第2話
朝起きるたびに、安堵する。まだ生きていると。
朝起きるたびに、絶望する。また苦痛と恐怖に満ちた一日が始まると。
朝起きるたびに、同じベッド──と呼ばれる木製の
ここは、
* * *
最初にあの
だから──幽霊を見たようなものだと思おうとした。
でも、次にあの色の目を見た時、そして、あいつの胸に忌まわしい
俺は、疲れ果てて顔も上げられない振りで、横目でヨハンを窺いながら距離を取ろうとした。半ば死んだような足取りで宿舎に帰ろうとする囚人たちの中では、列を乱す軌道を取るのは簡単なことではなかったが。
なかなか離れられないでいるうちに、あいつの姿を見てしまうし、余計なことを考えてしまう。丸刈りだと頭蓋骨の形の良さが分かるんだな、とか。艶々した綺麗な髪だったのに、見る影もないな、とか。ヨハンは、見た目は整っていた。
あんな趣味さえなければ、俺を襲ったりしなければ、あいつは輝かしいドイツ人でいられたのかもしれない。そう思った瞬間に、だらりと垂らした俺の手に何かが触れた。少し温かくかさかさとして、俺の掌を撫でたのは──指だ。ヨハンの!
キス未遂の時の嫌悪が蘇って、俺は手を振り払おうとした。が、囚人の隊列を見張る
永遠にも思える間、俺に緊張を強いてから、ヨハンの指はようやく離れていった。俺の手の中に、何かの塊を残して。
ベッドの中で
* * *
そんなことが何度も続いた。何かの拍子に忍び寄る
そうこうするうちに、ヨハンの噂も耳に入る。あの顔を気に入る
気付いてないと、思いたかった。誰もが明日をも知れないこの地獄で、何か良いことをしたいって気分になることは、まああるかもしれない。良い気分が生きる糧になることもあるかもしれないし、それで天国行きのチケットを買った気になれるのかも。
だって、俺だと気付いた上で恵んでるなんて、あり得ないだろう。俺だって髪を刈られて痩せ細って、栄養失調で肌はどす黒くくすんでいる。見る影もないはずだ。何より、俺はヨハンを罵った。友情を裏切られたと責めて、殴った。陥れた。あいつはきっとここで死ぬ。俺のせいで死ぬ。自分を殺した相手を危険を冒して助けるなんて頭がおかしい。──ああ、そうか。
俺は、ぱさつく芋と一緒に理解を咀嚼した。
あいつはきっとおかしくなったんだ。食い物を貢いで、恩を売って、それで俺の想いを買おうとしている。そんなに俺が好きだなんて、狂ってるとしか言えないだろう。
* * *
その日、俺はヨハンのバラックを訪ねた。ピンクの囚人章を帯びた奴と内緒話、だなんて誰かに見られやしないかと気が気じゃなかったが。だが、どうしてもあいつに言ってやりたいことがあった。
俺の顔を見た瞬間に、
「ヴィム──」
「止めろよ」
弾んだ声を聞きたくなくて、俺は斬るように遮った。ヨハンと話すことなんて何もない。ただ、俺が一方的に宣告するだけだ。
「気持ち悪いんだよ」
ヨハンが目を見開くと、痩せた頬から眼球が零れ落ちそうだった。もう少し頬に肉がついていて、髪も無事だったら、俺が殴った時と同じ表情になるんだろう。
今の俺が拳を握っても大したことはできないが、言葉で殴りつけることはまだできるらしい。
「恵んでもらったからって男を好きになるかよ。ホモ野郎に同情されて嬉しいもんか。もう俺に関わるな。近づくな。気を惹こうとするな。恋人ごっこなら余所でやれ」
ヨハンの目がきらりと光った気がして、泣くのかと思った。だが、違った。痩せて薄くなった唇が、歪む。骸骨めいた頬に皺を刻ませるその表情は、一応は笑顔らしかった。そう気づいたのは、嘲りに満ちた声が耳に届いてからやっと、だった。
「そんなふうに、思ったんだ。……自意識過剰だね」
嗤われている、と理解した瞬間、頭が沸騰するような怒りで目が眩んだ。だって、ヨハンだぞ。友達だと思ってたのに、人の寝込みを襲おうとする、女々しくて卑怯な奴。俺は、ユダヤっていっても顔も知らない爺さんがそうだったって言われただけで。俺自身は何も悪くない。
なのになんで、嘲られて蔑まれなきゃならないんだ。ヨハンにまで!
「俺は確かにあんたを好きだったよ。でも、よくまだそうだと思えたたね? 普通は憎むものだろう?」
「でも」
でも。嫌になるほどガキっぽい単語だ。でも、ほかに言葉が見つからなかった。お前、あんなに俺に構ってきたじゃないか。触れて、撫でて、代償のように食い物を置いていったじゃないか。
「髪と一緒に矜持も剃り落とされた? 気持ち悪いホモ野郎の施しで生き長らえるってどんな気分?」
行進の時に密かに手に触れるのと同じ手つきで、ヨハンは俺の頭を撫でた。乱暴に剃刀を使われてできた傷、殴られたコブも優しく丁寧に──お前、これで本当に俺が好きじゃないって? こんなに、吐き気がするような嫌悪を催させておいて?
「俺は気持ち悪いホモ野郎だ。でも、あんたはそれ以下の屑になるだろう。命を懸けて助けてやるよ。一生忘れられないように。毎日のように俺を思ってもらえるように」
ヨハンの目つきは陶然として、口調は甘ったるく粘り付いて、俺を震えさせた。それでも構うな、関わるなと言うべきだったのに、言えなかった。俺を圧倒したのに満足したのか、あいつはにっこり笑うと去って行った。それが、俺たちが言葉を交わした最後の機会だった。
* * *
次に触れられたら、絶対に払いのけると心に決めていた。だが、それは起きなかった。代わりに俺は、屋内の軽作業の班に移された。ヨハンが、同郷の
だが──文句を言う機会もなかった。俺に席を譲った代わり、あいつは重労働の班に回された。重機に潰されたか土砂ごと埋められたか、動けなくなって射殺されたかは分からない。とにかく、あいつはある日帰ってこなかった。
そうこうするうちにKZは星条旗を帯びたアメリカ軍に解放されて、俺は助けられた。ヨハンは、終戦の気配を感じることがあったのだろうか。それまでの時間稼ぎをしてくれたのか。頼んでもいないのに。俺は感謝しないのに。あいつの本心は分からないし、知りたくもない。
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