第2話

 朝起きるたびに、安堵する。まだ生きていると。

 朝起きるたびに、絶望する。また苦痛と恐怖に満ちた一日が始まると。


 朝起きるたびに、同じベッド──と呼ばれる木製のわくと台──で寝ていた誰かは目覚めない。なのにミイラじみた、痩せ細った死体は恐ろしくもあり、もう苦しまないのだろうと思うと羨ましくもある。


 ここは、NSDAPナチス強制収容所KZ。俺はきっと、遅かれ早かれここで死ぬのだ。ヨハンと再会するまでは、そう思っていた。


      * * *


 最初にあのハシバミ色の目を見つけた時は、心臓が止まるかと思った。だって、あいつはとうに死んだと思っていたから。例のキス未遂のあと、俺は即、ヨハンを同性愛のかどで密告していた。当然だろう? あいつは幼馴染の振りをして俺を狙ってたんだ。気持ち悪いホモ野郎、殴っただけで収まるもんか。へ連行されたほうが国のため、民族のためってやつだろう。


 だから──幽霊を見たようなものだと思おうとした。ハシバミ色の目だってありふれているんだ。生きながら地獄に落ちて、死と隣り合わせの毎日で、気が弱くなってるんだろうって。ヨハンもこんなふうに死んだのかな、って思って、柄にもなく罪悪感めいたものも込み上げたのかもしれないから。


 でも、次にあの色の目を見た時、そして、あいつの胸に忌まわしいピンク色の逆三角形ローザ・ヴィンケルを見た時は、もう否定できないと思った。それは、同性愛者の囚人が帯びる印だ。俺の、ユダヤの黄色よりもずっと汚らわしく恥ずべき色。──やっぱりヨハンは、俺の密告でKZここに行きついたんだ。

 俺は、疲れ果てて顔も上げられない振りで、横目でヨハンを窺いながら距離を取ろうとした。半ば死んだような足取りで宿舎に帰ろうとする囚人たちの中では、列を乱す軌道を取るのは簡単なことではなかったが。

 なかなか離れられないでいるうちに、の姿を見てしまうし、余計なことを考えてしまう。丸刈りだと頭蓋骨の形の良さが分かるんだな、とか。艶々した綺麗な髪だったのに、見る影もないな、とか。ヨハンは、見た目は整っていた。

 あんなさえなければ、俺を襲ったりしなければ、あいつは輝かしいドイツ人でいられたのかもしれない。そう思った瞬間に、だらりと垂らした俺の手に何かが触れた。少し温かくかさかさとして、俺の掌を撫でたのは──指だ。ヨハンの!


 キス未遂の時の嫌悪が蘇って、俺は手を振り払おうとした。が、囚人の隊列を見張る親衛隊SSへの恐怖が嫌悪に勝った。ホモ野郎に触れられると思うと、背中に汗が滲む。余計な体力を浪費させられている、と思うがもちろん騒ぎは起こせない。声も出すことはできなかった。

 永遠にも思える間、俺に緊張を強いてから、ヨハンの指はようやく離れていった。俺の手の中に、何かの塊を残して。


 ベッドの中であらためてみると、は小さなラードの塊だった。何の符丁か嫌がらせか、とは思った。気味が悪かった。だが、貴重な食糧でもあったから、俺は口に入れた。胃の中で溶けたラードは、全身に染み渡る。たぶん明日も目覚められると、じんわりと広がる熱が教えてくれた。


      * * *


 そんなことが何度も続いた。何かの拍子に忍び寄るハシバミ色の目、手に絡む指、残されていく何かしら。硬い黒パン、茹でた芋、時にはバターの欠片。どれも、俺は食った。目の前に食い物があるのに、さっさと衰弱しきって死んだほうがマシじゃ、なんて考えていられるか。

 そうこうするうちに、ヨハンの噂も耳に入る。あの顔を気に入る監督カポもいて、あいつは作業の配属や食料の配給で優遇されているんだとか。だからその恩恵を横流しする余裕もある、のだろうか。それなら──問題は、俺だと気付いているかどうかってことだ。


 気付いてないと、思いたかった。誰もが明日をも知れないこの地獄で、何か良いことをしたいって気分になることは、まああるかもしれない。良い気分が生きる糧になることもあるかもしれないし、それで天国行きのチケットを買った気になれるのかも。

 だって、俺だと気付いた上で恵んでるなんて、あり得ないだろう。俺だって髪を刈られて痩せ細って、栄養失調で肌はどす黒くくすんでいる。見る影もないはずだ。何より、俺はヨハンを罵った。友情を裏切られたと責めて、殴った。陥れた。あいつはきっとここで死ぬ。俺のせいで死ぬ。自分を殺した相手を危険を冒して助けるなんて頭がおかしい。──ああ、そうか。


 俺は、ぱさつく芋と一緒に理解を咀嚼した。


 あいつはきっとおかしくなったんだ。食い物を貢いで、恩を売って、それで俺の想いを買おうとしている。そんなに俺が好きだなんて、狂ってるとしか言えないだろう。


      * * *


 その日、俺はヨハンのバラックを訪ねた。ピンクの囚人章を帯びた奴と内緒話、だなんて誰かに見られやしないかと気が気じゃなかったが。だが、どうしてもあいつに言ってやりたいことがあった。


 俺の顔を見た瞬間に、ハシバミ色の目が輝いた。この野郎、やっぱり俺だと気付いてやっていたのか。痩せた肌が粟立つと、怖気おぞけは骨にまで響いた。


「ヴィム──」

「止めろよ」


 弾んだ声を聞きたくなくて、俺は斬るように遮った。ヨハンと話すことなんて何もない。ただ、俺が一方的に宣告するだけだ。


「気持ち悪いんだよ」


 ヨハンが目を見開くと、痩せた頬から眼球が零れ落ちそうだった。もう少し頬に肉がついていて、髪も無事だったら、俺が殴った時と同じ表情になるんだろう。

 今の俺が拳を握っても大したことはできないが、言葉で殴りつけることはまだできるらしい。


「恵んでもらったからって男を好きになるかよ。ホモ野郎に同情されて嬉しいもんか。もう俺に関わるな。近づくな。気を惹こうとするな。恋人ごっこなら余所でやれ」


 ヨハンの目がきらりと光った気がして、泣くのかと思った。だが、違った。痩せて薄くなった唇が、歪む。骸骨めいた頬に皺を刻ませるその表情は、一応は笑顔らしかった。そう気づいたのは、嘲りに満ちた声が耳に届いてからやっと、だった。


「そんなふうに、思ったんだ。……自意識過剰だね」


 嗤われている、と理解した瞬間、頭が沸騰するような怒りで目が眩んだ。だって、ヨハンだぞ。友達だと思ってたのに、人の寝込みを襲おうとする、女々しくて卑怯な奴。俺は、ユダヤっていっても顔も知らない爺さんがそうだったって言われただけで。俺自身は何も悪くない。


 なのになんで、嘲られて蔑まれなきゃならないんだ。ヨハンにまで!


「俺は確かにあんたを好きだったよ。でも、よくまだだと思えたたね? 普通は憎むものだろう?」

「でも」


 でも。嫌になるほどガキっぽい単語だ。、ほかに言葉が見つからなかった。お前、あんなに俺に構ってきたじゃないか。触れて、撫でて、代償のように食い物を置いていったじゃないか。


「髪と一緒に矜持も剃り落とされた? 気持ち悪いホモ野郎の施しで生き長らえるってどんな気分?」


 行進の時に密かに手に触れるのと同じ手つきで、ヨハンは俺の頭を撫でた。乱暴に剃刀を使われてできた傷、殴られたコブも優しく丁寧に──お前、これで本当に俺が好きじゃないって? こんなに、吐き気がするような嫌悪を催させておいて?


「俺は気持ち悪いホモ野郎だ。でも、あんたはそれ以下の屑になるだろう。命を懸けて助けてやるよ。一生忘れられないように。毎日のように俺を思ってもらえるように」


 ヨハンの目つきは陶然として、口調は甘ったるく粘り付いて、俺を震えさせた。それでも構うな、関わるなと言うべきだったのに、言えなかった。俺を圧倒したのに満足したのか、あいつはにっこり笑うと去って行った。それが、俺たちが言葉を交わした最後の機会だった。


      * * *


 次に触れられたら、絶対に払いのけると心に決めていた。だが、それは起きなかった。代わりに俺は、屋内の軽作業の班に移された。ヨハンが、同郷のよしみで看護師の資格があるからと推薦してらしい。あの野郎、涼しい顔で真っ赤な嘘を。辻褄を合わせて切り抜けるのにどれほど冷や汗をかかされたことか。


 だが──文句を言う機会もなかった。俺に席を譲った代わり、あいつは重労働の班に回された。重機に潰されたか土砂ごと埋められたか、動けなくなって射殺されたかは分からない。とにかく、あいつはある日帰ってこなかった。


 そうこうするうちにKZは星条旗を帯びたアメリカ軍に解放されて、俺は助けられた。ヨハンは、終戦の気配を感じることがあったのだろうか。それまでの時間稼ぎをしてのか。頼んでもいないのに。俺は感謝しないのに。あいつの本心は分からないし、知りたくもない。

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