第7話 夜の闇


 

 ーー夜更け。

 キャンプファイヤーなどの行事を終え、疲れてテントの中で寝袋に丸まって寝ていた愛花はふと、トイレに行きたくなって目が覚めた。


 隣の夢は熟睡している。

 その中を起こさぬようにゆっくりと進み、出口のチャックを下ろす。

 出る時にパチパチッと不自然に静電気が出たが、痛くはなかったので気にせずに外に出た。


 ーー近くに、彼はいなかった。影の中にもいない。人型も姿が見えない。はじめての彼のいない夜。


 クスクスクスクス。


 周囲から囁き声が聞こえる。彼方の声。

 それに耳を傾けてはならない、意識をそちらに向けてしまえば、彼らは愛花を引き込もうとするから。

 しかし聞こうとしまいとするほど、それは耳に入ってくる。


「美味しそうね、そう、オイシソウ」

「愛し、愛しよ、愛し姫。其方の肉はうまそうだ」


 彼らの声はただの音。意味などない。繰り返される囁きに惑わされてはならないのだが、愛花は反応してしまう。

 なぜなら、彼が近くにいて、ここまでアレらの声が聞こえてくることなどあり得なかったから。害のない猫ならまだしも、アレらは絶対に人を害するものだ。彼が許すはずがなかったのに。

 この頃の彼の様子といい、一体何が起こっているのだろうか。そして、何が起こるのか。

 心のうちにある、真っ黒な底のない恐怖から目を逸らして、トイレに行くことだけ考える。


「……………」


 気配をできるだけ抑えながら、近くのお手洗いへと向かう。外にある手洗い場は、苦手だ。もっと明るい雰囲気で作ってくれたら、電気をつけて、トイレに行くのも嫌にならないのに。


 そんなことを考えながら早々と外に出ると、待ち伏せる異形がいた。


 ーーああ、これはダメだ。


 悪意の塊。昼に見かけた醜悪すぎるシロモノ。

 意志を持ち、愛花に明確に狙いを定めている。二つの男の顔が、ギョロギョロとコチラを見ている。


「なんで……」


 愛花はそれを見た瞬間、後退った。


 ーーいや、これが当たり前なのか。

 彼といない限り、ついてくる悪夢。本来なら、愛花はこれが日常になるはずだった。


 先日のショッピングモール。

 影のないモヤと出会った時、愛花にはなすすべもなかった。ただ逃げ続け、追い詰められていただけの袋小路の鼠。


 しかし、それではいけない。

 彼がいなくても愛花は生き抜かなくてはならない。生き続けることが贖罪なのだ。生き続けなければいけない、弱くても、意地汚い事をしてでも。


 脳裏に蘇る赤い刹那。濡れた赤と黒の世界。

 贖罪は背負うべくして、背負っている。愛花の背中には彼女が開いてしまった禁忌の犠牲が積み重なる。

 普段は自覚せずとも、その責があった。現実は辛く苦しいが、生き続けるのは……。


『ーーぃかちゃん』


(……誰のため?)


 ノイズが走る。思考が残像となって消え、現実に戻ってきた。

 ーー確かなのは。


「そう、私は生きなきゃいけない」


 心を決める。


 次第に近づいてくる異形と目を合わせぬように、しかし注視はしながら隙を窺うが、端にどんどん追い詰められてしまう。ニヤニヤと笑いながら、愛花を追い詰めていくのを楽しんでいるようだ。


「……………」


 前回はあまりにも唐突な状況で、逃げ惑うしか出来なかった。しかし、前もって状況を想定しておけば、これまでの経験から対策できる。


 (私は魔女でも魔法使いでもないただの人間だけど、知識だけはあるのだ)


 ーー猫から得た知識だが。


 アレらは明るいものに弱く、強いものを妬み、弱いものを狙う。気の弱い人間が好みらしい。恐怖や憎しみの負の感情を食うものもいるようで、決して弱みを見せてはいけない。

 見せた瞬間に食われるか堕とされる。食われ、この世から消失する。人間が相手になるはずがない。逃げるが勝ちなのだ。

 ……だがもし、どうしても彼らに相対しなければならない場合。彼らの弱みを知っておく必要がある。


 猫たちの会話を思い出そう。


『コレ、知ってるかー? 俺らを馬鹿にしてるやつにコレ見せたらすぐ逃げた』

『ひゃぁ! 寄せるな寄せるな、そんな危ないもん。……名のある主の一部だなぁ、こりゃ。どこで手に入れたんだ?』

『……ぇーと、落ちてたから拾った』

『ははははっ、そりゃ能天気なお前だから、拾えたシロモンだぁ。俺たちにゃ無理無理。俺たちが襲われそうになったら、それ持って助けに来いよ』

『え〜、やだ』

『光もんやるからよ。あと、またたび酒』

『本当かぁ?』

『人間じゃあるまいし、意味のない嘘はつかんよ』



 ここで人外ーーファンタジーに類する妖怪のようなものたちについて解説すると。

 数多くの種がいる彼らだが、大まかに人間に擬態して動くものと、人間になど、到底偽装もできない知力のないものたちがいる。

 格で言えば、人間に擬態するものの方が桁違いに強い。

 例えば、魔法使いも人間に擬態するものの中に含まれる。見た目はほぼ同じなので、人との違いは愛花にはよく分からないが、猫たちはそう言ってた。

 つまり、ここにいるものたちよりは強いと言うこと。


 ニヤニヤと笑っていた異形が愛花に狙いを定め、向かってきた瞬間、愛花はその可能性にかけて、


 ーーそれを勢いよく突き出した。


 魔法使いの杖。これは魔法使いにとって命と同じ価値を持つものだ。

 命と等価なら、猫達の持っていたものにも劣らないはず。消えてしまった愚かな魔女の遺物だが、その価値はあると信じていた。


「……っ」


 ーー何、これ


 愛花はそれを突き出した途端、全身からどんどん力が抜けていくのを感じた。

 自分で意識が制御できない。自分の身体に得体の知れない力が溢れていく! 放出し、飲み込み、飲み込まれる。それは魔女の罠にハマったときの感覚に似ていた。


 力の奔流に飲み込まれ、その場はまるで嵐のようになっていた。

 もう、何が起こっているかもわからない。


 ーー身体が制御できず、視界がブラックアウトする。


 愛花は気を失い、倒れてしまう。

 いたはずの双顔の怪物は形もなく、愛花のみがそこに横たわっていた。


 その隙をつこうとしていた異形たちが、愛花の元に集まってくる。愛花が認識していた数よりもはるかに多い。


「……ちょっと、出遅れちゃった。だーめ、お前らなんかに手出しさせない」


 そんな中、調子外れな声がその場に落ち、何者かが現れた。

 月は雲に隠れ、一瞬闇に堕ちた。影は形を作らない。

 朧気な世界で迷いもなくコツコツと歩んでくる。それが近づいてくるたび、靴音を響かせるたび、愛花の周囲にいた異形たちは怯み、体を震わせた。逃げることもできないのか、その場に止まっている。


 その者は愛花を狙っていたものたちの前で、大きく手を広げる。


 『ーー幻化イリュージョンーー』


 全ては幻と化す。

 暗幕に包まれたように、セカイの全てが暗がりの靄に消え。深淵の中、阿鼻叫喚の声だけがこだまする。


 愛花を囲んでいた多数の異形たちは、現れたものの手によって、あっという間に消え去ってしまった。


「……あぁ、不味い不味い。間食にもなりやしないし、食べなきゃよかった」


 文句を言いながら、倒れた愛花を持ち上げようとするが、それを空間が阻んだ。見えない壁があるようにそこから先に手を出せない。

 

「……チッ」


 忌々しそうに舌打ちをする。強引に力を入れると、バチバチバチッと激しい音を立ち、その境界を超えた。

 激しい火花が立っていたが愛花の体には傷一つなく、愛花のために張られた結界であったことが理解できる。それを無理やり壊して、愛花の身体に触れた。


「……無理しちゃダメだよ、まだ完成途中なんだから」


 やっと手に入れた宝物。丁寧に優しく、しかし力強く彼女の体を抱き起こした。

 そして、倒れ伏した愛花の乱れた髪を、一本一本が乱れることなく、糸のように真っ直ぐになるまで、念入りに櫛削る。


 

 一通り愛花の体を清めて、満足げにソレは彼女の顔を見つめ、撫でた。腰がくびれ、胸にハリがあり、臀部に程よく肉付きがあった。女性らしく、柔らかくしなやかで、若々しい身体。

 唇に触れる。すこし、荒れ気味だった。

 リップを塗ってあげなきゃ。


 ーーぁぁ、オイシソウ

 

「ぁ、あ、まだまだまだまだまだ、まだダメ」


 頭を抑え影は悶える。まだダメだと自分に言い聞かせながら、最後には衝動と理性に振り回され、ケタケタケタケタと笑い出す。狂っている。


「ぁいすき、あいかちゃん……」


 頭を抱え、小さくつぶやく。

 甘い暗い、濃密な幻想。彼女の体を引き裂き、その濃厚で芳醇な蜜を味わいたい。優しく純粋なその瞳を絶望に染め上げて。


 綺麗に花咲いた彼女が、真紅に染まったらそれはそれは綺麗なことだろう。寡婦のように真っ黒なドレスを着せて、自分の手で彼女を永遠の眠りに誘いざなうのだ。

 それはそれは魅惑的な夢。叶えてみせる。


 妄想に耽っていた影はふと空を見上げ、笑うことをやめる。


「……邪魔が来ちゃったみたい。せっかく領域外に出てくれたのに」


 アレの力も愛花ちゃんのために半減してるから、いいチャンスだと思ったんだけど、中々うまくいかないね。ま、でもあと少し。


 ーー大好きよ。だから、はやく。

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