ベビードール

芥子菜ジパ子

ピギー・イン・ザ・ベビードール

 ベビードールを、買いました。透け感のある布に刺繍やレースなんかの意匠が施されている下着の一種です。スリップなんて昔は呼んだ気もしますが、私はこのベビードールという名前が好きです。下着といっても、前がほぼはだけていたり、後ろがぱっくり開いていたりと、夜の営みの時以外にいつ着るのか分からないような、そんな代物ですが、とにかく私は、ベビードールを買ったのです。もちろん、夜の営みのために。

 夜といっても、私にとってのそれは昼夜関係ありません。なにせ私は風俗嬢ですから。しかもおそらく、まあまあ安めの。

 毎日私は店に来てぼんやりと待機し、店長に呼ばれた時にだけ、腰を上げます。そうしてスタッフと近くのホテルまで移動して、そこからは時間の許す限り腰を振り、店に戻る、それの繰り返しです。

 私は決して顔も良くありませんし、スタイルも、よく「みっともない」と揶揄される程度にはみっともありません。ただ、とにかくいつでも店にいるのと、金さえ上乗せすれば本番も拒否しないということで、それなりに――それこそ、手早くコトを済ませたい客には贔屓にしてもらっていました。そういう客は、私の顔もスタイルもどうでもいいのです。そこに欲望を吐き出すことのできる穴があれば、とりあえず、なんでもよいのです。

 それでも私は、少しでもそんなファストフード店のような営みを盛り上げようと、ベビードールを買ったのです。同じことをするのなら、少しでも盛り上がった方が、私も楽しいですから。

 ベビードールという愛らしい名前と、その名前にぴったりな、なんとも愛らしいデザインに、憧れもありました。つまりは一石二鳥、そういうことです。

 ですが、安価なインターネット通販で買ったそれを身に着けた時、私は大笑いしてしまいました。そのあまりの似合わなさに。死んだ豚をラッピングしたらこうなるのではないでしょうか。ぶひぶひ。

 薄く透けた布で覆われた肌は、それ故にいつもよりハリがなく、くすんで見えました。モデルの胸の下あたりから緩やかに「八」の字のように開いていたふりふりのレースは、私の胸の下で盛り上がる肉に圧迫され、八の字どころか、アルファベットのMのようにだらしなく開いています。しかも安物だったからでしょうか、レースがところどころほつれていて、もうまさに、みっともなさにみっともなさを上塗りしたかのようでした。本当におかしくておかしくて、私は何度もぶひぶひと鼻を鳴らしては手を叩いて笑いました。

 ほとんどの客も同じように笑いました。そして時には行為の最中に、たるんだ私の尻を叩きながら、私にぶひぶひと鳴くよう言いました。

 可笑しさで、私は笑うのを堪えます。けれど、生まれついての下がり眉に腫れぼったい瞼、極めつけのひどい猫背のせいか、皆には羞恥や惨めさに耐えているように見えるようで、結果として、これまで以上に客は盛り上がってくれるようになりました。人生、何がどう転ぶか分からないものです。

 

「君は何故、風俗嬢なんかしているんだい?」


 ある日、一人の物好きな客が、その身体に覆いかぶさってサービスの真っ最中の私に言いました。恐らく、あまりにもみっともない私が、みっともないまま身体を売っていることに、何か相当な理由があると思ったのでしょう。その男の目はどこか憐れみを帯びていました。これから私で欲を満たそうとしているくせに、風俗嬢「なんか」と憐れんでいるのです。なんて都合のいいことでしょう。私は心のなかで、その男に「いけすかない客」とレッテルを貼りました。

 話したところで何一つ面白いものはないし、時間の無駄になるのでは、と思いましたが、聞かれたので、私は話しました。


「お金がなかったからです」

「ホストにでも貢いだ?」

「いいえ、両親が蒸発したんです」


 それは……と男が口ごもります。どう反応してよいか分からない、という、まさにお手本のような顔をしていました。


「中学生の時に両親が蒸発しました。いくらかのお金だけ残して。中学校は義務教育だったのでなんとか卒業できましたが、高校に行くお金も、その先生活できるだけのお金も、手元には残っていませんでした。中卒でできる仕事なんかそんなにありませんし、『これ』が一番手っ取り早かったんです」


 かわいそうに、と男の口が動きました。私は俯きます。それが涙を見せまいとする姿に見えたのでしょう。男は私の髪を撫でました。捨てられた、お世辞にも可愛いとは言い難い子猫を――自分では拾う気もない子猫を撫でるように。


「かわいそうだったね。苦しかったね。本当なら君は、普通に学校に行って、友達と他愛もない会話をして、時には恋なんかもして、青春を謳歌するはずだったのにね」


 私は、小さく肩が震えるのを感じていました。俯いた視線の先では、ふうーっ!ふうーっ!と無様な音を立てる私の鼻息で、男の体毛が揺れています。


 ああなんて、腹立たしい。


 私の両親は、醜く愚鈍な私を大層嫌っていました。恐らく二人で失踪したのも、自分たちの遺伝子を受け継ぐ存在が私であるという事実に、耐え切れなかったからに違いないのです。

 けれど私は、それをちっとも悲しいと思ったことはありません。何度も私を殴り、蹴り、蔑み続けた両親がいなくなったことに、せいせいとしていました。恐らく私は、脳までも愚鈍にできているのでしょう。己の身を悲しいと、哀れと思うほどの知性は持ち合わせていませんでした。だから本当に、純粋に、「これで楽に生きられるなあ」なんて思ったものです。

 風俗嬢になったのも、確かにそれしか方法がなかったように思えたというのもありますが、どちらかというと、こんな愚鈍でみっともない姿の私にも欲情し、腰を振る男がいるのだということへの優越感を味わいたかった気持ちが勝ります。さすがにこれは、客には言えませんが。

 

 青春を謳歌とは、本当に笑ってしまいます。知性のない私は、普通に高校に進学したとて、きっとすぐに落ちこぼれるでしょう。見た目も悪く、お愛想の薄ら笑いしか浮かべられない人間に、友達などできようはずもありません。恋愛などもってのほかです。このホテルを一歩出れば、このベビードールから私服に着替えてしまえば、私は単なる嘲笑の対象でしかありません。それは、中学校を卒業するまでに、私が唯一学べたことです。

 ですから風俗嬢は、私が私のまま、堂々と第一線に立ち続けることのできる、最高に幸せな仕事なのです。憧れて買ったベビードールだって、皆が、それこそ私自身だって笑ってしまうような風情だけれど、私はこれで客たちを、私を取り巻く世界をコントロールしているのです。ぶひぶひと鳴く豚が、世界の射精の管理をしているのです。本当に可笑しいですよね。だから私は、毎日とても幸せなのです。


 だというのに、この男は私を憐れんでいるのです。本当に、腹立たしい。


 何故私が憐れまれなければならないのでしょう。苦界にいると、思われなければならないのでしょう。澱んで臭うどぶ川でこそ生きられるものだって、あるというのに。


「僕にできることはあまりないけれど、これは、ほんの気持ちだから」


 男は私に、料金とは別に数枚の札を握らせてから、私に身体の上から降りるよう促し、今度は自身が私に覆いかぶさってきました。


 ばっかじゃねえの。結局お前、本番がしたいだけじゃねえか。大層な言葉でくるんでみたところで、その金は私の足の間に咲く、この花の代金だろうが。だったらもっと敬えよばかやろう。


 視線の端で、乱雑に脱ぎ捨てられたベビードールが揺れていました。一瞬、一瞬だけ、「もしかしたら私は憐れなのだろうか」という疑念が胸をよぎりました。この男の言葉のように、私は憐れな私を可愛らしいベビードールでくるんで誤魔化しているだけなのではないかと。いいえ、そんなはずは、あるわけがないのです。

 不愉快でした。とても、不愉快でした。

 だからこの男には、決して鳴いてやりません。たとえ私が豚のような女であったとしても、醜く汗を流しながら「ほら、ぶひぶひって鳴いてごらん?」「幸せを望んで鳴いてごらん?」などと言う男には、鳴いてやるわけにはいかないのです。初めて、早く時間にならないかな、と酷くつまらない、ばかばかしい気持ちになりました。

 

 ベビードールは揺れ続けていました。みっともなく、揺れ続けていました。けれど私は明日も、それから明後日も、永遠に、このベビードールを身に纏って、みっともないと笑いながら、胸を張って生きてゆくのです。

 たとえ私の外の世界が私を憐れんでも、憧れ続けたベビードールさえ、いつか私を裏切ったとしても、それでも、生きてゆくのです。

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ベビードール 芥子菜ジパ子 @karashina285

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