第12話 幻は消える
暗闇の中。くっきりと見える小規模の神社の敷地に、複数の目が浮いている。その周囲にはグニャと歪んだ色が広がって、遠近感が無かった。溶け込まれたら、二度と逃れられない空間が広がっている。
しかし、愛花はそれに恐怖を感じなかった。
「……許せない」
爪が深く食い込むほど、手を握りしめた。固く握り込められた両手に、ブルブルと震える。
メラメラと燃え上がる憎しみの感情に、支配されそうだ。愛花は努めて冷静を意識した。
ーー相手を睨み付ける。
「はー……」
何層にも重なった蛍光色。不快さを煽る色味に加えて、その中に目があった。嫌悪、忌避、負の感情が刺激されていく。サイケデリックに彩られた視界は平衡感覚も失くそうとする。
息をゆっくりと吐き、惑わされぬよう注意する。
庇おうとする彼を押し留め、向かってくる相手のモヤを払った。払えることに、違和感はなかった。
こちらをギョロギョロと見つめる視線は、遠い昔の記憶に残っている。茫然自失の状態で、彼とこの化け物を同じものだと錯覚していたが、全然違う。
相手は臨戦態勢を取っている。幻を司る化け物を、愛花は他に知らない。何をするか全く予想がつかなかった。
人を惑わす、あの性質を読み取らなければ。
傍観者として、愛花は逃げ続けていた。向き合うことを嫌い、その存在から目を背けながら、ひたすら否定していた。
しかし、一方で意識して彼らを見ていた。彼らを察知しなければ、愛花は逃げられなかった。耳を澄まし、目を見開き、肌で感じて、彼らを見ていた。なら、どうすべきか。
「見・せ・て・」
愛花はその存在を覗いた。神社の敷地を覆うほどに大きくなった怪物。
それは空虚であり、本質はなく、揺れ動くままにあろうとする靄。
相手を写し取る夢を描き、彼方の世界に誘惑するものーー存在すら無き夢魔。ただ求めるのは、自我。人を害し、奪い、空にしてきた。ここまで力を蓄えたなら、犠牲になった者は数えきれないほどいるはずだ。
時には別世界をも映し取って、直通する鏡になってしまうだろう。緩やかな流れを滅びに向かわせ、退廃を知らず知らずのうちに人々に選ばせた業の深い怪物。
「底がない欲望の先には何も見えないのに、力を求めてしまうのは、その存在の浅さから? どうして、人から奪い続けたの」
「……ア」
「ねえ、どうして?」
「アアァアアアア!!!!」
問いに答えはなかった。その代わりに、鞭が跳ねるように、その身体が愛花に向かう。彼が攻撃を庇い、相手はその場に固定される。
足を踏み出すごとに、脈打つ。地下から脈打つさざなみすらも、そのとき愛花は理解した。
「…………」
歪が囲む。小さく縮んでしまったようだが、怯えているのか? いや、そんな可愛らしい相手では無い。
ギョロギョロとした複数の目が近づく愛花を集中的に見つめてきた。予想通り、愛花の心を刺激する幻が降って来た。
『あいかちゃん』
自分の大切な大切な記憶。近所の公園、サッカー場、自販機、
なぞれば、そこに優芽はいて。愛花を導いてくれていた。
優芽に憧れていた。彼女が好きだった。弱くて、逃げてばかりでも、生きることを諦めなかったのは、その気持ちが奥底にあったからだ。忘れていたって、彼女のことは身体が覚えていた。
自分の強さで正しくあろうとする。芯が一筋通っていて、間違いは間違い、正しいことは正しいと決められる性格だった。それでいて、笑う顔がとても可愛かった。自分といて、全身で嬉しいと言ってくれる。愛花の弱さを許してくれるひとだ。
『あいかちゃん、ほら遊びに行こうよ』
ツインテールが跳ねる。キラキラと輝く瞳が、愛花を見つめている。
手を差し出してくれるのは、いつも優芽だった。勇気がなくて、恐れてばかりの自分が彼女を追いかける。今だって、そのまま手を握って誘惑に乗り、ついていけるなら幸せだろうと心が囁く。
ーーでも。
「あなたは優芽ちゃんにはなれないもの。偽物は本物にはならない」
どれほど似通っていても、違うものは違うのだ。
意思を持って突き放す。
夢幻は、偽物と暴かれては意味をなさず。あっけないほど簡単に核を失い、ボロボロと分かれてしまった。そもそも魂すらない幻想であるため、ふわりと消え去るのみの泡となってしまったのだ。
ーー夢の魔物は、夢のまま消えてなくなれ。
「優芽ちゃんの偽物、バイバイ」
大きく手を上に挙げて、手を左右に振る。
手を振って、別れを告げる。傍観者ではなく、初めて自分の意思で、手を下す。
自分で作っていた境界線を超えて、踏み込んだ。
(もう二度と会うことはない、会う気もない)
愛花には待ってくれる人もいた。彼だけじゃない、母もいる。彼女の幸福を望んでくれる人たちがいる。生きることを捨てられなかった。もし、彼らがいなかったら、愛花は簡単にあちらの世界に堕ちていってしまったと思う。愛花は強いわけではないから。
ボロボロと崩れて、形をなくしていく怪物。
そして、残ったカケラが夢の形となる。まだ消えなかった。足掻き続ける。
「……ああ」
自分と同い年の優芽の姿が、ところどころモヤで散り散りになって、愛花に手を伸ばす。
「あい…かちゃん、だいすき」
化物は愚かにもまた、優芽のふりを始めた。愛花が止めてくれるとでも思ったのだろうか。
境界線を踏み越えてしまった愛花に、躊躇という文字は消えてしまったというのに。
愛花は、夢に近づいた。ニコニコと笑っている彼女の見目は見ているだけで、心が揺さぶられる。彼も後ろに張り付いていた。
夢の腕からは血は出ず、人形のような指が繋がっている。中身はまるで空っぽ。
しかし、この指には特徴的な傷跡が一つ付いていた。愛花が付けた傷。忘れようもないその跡。
ーーこれは、優芽のものだ。
気づいた。
その瞬間、あらゆる感情が一気に彼女の中で膨れ上がり、それが混ざり合って形容もできないほどの怒りが生まれた。
(あぁ。この生き物に、ゆめちゃんが味わった以上の痛みを、与えたい)
でも、それではコレと同じになってしまうだろう。苦しみと憎しみが連鎖する。感情に身を任せた途端、愛花は見たこともない生き物となって、優しい優芽と一緒に遊んでいた愛花ではなくなってしまう。
「……おねがい」
感情の一切を振り切った声で愛花は、彼に願いを告げた。この化け物がこれ以上の被害を広げる前に、手を打たなくてはいけなかった。それは自分では出来ないこと。愛花が手を下せば、復讐の意思を持ってしまう。これは意思を向けることさえ、必要ない存在だ。憎しみを向けることが、力を与え、喜びさえ与えてしまう。
「……同じように、できるが」
「繰り返しても、優芽ちゃんは喜ばない」
「そうか」
「……うん」
本当は苦しめたかった。苦しめて苦しめて、無残にこの世から消してやりたかった。それを分かっていて、それで良いのかと愛花に確かめた。彼は、愛花の望みなら叶えてくれただろう。でも、それは選べない。
彼がふと愛花の気持ちごと抱きしめた。ギュッと抱きしめられると、弱くなってしまう。
目元の涙を指で掬い取られた。また、泣いていたのか。
(涙って、どうやって止めればいいんだっけ。分からなくなっちゃった)
止めたいのに、止まらないのだ。
「あいかちゃん、たすけて」
「……」
譫言うわごとだ。分かっている。でも、聞いてしまう。感情がごちゃごちゃだ。
きっと振り返れば愛花を見つめて、助けを求めている。
「聞くな」
優しく頭を撫でられて、つい瞬きをした。ぱちり。
その瞬間。奇妙な断末魔が一つあがり、それは姿を隠した。
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