第4話 ぬけがら
お手洗いから戻った愛花は、外の様子がおかしいことに気づいた。
ーー誰もいないのだ。自分達が座っていたテーブルの周囲にも、多くの人がいたはずなのに。
「……ゆめ? どこに行ったの?」
なぜか、彼もいない。音が消えた。人々の声も物音さえ、すべて静寂に包まれる。
ーーぞわり。
今まで感じたことのない、感覚。粘着質の何かが体に張り付く、そんな気持ち悪さがあった。みるみるうちに肌が粟立っていく。
「……え?」
ゆっくりと動く周囲の人々に混じって、なにかおかしなものがいる。黒いモヤ。
ーー
ざわざわと揺れる。揺れて、響く。
人の形を模った、虚像。
ーー恐ろしい、恐ろしい。触れてはいけない。見てはいけない。
そんな声が耳元で聞こえた気がした。
一斉に、皆がこちらを向く。人の顔がまるで、脳面のように表情がない。
「…………っ!!」
手を、伸ばされる。いくつもいくつも、伸びてくる。食われる。クワレル。
何かがフラッシュバックしそうになる。
(……逃げなきゃ!)
愛花は走った。近づいては行けない。
今まで見てきたどんなモノより、異常だと感じた。気配もなく、表情もない人々。
しかし、たしかにヒトだった。これまでに出会った異界のものに感じた違和感がない。感じたことのない異常さではなく、感じたことのある異常さ。例えば、不審者を見たりだとか、迷惑行為をする人だとかに共通するもの。
ーーだから、おかしい。
アレは、アレらはヒトだ。人間であるとしか感じない。
しかし、欠けている。異界のものにもある"それ"が、彼らの中にはない。多分、魂だとかいうもの。
「…………いやっ」
その事実に怖気づいた。彼らに襲われたならば、自分がどうなってしまうのか予想できない。
それに、彼がいないのだ。どんな時も絶対に彼女から離れることのなかった彼が。誰よりも強い彼が。それが一番愛花の不安を煽った。
ーーここから、出なくちゃ。
愛花は走り、このショッピングモールの出口に辿り着こうとした。しかし、どこまで走っても出口は見えない。袋小路に追い詰められたネズミのように、周りをキョロキョロと見回す。
「……ひゅー、はぁ、はぁ、なんで」
張り紙も店の様式も、ショッピングモールの飾り付けも、その全てに見覚えがあった。走り抜けてきたはずの光景が繰り返されているのだ。
つまり、このショッピングモールは一つの異界のように、空間と空間がループしており、まともに逃げる場所を見つけることができないのだろう。
走り続け、息が整わなくなり、足が止まりそうになる。しかし後ろから前から追いかけてきて、走り続けるしか道がない。
(このままじゃ……)
自分が迎えるだろう未来を考えてしまい、足がもつれた。身体はそれを堪えることができず、胴体から地面に転がってしまう。
(ーーーーーーーーー!)
必死で、愛花は彼を呼んだ。無意識下でも、全身全霊で。
どれだけ受け入れまいとしても、拒絶しても、結局、愛花は彼を呼ばずにはいられない。彼しかいないのだ。彼女には。
彼女のことを理解してくれるのも、彼女を守ってくれるのも。それがどれだけ愚かなことだと分かっていても、愛花はそうすることしかできない。
しかし、なにも起こらないーー彼は現れなかった。
愛花は、呆然とした。彼がいつものように現れてくれるものだと思っていたから。
(……そう。
いつも彼がたすけてくれる保証なんて、なかった。すべては何も出来ない私の責任で、私がこれまで彼に助けてもらっていたことが奇跡だった)
ここまでか、と愛花が思った時、彼らは急に立ち止まり動きを止めた。
ーー目の前に、黒いモヤが人の形を作って現れた。
はじめに見かけたあのモヤだ。そう、分かった。
異質な世界の中でもそれだけが際立っていた。黒く黒く、淡く淡い。濃厚な闇がモヤになり、影のように映る。
愛花にはそのモヤがまるで、にこやかに笑っているように見えた。
(これは、ダレ? 私はコレを知っている?)
「……だれ」
『…………』
ーー知らぬ間に手を伸ばされ、愛花とそれが接触しそうになった瞬間。
割れるような音が響き、何かが体を震わせる愛花との距離を詰め、彼女を抱き抱えて飛んだ。
ーーあぁ、彼だ。
姿を見なくてもすぐにわかった。慣れ親しんだ彼の気配。
彼が攫うように愛花の腰を掬い、異形から距離を取った。落ち着く香り。
「……どこに行ってたの」
愛花は、自分の口調が震えていることに気づいた。
ギュッと彼の服を握りしめる。
彼が安心させるように愛花を抱きしめた。ゆっくりと背中を撫でてくれる。身体の力を抜き、彼に体重を預けた。
ーーこれで、もう大丈夫。彼が助けてくれる。
(…………あぁ)
愛花はこの出来事を経て、愚かな自分に気づいた。
彼の腕の中が彼女にとってこの世のどんな場所より安全で、安心する場所なのだと思っている自分。呼びかけに応えられることが、当たり前なのだと思っていた自分に、気づいてしまった。
(私を一番苦しめてきたはずの彼がいつの間にか、私にとっての一番の居場所になっているなんて。
どうして、彼の腕の中にずっと居たいだなんて思ってしまうのだろう。それがどんなに罪深いことなのか、私は知ってるのに)
「……探した。呼んだから、来れた」
低い、安心させるような声色。
久しぶりに彼の肉声を聴いた。
幼い頃は時々ポツポツと話をしてくれていたが、愛花が年頃になってからは人型になることも、話すこともなくなってしまっていたのに。
「あのひとたちは……」
「アレらは人間」
彼は端的に返事をする。耳障りの良い低音が耳を掠めるように、ゆっくりと話す。
見つめた先には、うつろなヒトビト。そして、影。
愛花も人間だとは思っていたが、明らかにおかしい。
「……でも」
「人間の残骸」
愛花の発言を遮るように、喋る彼。
ジラジラと揺れるような瞳を見つめた。彼の瞳が琥珀のように光っている。
怒っているのだろうか、そう疑問に思う。
「喰われて、世界から失われた存在」
「世界から失われた?」
世界から失われたとは、どういうことなのか。確かに目の前に存在しているのに……。ゆらゆらと動いた人間の、いや、人間の残骸たち。
しかし、彼に解説を求めてもまともな答えは返ってこない。解説役の猫が必要だ。
「動く」
「えっ」
ーー彼の足元からブワァッと、影が広がるーー
『
彼の領域を広げるように、白黒の世界をより濃い黒が染める。黒化する。
しかし、彼が「人間の残骸」と言った虚像たちはそれに染まらない。それどころか、自由に動き回り、愛花たちを捕まえようとした。
「……っ!」
忌々しそうに彼が舌打ちする。そんな彼を愛花は初めて見た。
「……っ」
ーー彼がまた飛ぶ。
バリン!! という音と共に衝撃が襲う。
その衝撃に一瞬目を瞑り、目を開くと景色が変わっていた。
その先は、愛花たちがいたショッピングモール。
愛花が見ていた世界は夢幻のように消え、正常で歪みのない世界がそこにはあった。
「……………」
「どうしたの?」
珍しくも敵を目の前にして、その場から離れた彼の無表情な顔を愛花は見つめた。怒りなのか、動揺なのか、一体何を考えているのか長年の経験で割り出そうとしたが、彼の心を読むことは出来なかった。
♢
愛花たちが抜け出した空間ーー。
それを睨みつけるように、モヤはそこを凝視していた。
ーー思い出と力に溢れた少女の横顔。
今はまだ蕾だけれど、アレに守られ、開花する機会を待っている。綺麗で傷つきやすくて、純粋で、すごくオイシソウなあの子。
『あの子がほしい……』
幻の、淡く透明な音が響いた。それが言葉だと気づくには、人間にはしばらくの時間が必要だろうというような。
クスクス、キャハキャハキャハと高い音が飽和する。闇に溶ける。
『……私を思い出して』
ーー私を思い出して、私を愛して。私だけのものになって。私と溶け合いましょう?
モヤのような影がグルグルと歪み、その場から消えた。そして、周囲の人間もそれに吸い込まれるように消えて行った。
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