第二部

第21話 やってくる誕生日


 燃えている。


 渦を巻きながら、風とともに勢いを増す炎。灼熱の地獄の中にいる。

 壁のように四方を遮り、出る術はもうなかった。焼け焦げて死ぬだけ。


 そもそも、救われる術などなく。目の前の存在がそれを許さない。


 ーーここに、獄炎をもたらした一人の女。


 炎が女を包みこんでいる。彼女の影は大きく、形を捕らえることさえも難しい。

 揺らぐ焔は、生命の鼓動の激しさだった。


「お前は愛情の一切を忘れてしまったのね。欲は覚えても、人を愛することを知らない。憎しみばかりで、苦しんでいる」


 可哀想と嘲けるように笑ったのは、理不尽な存在。

 その瞳は千里を見つめ、心の奥底まで覗き込むような深淵。抵抗さえも許されない、圧倒的なもの。それは例えるなら、絶対者だった。


「お前はこの土地を守りなさい。

 人間が殺されるたびに、お前に同じだけの痛みを与えるわ。必死になって、人間が殺されないように努力しなさい。そして、お前が殺してきた人間へ釈罪するの」


 ーーいつか、許される時まで。


 炎の中で自分と一緒に燃えながら、そう語った女は、自らの命と引き換えにこの地に俺の魂を縛り付けた。


 鬼と呼ばれた自分すらも支配した存在を巫女ーー神子という。

 彼女の真意を知る機会は二度とない。

 最後の記憶は、そんなもの。


 


 7月24日。夏休み初日。


 風鈴が網戸から漏れる風になびいて、ちりんちりんと鳴った。そして、夏の風物詩とも言うべき、扇風機の音もする。その部屋の中央にあるテレビに、ナレーターが通行者に質問をしている様子映し出されているが、部屋に人影はなかった。


 この家の住人は何をしているかというと……。


 目線をもっと下に向けて、ダイニングの床を辿っていくと、隣に畳の和室がある。

 その小さな部屋には神棚。いくつかの写真が置かれた卓。

 

 その机の下で寝転がっていた。まるで猫か何かのように。


「……ひまだ」


 愛花はそうつぶやいた。


 それから、テーブルの下でバタバタし始めた。そして、いつの間にか横にいた丸くて黒い物体――稀龍もポヨポヨしている。


 夏休みの暇な時間の過ごし方が分からない。

 課題は、優芽ちゃんと一緒に解く予定なのでーーそもそも解けないーー、やることがない。


 寝転がる。右に転がり、左に転がる。テーブルの脚にあたり、反対方向に転がる。ぐるんぐるん。それと一緒に稀龍も、くるんくるんついてくる。


 最近は、影から出てきて楽しそうにしていることが多いので、愛花も嬉しかった。優芽が転校してきて以来、あまり活動的ではなかったのだけれど、一段落ついてからいつもの様子を取り戻していた。


「うーん。稀龍、して欲しいことない?」


 肩揉みでも、散歩でも、何か協力するのでもいい。

 努力すると言ったからには、何かはじめなきゃいけない。決して暇だから聞いたわけではない。


 すると稀龍はコロコロと転がりながら、ある場所に移動した。何か言いたいみたい。


 愛花は起き上がり、稀龍が転がっていったカレンダーの前に向かった。


 カレンダーに目を向けると、優芽ちゃんが赤丸をつけた場所が。えと、私の誕生日……?


 そのまま、ポヨンポヨン跳ねる。


「え?」


 愛花は長年の付き合いによる経験で、何を言いたいのかも察した。


 明日は優芽ちゃんがお祝いしてあげるから、楽しみにしててねと言っていたのだけど……。


「もしかして、明日優芽ちゃんと遊ぶのが嫌なの?」


 そのまま跳ね続けているので、多分肯定してる。


「そっかぁ。でも、先に約束してたのは優芽ちゃんだから」


 愛花はそう伝えたが、まだ跳ね続けている。不満があるそうだ。

 しかし、愛花にも譲れる範囲と譲れない範囲があった。稀龍のことも大事だが、長年離れていた親友も愛花にとっては大事なのだ。


 ……でも、優芽ちゃんとはお昼に集まる予定だから、早めに切り上げたら、稀龍とも過ごす時間ができるかも。


「ちょっと聞いてみるね」


 愛花は全く慣れていないガラケーを操作する。説明書を見て、メールの送信方法を探す。


 びっぴっぱっ。打ち間違えては消して、打ち間違えては取り消す。


『ゆめちやんへきさらぎ愛花です

 明日のたんじようびなんだけど、午後から用事ができたので少し早く帰ることになるかもしれません。大丈夫ですか?

 よろしくおねがいします』


 すると、すぐに返信が来た。

 愛花があれほど時間をかけて、一つのメールを作成したのに、それは10秒も経たないほどの速度で。

 あわてて説明書を読み、返信を開く。


『愛花ちゃん、やっぱりスマホの方が良かったんじゃない? すごく返信しづらそうだよ。今なら、返品できるし、社会の最先端に触れる経験だと思って、買い直しに行こう? 愛花ちゃんのお母さんもその方が良いって言ってたし』


「……そんなにスマホって使いやすいのかな」


 母親も、愛花がガラケーを買うと言ったときに難色を示していたなと思った。母親は最新のスマホに買い換えていたが、愛花は意固地になってガラケーにしたのだ。


 その文章を読み終えた瞬間、また次の返信が来た。


『明日は愛花ちゃんの誕生日だね。生まれてきてくれてありがとう。

 愛花ちゃんのための日だから、私に遠慮しなくてもしたいことをしてね。

 それで、どんな用事が出来たのかな? もしかして、あの男関連だったりする?』


 あの男とは多分、稀龍のことだろう。優芽ちゃんは、稀龍の名前を知っても、その名前を使おうとしないから分かりづらいけれど、十中八九そう。


「……どうして分かったんだろう」


 じっと画面を見つめていると、優芽から電話が来た。慌てて電話に出た。


「もしもし」

「愛花ちゃん、電話の方が早いと思って連絡したんだけど、時間大丈夫?」

「うん、全然大丈夫。最初から電話すれば良かったね。忙しいかなって思って、メールにしたんだけど」

「愛花ちゃんなら、いくらでも電話してくれていいよ。愛花ちゃんより優先することなんて、この世にはないし。……それで、どうしたの?」


 優芽の大げさな言い方に、笑いがこぼれる。きっと、愛花を笑わせてくれようとしたのだろう。


「えっとね」


 愛花は事情を説明した。



「……うん、うん、事情は分かった。

 でも愛花ちゃん、私思うんだけど。そいつより、お母さんを優先してあげた方が良いんじゃないかな。愛花ちゃんが普段誕生日を祝おうとしなかったこともあったし、親孝行してあげようよ」

「えっ、ママと?」

「うん。自分から口に出して何も言わないようなやつに、愛花ちゃんの時間を割く必要ないし」


 愛花は思いもよらぬ提案をされて驚きながら、どうしようかと思った。


「夜勤が入ってるみたいだし。いつもお祝いなんてしてないから……」

「あの男は明日何をするって言ってるの? それはちゃんと話したよね」

「えっと」


 そういえばそうだ。明日何するのだろう。いつも愛花の都合お構いなしに勝手に行動していたので、こうやってわざわざ稀龍が愛花に言うのは初めてだった。だが、要件が不明だ。


「あーあー。何も言ってないなんて論外だよ。親しい人の間にも礼儀は必要だもん。そんな調子で愛花ちゃんを混乱させるのが目に見えてるから、私は反対」


 優芽ちゃんは稀龍に対して手厳しい。でも、愛花は自分のために彼がどれだけ犠牲になってきてくれたかを知っているので、そんなに非難する気にもならなかった。長年一緒にいるから、慣れてしまっているところもあった。


「アイツが言う気が無いなら、私から教えてあげるね。明日は愛花ちゃんの16歳の誕生日でしょ。つまり、異界の基準で言うと――」


 ――横からスッと、手が出された。


「えっ」

「どうしたの、愛花ちゃん!」


 ブチッと電話を切られた。


 そこにいたのは、人間体の彼だった。愛花よりもずいぶんと高い身長、大きな体格。それなのに、腰の高さがあまり変わらない。

 美形過ぎるくらい美形で――以前は真正面から対峙していると落ち着かなくなって逃亡していたが――昔の記憶を思い出してから緊張することもなくなったその姿。


「稀龍! 話し中だったのに」

「夢魔は、邪魔」


 ――夢魔?


 夢魔と言えば、サキュバスやインキュバスなどが有名だ。人の眠りの中に入り込んで、精気を吸い上げる悪魔として知られている。伝説上では、人を誘惑し、悪の道へと誘う形のない存在。相手の望む姿に変わり、その欲望を叶えるかわりに、対象者は命を失うこともある。

 優芽は夢魔なのか。あの化け物は夢魔だったのか……。少しだけ納得できる気もした。

 

「愛花」

「きゃぁっ」


 愛花が考え込んでいても、突然名を呼ばれ、抱き上げられた。上から稀龍を見下げるような格好は、子どもの頃に彼に抱っこされていたときと同じだった。忘れていたけれど、抱っこはよくしてもらっていたのだ。

 でも、愛花はあの頃とは違い、成長している。そして、彼を異性として好意を抱いていることを自覚していた。

 ふれあう感覚で、心臓が高鳴る。どきどきどきどき。顔に血が上っていくのが、分かる。


「稀龍?」


 ――どうしたの? そう、問いかけようとして。


 その瞳を見て、愛花は問いかけることが出来なくなった。


 稀龍は、こんなに甘い瞳で自分を見つめていただろうか。愛花が分かっていなかっただけなのか。


 愛花は夢と争ったあの日、稀龍の力で復活した。

 半分人から外れた生き物になった。身体が丈夫になり、容姿も変化した。人ではないものが見れるだけではなく、意識的にそれらとつながれるようになったのだ。

 意識は明瞭になり、肉体と精神がぴったりと重なっている感覚だった。人と馴染むことが難しかった愛花は、あちら側に属することの方が合っていたのかもしれないと思ってしまうほどだ。思考が前向きになって、不安も少なくなった。


 だから、こんなことを自分からしようと思うのだ。これは半分稀龍のせいだ。

 

 顔をかがませて、勢いのままにキスをした。

 触れるだけのキス。でも、愛花にとってできる限りのスキンシップ。


 なぜか力の抜けた稀龍から、すとんと降りる。


「明日、何があるか知らないけど、待ってるね」


 稀龍から顔をそらして、そう返すので精一杯だった。彼が黙っているのは、何か意味があるからだと知っていたから、追求はしなかった。

 


「……アイツのしわざ」


 優芽はぶち切られた携帯を見て、眉間に皺を寄せた。


 周囲の獣たちがお祭り騒ぎをしているというのに、まだ愛花に伝えていないのか。

 ああ、やっぱりあんな男に愛花をやりたくない。


『やっと、主様が祝言を上げて下さる』


 うれしがっている内容が、優芽にとっては不機嫌の原因だった。


 16歳。それは女が結婚できる年齢である。異界では、慣例的に人間の中から花嫁を得る者たちがいる。昔は年齢は考慮せず、気に入った者を次々と人間界から連れてきて娶っていたのだが、行方不明の女児が増えすぎて、境界に影響を及ぼした。

 力の持つ巫女を手に入れたいと望む者は多く、争いとなることもあったので、人の子を嫁にもらう場合、16歳を基準とすることが定められたのだった。

 子どもと大人の境目、性別が未分化されている状態から『巫女』となる資格を手入れることが可能になる。


 愛花は特に優秀な器であり、慣習を破ってでも手に入れたいと思うものは大勢いた。優芽を食らった夢魔もそうだ。


 明日になれば、愛花ちゃんはまだ16歳なのに、あの男の物になってしまうのだ。彼女は狭い世界しか知らないというのに、あの男の嫁に行ってしまう。


 愛花ちゃんがあの男のことが好きじゃなかったら、何をしてでも引き離すつもりだったのに。


 そもそも、何も言っていない時点で失格だ。


「黙りなさい」

 

 優芽は、足元の家守たちに八つ当たりした。



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