第23話 越えられない壁
四、五人程度入れる小さいな部屋でマイクを握りながら俺は声を立てる。部屋の角に設置されているカラオケ機器からテンポの速い曲が流れていた。部屋には友人はおらず一人だけである。そのため普段は歌えない曲を好きなだけ歌える。もっとも歌うためにカラオケに来ていたわけではなかった。父さんが帰宅するまでに時間を潰すためだ。昨日姉さんと話し合ったが、今日の朝に母さんに「父さんに話があるから時間をくれ」と連絡した。母さんからは父さんが帰宅する時間を伝えられたため、実家近くのカラオケで父さんが帰ってくるまでの時間を待っていた。
曲を歌え終えた俺はスマホで時間を確認する。夜が始まってすぐにカラオケに入店したが三十分程の時間が経過していた。予定時刻に近づいたため俺は革のソファーに置いたバッグを肩にかけると部屋の扉を開けた。
マンションの自宅の前に着き、久々に実家の鍵をバッグから取り出す。鍵を見て実家に帰宅するという実感が湧くと同時に父さんを説得することを考えると息が乱れだす。しかし逃げることは許されない。不安がる自分を励ましながら俺は鍵穴に鍵を差し込み腕を捻った。鍵が開きいつもより慎重にドアノブを回す。扉を開けきると「ただいま」と最近は姉さんに向けていた言葉を発した。玄関を踏みしめると奥の方から母さんの声で「おかえりなさい」とだけ言葉が返ってくる。俺はそのまま廊下を渡りリビングに出ると、隣接するダイニングに置かれたダイニングテーブルの椅子に隣同士で座る父さんと母さんが既に待っていた。母さんの表情はまだ温和だったが父さんは眉間に皺を寄せたまま、明らかに息子が目の前に居るの気づいていながら目を合わせようとしない。苛立っているのが明白な父さんを前に気後れしそうになりつつも、一先ず父さんの目の前の椅子に着席した。
「久しぶり父さん」
「話があると言っていたが借金の肩代わりを辞めることを決心したのか?」
自らが望む結論ありきの問いを早速ぶつけられるが、俺は躊躇うことなく「違う」とはっきりと否定し話を続ける。
「おじいちゃんの件で話があって今日ここに来た」
目的を告げると落ち着きを失ったように冷徹な父さんの目は丸くなり瞬きすらせず俺と向き合っていた。父さんにとっておじいちゃんの話題は予期していなかったようだ。
「じいさんがなぜ関係あるんだ」
「そのおじいちゃんは今入院しているんだ」
「それがどうした」
強がるように父さんは口を動かす。もっとも腕を組んだまま俺から視線を逸していた。想定外なことが続いているであろう父さんに俺は語りかける。
「姉さんが借金しているのはおじいちゃんの事業で失敗した借金を引き継いだのが原因なんだ。姉さん自身も病気で休職して色々苦労してきたし、おじいちゃんも入院している状況だから父さんには姉さんやおじいちゃんとの関係を見直してほしい」
「お前の願いを聞き入れる気はない。今更じいさんと和解するつもりはない。優那も同然だ。それともお前も俺と縁を切るか!!」
父から怒声が放たれるがそれはあまりにも威圧的だ。俺はそれから逃れるために耳を防ごうと両手耳近くまで動かす。だが対峙する父さんから逃げるのだけは避けたかった俺は両手を音が立つ程荒々しく膝の上に叩きつけた。
「おじいちゃんは父さんの親なのになぜそこまで否定するんだ! 姉さんも父さんの子どもだろう。家族なんだから少しぐらいは思いやってもいいと思うんだ!」
俺はただただ何度も口を限界まで開き、舌を動かす。そして胸の内に築かれた感情で父さんの考えを打ち返すべく反論する。もっとも父さんが自らの考えを再考する素振りは一切見せるどころか刺々しい眼差しを俺に浴びせてくる。
「わたしはじいさんの生き方嫌いなんだ。それこそ孫の将来のことを考えられない無責任な人間だ」
「無責任? 少なくと俺の記憶の中にあるおじいちゃんは無責任ではない」
父さんから出たおじいちゃんの話に俺は感情的に言い返してしまう。
「だったら今からじいさんと縁を切るきっかけになった話をしてやる。それで納得しろ。そもそも松貴お前はスキーをじいさんから教わっていたことは覚えているか?」
父さんから投げかけられた質問は俺にとって物凄い懐かしい言葉だった。
「スキー……アルペンスキー回転のことだよね。覚えてるよ。俺はスキー選手になりたかったから。けどもう九年間やってないけどね」
アルペンスキーには回転や大回転などのいくつかの部門に別れており、基本的に雪が積もった斜面のコース上にポールを用いて旗門を通過しながらタイムを競う競技。旗門にはポールが用いられている。回転の特徴としてはコース上のカーブの数が多い。そのためカーブをいかに上手く曲がれるかが競技において重要である。俺は純粋にゲレンデを滑るが好きだったが、スピードが出ている状態でカーブを曲がる瞬間が何度も気持ちが昂ぶって好きだった。
「じいさんはお前も知っている通り元アルペンスキー回転の日本代表だった。それでスキーが好きだったお前に何度もアルペンスキー回転の指導していた。もっともこの辺りは雪がほとんど滑らないからスキー場へ行くだけでも苦労していたとじいさんは嘆いていたな」
父さんの説明する通りこの辺りは雪が積もりづらい。そのためスキーをするには遠出する必要があった。当時の俺は確かおじいちゃんの車でスキー場まで通っていたはずだ。
「それで俺がスキーやっていたこととおじいちゃんと疎遠になったことはなんの関係があるの?」
早くスキーと疎遠の関係性を知りたかった俺は急かすように父さんに話の本題に移るよう求めた。スキーとは椎橋家にとってもはや過去の思い出に過ぎない。それなのに父さんはわざわざスキーという話題を持ち出した。俺としては一早くその意図を知りたかった。
「お前にはアルペンスキーの才能があったらしく、じいさんはお前をここから北に離れた雪が積もる地域にお前を連れて移住しようと考えていた。わたしはそれに反対した。それで喧嘩になって疎遠になった」
移住。その言葉が脳を迅速に駆け回る。今まで思い出しもしなかったが、何度かおじいちゃんからスキーの選手として成長するために、スキーが盛んである北の地域に移住しないかと提案されたことがあった。
「そういえばおじいちゃんから似たような計画を聞かされたことあるけどまさかそんことになっていたなんて。当時の俺だったら間違いなくおじいちゃんに着いて行った。なんで反対したんだよ!」
スキー選手として活躍したかった俺はその提案に賛成だった。細くて鋭利な声で父さんに異議を唱えると共に体内の恨みを大きさを体で表現するように片手を大きく広げた。俺の発言に父さんもすぐさま、ずばずばと主張を述べて俺の異議に対抗してくる
「スポーツ選手で生計を立てられる人間は決して多くない。目指すにしても保険をかける意味合いで勉強を並行してしっかりと行うべきだ。それなのに親元を離れて暮らすとなると勉強をしているか親は確認できない。もし勉強を疎かにした上でスポーツの道で失敗したらお前はどうするつもりだ? そうなれば厳しい人生になるのは容易に見通せる」
「確かに勉強して堅実に生きていくほうがリスクは少ないだろうけど、最初から子どもの将来を決めてつけていたら人生つまらなくなるよ。そもそも姉さんの進路に反対しているどころか俺の将来すら否定したんだね」
父さんの見解は決して誤っていないため、俺の勢いは衰えるがそれでもこの話し合いでまだ折れる気はなかった。
「優那があのまま望み通りの進路に進んだらその将来は寂しいものになっていたに違いない」
「なんでそうやって決めつけるんだよ。姉さんの可能性は誰にもわからないだろう」
話の軸が姉さんに移り変わって本格的な口論を俺と父さんの間に始まる。それは数分にも及んだ。やがて話し合いには傍観していたはずの母さんが唐突に話に割り込んだ。
「松貴、父さんの言うとおりよ。学歴は就職活動のときに活きてくるのは松貴だって分かるよね。優那だって大学は高学歴とされる大学に通っていたから内定だってすぐに貰えたし、結果的にはいくつもの候補から入社先を選ぶことができたの」
「確かに……姉さんの就職活動は物凄く順調だったよ。けどそれは学歴以外の姉さんの能力も関係しているはずだよ」
母さんの説得力ある意見の前に俺は尻すぼみしてしまう。姉さんの勤め先である会社の社員の学歴は偏差値の高い大学出身者が大半だ。いくら姉さんに能力があっても学歴が乏しければ選考を進むのも難しいのは想像できた。そして何より姉さんだけではなく両親も学歴的には優れており、共に会社員の二人の収入も恵まれている。両親自身が学歴という恩恵を受けた体現者である以上的確な反論は難しかった。
「学歴が重要視される現代社会で子どもはまず勉強を頑張ることが大切なの。スポーツはそれから。松貴は優那と比べて勉強は苦手みたいだし人生で失敗したくなければ勉強を頑張ることね」
「お前も早く優那の家から戻ってこい。借金など優那一人に払わせておけばいい。アルバイトも辞めろ。我が家に住んでいる子どもは今はお前一人だけだから小遣いだって十分に渡せる。金銭的にもそれで文句ないだろう」
学歴を重視しすぎる両親の方針に俺は現時点では両親の説得など不可能だと勘付かされてしまう。話し合う前までの自信は体から飛び去ってしまい、俺は両親を目の前にしながら膝部分のズボンを鷲掴みにし自分の行動が無謀であったと思い知らされる。「悪いが今日は姉さんの家に帰る」と両親に言い残すと椅子から立ち上がり両親に背を向ける。母は俺を止めようと「少し待ちなさい」と言葉をかけてくれた。だが俺は後ろを振り向かずそのまま実家から再び離れた。
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