第11話
その日の夜。
私は寝室でセーファス様を待った。
いつもはセーファス様の方が早く寝室にいるから、今日は私が先回りするために早い時間から待っていた。
寝室で私が待っていて、セーファス様は少し驚いたふうにも見えたけれど、そのまま入ってきた。
「今日は早いね。疲れた?」
私は首を振った。
疲れているとしたら、私よりも力を使ったセーファス様の方だと思う。
「お話をしたくて待っていました」
これを言ったら、セーファス様は表情を消した。一体何を想像したんだろう。
ベッドの縁に腰かけている私の隣に座る。その振動が伝わった。
「今日のことを必要以上に恩に着る必要はないんだよ」
ボソリ、とそんなことを言われた。
「そんなわけには参りません。セーファス様に助けて頂けなかったら、私もグレアム様もどうなっていたことか」
私がどれだけ感謝を込めても、セーファス様は嬉しくなさそうだった。
「感謝されたいわけじゃないんだ。君は、この御恩は一生忘れませんって、心から感謝しながら去っていくの?」
うん? と首を傾げてしまった。
そうしたら、セーファス様は私の手を取った。
「当初抱えていた問題は解決したわけだから、君がここにいる理由は、君の側から見ればなくなったんだろう」
それで私が出て行ってしまうと危惧しているらしい。
じゃあ助けなければよかったのに、という単純な問題ではない。私が苦しんでいるとわかっていて放っておくことはできず、手を差し伸べてくれた。
恩に着せないのは、私がその恩に縛られるのが嫌だということ。
私は、私の手を握るセーファス様の手にもう片方の手を添えた。
「私がここにいる理由ならあるでしょう? 私はあなたと結婚したんですから」
セーファス様はパッと顔を輝かせかけたが、少しだけ躊躇った様子で私の目を見た。
私が言うことを鵜呑みにしていないらしい。
「これからもここにいてくれるの?」
疑ってしまうのは、セーファス様が臆病だからだ。人との接触を避け、接し方がわからなくなっているのかもしれない。
ただ嫌われる心配ばかりをしていて、そのくせ、自分が人から好かれるはずがないと心のどこかで思っている。
あんなにすごい力を持っているのに、当人は至って普通の心の持ち主だ。
でも、それでいい。そんな人がいい。
私はセーファス様に微笑みかけた。
「私、子供の頃は両親もほとんど家にいなくて、手のかからない子で助かるって言われましたけど、本当は寂しくて、もっと構ってほしいと思ってました。でも、私には住む家も食べる物もあって、その上まだ寂しいなんて贅沢は言えませんでした。大人になっても私は、あの頃の気持ちを忘れていません」
奉仕活動にすべてを捧げていた両親は、恵まれない人たちを救うために走り回っていた。私の贅沢な願いを叶えるゆとりはないと知っていた。
姉は十歳も年が離れていて、年頃になるとすぐに住み込みの働き口を見つけて出ていった。姉は多分、家が嫌いだった。
それでも、私の両親は世間から見たら立派な人たちということになる。外からと内側からとでは見える景色は違うから。
一見恵まれているように見える人が孤独を感じていないとは限らない。セーファス様の事情を知って、セーファス様はあの頃の私以上に孤独だったんだと思った。
そんな人が初めて迎えた家族を、私は絶対に取り上げたくない。
「誰か私と同じように寂しい思いをしている人がいたら、その人と一緒にいたらいいんですよね」
セーファス様は私の話を静かに聞いてくれていた。その目がとても優しい。
私にとっても、あの輝きは宝物だ。
「きっかけはどうあれ、神様に誓いましたから、誓いを果たさせてください。私、皆と上手くやれます。これから、あなたの妻としてこのお屋敷を切り盛りしていきます」
これを聞いたら、レティスはキーッと怒るかもしれないけれど、あの子の扱い方はわかった。なんとかなるはず。
セーファス様はふと笑みを零した。
見惚れるくらい、その瞬間を切り取りたいくらい好きな表情だった。
「寂しい者同士が寄り添って生きていくのもいいけど、もうちょっと欲を出してもいい?」
「はい?」
「メルは実際のところ、僕をどう思っているの?」
――セーファス様は私に好きだと何度も言ってくれた。
でも、私は一度もそんなことは口に出さなかった。
違う、そうじゃない。好きになってなんかない、と認めなかったせいだ。
いい加減にもう、頑なな自分でいるのはやめよう。
私が深く息を吸うと、セーファス様が緊張した。
それが可笑しくて、私の心が軽くなる。
「私も、あなたのことが好きです。多分」
いつから惹かれていたのかはよくわからない。
でも、レティスが愛人だと思い込んだ時、まず最初に浮かんだ感情を思い出す。あの時の私は、嫌悪感よりまず傷ついていた。
それは、この人のことが好きになりかけていたからだと思う。
「多分なの?」
拍子抜けしたみたいに言われた。
「仕方ないじゃないですか、私、恋愛経験ないんです。だから、多分です」
これは私の精一杯の照れ隠しだった。顔を背けようとしたら、セーファス様の手が私の手からすり抜けて頬に伸びた。
次の瞬間には唇が被さり、一度目とも二度目とも違う長いキスをした。
セーファス様が私の気持ちを確かめるように。
私はようやく、この人の妻になったんだという実感がほんのりと湧き始めていた。
「幸せって、こういうことを言うんだなぁ」
なんてことを言ってにっこり笑ったかと思うと、セーファス様は私がベッドから下ろしていた脚を抱え上げた。
「わっ」
ベッドに後ろ向きに倒れた私にセーファス様の影が落ちる。
サラサラと額を撫でられた。
「お互いの秘密もなくなったことだし、もういいかな?」
さっきまでのどこか可愛いような笑顔から一転、妙にゾクゾクしてしまう笑みを浮かべている。
セーファス様が私の首筋に顔を近づけた。私は慌ててその顔を押しのける。
「……ひ、ひとつだけあります!」
「うん?」
「書斎のガラス戸の書棚には何があるんですか?」
これを言ったのは時間稼ぎに過ぎなかった。私は破裂しそうな心臓をどうにか宥め、これから起こることに備えようとした。
セーファス様は一度体を浮かせ、私からなんとなく目を逸らすと、言った。
「……日記が」
「えっ?」
「昔から毎日日記をつける習慣があって、その、君と初めて出会った日、すごく浮かれてかなり長々と書いたから、メルが見たら引くかと思って。でも、記念すべき日の記録だから、捨てたくないし」
斜め上の回答をくれた。
セーファス様の耳が赤いから、これは嘘じゃない。
「これからも僕の日記だけは読まないでくれないか?」
「読みませんよ、そんなの」
思わず声を立てて笑ってしまったのがいけなかったのかもしれない。
セーファス様は目を細め、また妖しく笑った。
どこかに潜んでいた嗜虐心に火をつけてしまったような――。
翌朝。
名残惜しそうにずっと私の頬を撫でていたセーファス様に対し、私は寝たふりをしていた。理由はひとつ。恥ずかしいからだ。
パタン、と扉が閉まる音がしてようやく、うっすらとまぶたを開く。
先に部屋を出ていったセーファス様が、皆に余計なことを言いませんように。
こんな時、どんな顔をして出ていけばいいのかなと、私はベッドの中でいつまでも煩悶していた。
そんな時間でさえ幸福ではあったんだろう。
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