第9話
セーファス様は私が落ち着くまで背中を撫でてくれていた。
私がやっとセーファス様の肩から額を持ち上げると、セーファス様は私の顔を心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫?」
「……はい」
「じゃあ、なんでも言ってくれ。聞くから」
この時、頭であれこれと考えるよりも先に私はこれを口にしていた。
「レティスのことですけど」
「うん」
「セーファス様の愛人なんですね」
その途端、セーファス様はかなり動揺していた。
「なんでっ? なんでそんなこと……。ああ、レティスがまた何か言ったのか」
「結婚前のことまで私がとやかく言うことではないかもしれませんが、レティスが可哀想です」
「多分ね、メルはとんでもなく勘違いをしていると思うよ」
急にセーファス様はうなだれてため息をつき、それからおずおずと顔を上げた。
浮気現場を押さえられた時、世間の男性たちがどんな反応を見せるのかは知らないけれど、少なくともセーファス様は私の目を見ていた。
「言いたいことはこれで全部?」
思いきり泣いたせいか、私は清々しいような、どこか投げやりな気分になっていた。ブンブンと首を横に振る。
「〈フィルビーの至宝〉ってなんですか?」
ど真ん中、直球の質問をした。
それなのに、愛人疑惑よりもセーファス様は狼狽えなかった。ああ、と零しただけだ。
「そんな言葉、よく知っていたね。もしかして、それで僕と結婚してもいいと思った?」
私がなんとも言えない顔をしていると、セーファス様は少し笑った。
「よく財宝か何かと勘違いされるんだけど、そうじゃない。〈至宝〉っていうのは僕自身のことだ」
「えっ?」
「正確には僕のこの目。珍しいだろう? うちの家系の男児はこういう目をしているんだけど」
金と青の目。確かに、見れば見るほど宝石のようだ。至宝と称したくなるのもわからなくはない。
けれど、その話に尾ひれがついて一人歩きしてしまった結果、盗賊団に狙われるはめになった。
種明かしをされてしまうと納得はするけれど、拍子抜けした部分が大きい。
――問題は、この話を盗賊たちが信じるかどうかだ。これを私のでっち上げだと言い出さないだろうか。
その場合、グレアム様はどうなるだろう。
最悪の事態なんて恐ろしくて考えたくもない。
どうすればグレアム様を助け出せて、私たちは自由の身になれるんだろう。
黙り込んだ私をセーファス様は心配してくれているらしい。
「がっかりした?」
「そういうわけでは……」
財宝なんてないことを盗賊たちが知ったら、男爵家にしたようにこの屋敷を荒らすかもしれない。
この情報を伝えるのは危険だ。私はどうしたらいいんだろう。
私が何も考えられずに抜け殻になっていると、セーファス様は私を机から下ろした。
そして、改めて手を繋ぐ。お互いの薬指の指輪がキラリと光った。
「さあ、これからが僕にとって一番の難所だ。いつかはこれを話さなくちゃいけないのはわかっているけど。結婚前に言わなかったのがずるいっていうのも自覚している。でも、言ったら誰だって逃げるから、とても言えなくてごめん」
思わず身構えてしまうような前振りをして、セーファス様は私を食堂へと連れていった。今から何が起こるのか予測もつかないけれど、私は受け止めなくてはいけないらしい。
食堂にはカトラリーを並べるルロイと、ブラブラしているアイナがいた。
そこにリューも顔を出す。
「アイナ、ガラス玉が廊下に落ちてた」
ペンダントトップの赤い石を掲げ、リューはそれをアイナに向けて放り投げた。
あんなに堂々とガラス玉とか言わないであげてほしい。本人は値打ちがあると信じているかもしれないのに。
アイナはすかさずそれをキャッチする。見つかって感激しているというふうでもなく、淡々としているのがまたよくわからない。
「あら、ありがとう」
セーファス様と私が来たのに気づき、三人は動きを止めて顔を向けた。セーファス様はパン、と手を叩きレティスを呼ぶ。
「レティスも来てくれ。大事な話がある」
それほど声を張り上げたわけではないのに、レティスは飛んできた。大好きなセーファス様の声ならどこにいても聞こえるんだろうか。
「はぁい!」
昨日のあれはなんだったのだと言いたくなるほどの笑顔だった。
セーファス様が神妙な面持ちで一度私を見て、それから言った。
「ええと、この四人は元々使用人ではなくて、僕の友達だった」
この重たい空気をリューはまったく読まない。
「あっ、やっと奥様に話すことにしたんだ?」
アハハ、と笑っている。セーファス様は嘆息した。
「そう。普通の使用人は、僕の事情でうちには置けない。でも、僕は寂しかったから――」
「この四人を使用人にしたんですね?」
だからこの四人はまったく畏まらないし、仕事も不真面目なのだ。
けれど、話はそんなに単純なことではなかった。
「まあ、使用人ではなかったと申しますか、人ではなかったと申しますか」
ルロイが聞き捨てならないことを言った。
「えっ?」
「今だって、別に人じゃないわ」
レティスがフン、と顔を背ける。
一体、なんの話をしているのだろう。頭が痛くなってきた。
「皆、もとの姿になって見せてあげてくれ」
「そうね。その方が早いでしょうね」
アイナがそう言ったかと思うと、彼女の体がチラチラと光り始めた。私が目を擦っている間に、彼女の姿はどこかに消えてしまい、二度見した時には一羽のカラスが赤い石を咥えていた。
「…………」
その横には黒い毛足の短い大型犬がいる。ペロンと垂れた耳を揺らしているが、聡明な眼はあの執事そのものだ。
そして、まだ若い猿がその犬の背中に飛び乗る。
淡いベージュの毛並みの猫がセーファス様の足元を何度も行き来して体を擦りつけ、撫でてほしそうに催促していた。
「…………本気で?」
セーファス様はこっくりとうなずいた。
「うちの家系の特技? これがフィルビーの至宝の力だ」
「えっと……」
特技で片づけられる気がしない。信じがたいけれど、これは魔法と呼ぶべきものだろう。
魔法なんて、おとぎ話だと誰もが思っている。
古文書や歴史書にそれと仄めかすような記載があると言っても、そんな不思議な力が実在するなんて誰も信じていない。
それなのに、私の旦那様は魔法使い――らしい。
「ほ、他には何ができるのですか?」
訊ねると、セーファス様は首を傾げた。
「色々と。ひと言で言うのは難しいかな」
「これって、秘密ですよね?」
「そうだよ。陛下のお許しがないと他言してはいけないんだ。ただしメルは僕の妻だから、メルは聞く権利がある」
一国に匹敵する価値。その意味がようやくわかった。
私が呆けていると、セーファス様は悲しそうに私を見つめていた。
「怖い?」
正直なところ、わからなかった。
私たちを捕らえた盗賊たちはただの人間だけれど、私には彼らの方がずっと恐ろしかった。残酷なことを平然とやってのける。
でも、セーファス様には心があって、この力を悪い方には使わない気がした。大きな力でも、それを律することができるのなら、なんにも危なくはない。
優しい人だから、この四人――四匹もセーファス様が大好きで慕っている。
大きな力を持つが故に孤独を強いられた人。
それが私の旦那様だった。
私はストン、と膝を床に突いた。視線を合わせると、レティスが『何よ何よ!』と身構えているのがわかった。
正体を知ってみると、反抗的な態度も可愛いとしか思えない。そのフサフサした両手をつかみ、私は自分の膝の上にレティスを乗せた。
フギャー、と大騒ぎされたけれど、顎から喉にかけてマッサージするように撫でる。騒いでいたレティスは、次第に眠たそうに、うっとりとした目をして喉を鳴らし――かけたが、相手が私であることを思い出したらしい。精いっぱいの抵抗を見せて私の膝から飛び降りる。
人間の姿に戻ったレティスは、顔を真っ赤にして叫んだ。
「もう! なんなのよ! あんたになんて屈しないんだから!」
気持ちよさそうにしていたのに、素直じゃない。
「あら残念」
私が笑って答えると、今度はリューが私の膝に飛び乗ったので、今度はリューを撫でてあげる。リューは嬉しそうに私の手を受け入れていた。
猿なら木登りくらいお手の物だったなと今なら納得できる。
手を伸ばしてルロイも撫でてみる。
クールに構えているが、ちょっと照れているのがわかった。
「私、動物好きなんですよね」
セーファス様を見上げて言うと、セーファス様も私に合わせて片膝を突いた。
「僕の力のことを漏らしたくないから、使用人は雇わなかった。古参の、乳母でもあったばあやが亡くなってからは誰も。人との関りは極力減らさなくてはならなかったけど、妻になる人だけは別だ。たった一人だけはどうしても迎え入れたかった」
あんなふざけた広告に込められた願いは、私が思った以上に深刻だった。
でも、もしやってきた花嫁が私ではなくて他の誰かだったとしたら、その花嫁はこの告白を受け止められただろうか。
「結婚前に話せなくてごめん。騙すようなものだから、心苦しくはあったけど、でもわかってほしいとも願っていた」
セーファス様の目が揺れている。この人は本気で私に嫌われたくないと思っている気がした。
嫌いじゃない。むしろ――。
「その力がセーファス様を嫌う理由にはなりません」
私がこれを言った時、セーファス様の表情が光を受けたように輝いて見えた。どれくらい不安と戦っていたのかな、と思った。
「でも、セーファス様の方が私を嫌う理由はあるかもしれません」
「どうして? 僕はメルのことが好きだよ。どんどん好きになっている」
恥ずかしいことを言い出したなと思ったら、四匹はいなくなっていた。気を利かせてくれたんだろうか。
ここまで来たら、もう洗いざらい話すしかない。話せる機会は、今を逃すともうない気がした。
「私は、脅されてここへ来ました。セーファス様の花嫁になろうと思って、自分からここへ来たわけじゃないんです」
思いきってこれを言った。さすがに怒るだろうか。
セーファス様が怒ったらどうなるのだろう。さっきも少し怖かった。
でも、セーファス様が正直に話してくれたんだから、私も話すべきだ。
セーファス様はあまり驚いたふうじゃなかった。
うん、と優しくうなずく。
「最初に会った時からメルはとても思い詰めて見えたよ。だから、この子を笑顔にしたいって思った」
隠し事は苦手で、全部顔に出る私だから、セーファス様は私が何かを抱えていることはわかっていたらしい。
そこまで見通して、それで気遣っていてくれた。そのことが今になって私の胸にじんわりと染みてくる。
セーファス様は私の顔を両手ですくい上げ、自分の方へ向けた。堪えていた涙がポロリと零れる。
「さあ、僕に頼みがあるのなら言ってごらん」
優しい笑顔を浮かべている。
けれど、この人は見た目ほどに儚くも繊細でもない。強い力を持つ魔法使いだ。
私は心のままに願った。
「助けてください、セーファス様――」
あの盗賊たちに襲われた日からここへ来るまでのことを、私はすべて正直に吐き出した。
そう長い話ではないのに、これを言い終えた時には眩暈がするほどに疲れていた。体がグラリと揺れてセーファス様に寄りかかってしまうと、セーファス様は私の体を横抱きに抱え上げた。
あまりに軽々と持ち上げられて驚いたけれど、セーファス様は涼しい顔をしていた。
「疲れているみたいだから、部屋で横になった方がいい。大丈夫だよ、腕力だけで持ち上げているわけじゃないから、落とさない」
あの〈至宝〉の力を使っているのかもしれない。よく見ると、セーファス様の金色の左目がいつも以上に煌めいていた。
階段を上がりながら、セーファス様はポツリとつぶやく。
「もう、何も心配は要らない。そのグレアム少年を助けて盗賊たちを叩けばいいだけだろう?」
とても簡単に言われた。
事実、セーファス様にとっては簡単なことなんだろうか。
「グレアム様は体がご丈夫ではないので、その、あまり驚かせないで頂きたいのですが」
「気をつけよう。それにしても――」
セーファス様はそこで言葉を切る。私を抱えている腕が強張ったように感じられた。
「メルにこんな思いをさせるなんて、そいつらにはしっかりお仕置きしておかないとな」
「……そう、ですね」
お仕置きされればいいと思う。
どんな形でのお仕置きなのかはしらないけれど、多分、泣いて悪事を悔いるほどにはキツいお仕置きだろう。
笑顔でいるセーファス様がわりと怒っていると思ったのは、私の気のせいではないはずだ。
その晩もセーファス様は私を抱き締めて眠った。
私の不安を和らげるため――と本人は言ったけれど、多分違う。
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