表層に引き上げてしまう。スキーへの未練と向き合うことになった俺にはゲレンデを滑りたいという明瞭な気持ちが宿っていた。だが本音を伝えようとも唇を上手く動かせない。今更滑ってもあのときは取り戻せられないという卑下した自分が声を出すの妨げていた。


「わたしは松貴くんの本音が聞きたい。松貴くんは悩む必要なんてないから」


 俺の様子を見守っていた栗之先輩は痛切な声で呼びかけられる。葛藤していた俺に送られきた助言は本音を語るのを妨げていた鉄の蓋を開けてくれた。

「自分はまたゲレンデで滑りたいですよ。やっぱり俺にとってスキーはかけがえのない存在でしたから」


 本当の思いを喉を介して言えたことに心が急激に軽くなる。俺が本音を伝えたことに安心したように栗之先輩の顔中には笑みが広がっている。俺はそんな栗之先輩を目にしながらぼんやりとかつて祖父と通ったスキー場の名が頭に浮かんでいた。長年訪れてはいなかったが夏であっても今は無性にゲレンデを滑りたい気分で一杯だった。


「なら冬休みになったら二人でスキーしにスキー場に行こう」


 季節外れの誘いに俺は思わず口元が綻んでしまう。スキー場のことを考えていた俺にとってこの誘いは有り難い。何より一人で滑るよりかは誰かと一緒に滑ったほうが心からスキーを楽しめるはずだ。


「そうですね冬休みになったら行きましょう。そうなると色々と機材買わないと。家にはスキー用品ゼロですから」

「わたしあんまり滑ったことないから教えてね」

「いいですけどうまく教えられなかったらごめんなさい」


 俺達はその後賑やかや雰囲気で当面先の冬休みの予定を立てるのに時間を費やした。栗之先輩の部屋から後にした俺と栗之先輩は階段で一階へと降りる。一階に辿り着くとソファーに座りながら雑誌を読んでいた栗之のお母さんが俺達に気づくと後ろの壁を見上げた。栗之のお母さんの視線の先には天井近くにかけられた時計があり、時刻は十五時を僅かに過ぎていた。


 栗之のお母さんは雑誌を机の上に置き立ち上がりこちらへと歩いてくる。


「あら松貴くんもう帰るの?」


 栗之お母さんが弱々しい声で話しかけてくる。


「はい、このあと姉と買い物に行くので」


 俺は顔を引きつりながらら言葉を発する。


「ご姉弟で買い物とはいいわね。また遊びに来てね」


 栗之のお母さんの目元と口元が緩む。


「ならまた遊びに伺わせていただきます」


 俺は笑顔で栗之のお母さんに軽く頭を下げると、栗之先輩と共に玄関へと向かう。


「今日は誘っていただいて本当にありがとうございました。おかげリラックスできました」


 玄関で靴を履き終えた俺は立ち上がり栗之先輩と面する。


「それなら誘ったかいあったね」


 栗之先輩は顔ごと視線を泳がせて中々俺と目が合わない。


「……なら帰りますね」


 俺は僅かな間沈黙した後、静かに一言発すると時間をかけながら立ち上がる。そのまま背を向けたまま歩き扉のドアノブに手を伸ばしかけると、後方から勢い任せの乱れた声が飛んでくる


「松貴くん月曜日一緒に学校行かない?」


 俺は伸ばしかけた手を垂らしすぐさま後ろを振り向く。栗之先輩は膝を少し曲げながら俯いていて顔は視認できない。俺は微かに微笑むと力のある声調で返答する。


「全然構いませんよ。詳しいことは後でスマホで連絡していいですか?」

「うん」


 栗之先輩の顔が上がる。その表情には笑顔が浸透していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る