第8話
盗賊たちが私に持たせたカバンの中に睡眠薬が入っている。
ただしそれは彼らが睡眠薬だと言い張っているだけの代物で、永眠する睡眠薬かもしれない。料理をするようになったから、食事にこの薬を混ぜる機会はいくらでもある。そうしたら、書斎へ入り込むこともできるだろう。
でも、怖くてとても使えなかった。
なるべくこれは使わずに何か手を考えなくては。
厨房へ行くと、アイナがいた。
何かおかしいと思ったら、色味がない。
いつもの赤い石のペンダントをしていなかった。
「あら? ペンダントは?」
問いかけてみると、アイナは表情ひとつ変えずに言った。
「鎖が切れてしまったみたいで、いつの間にかないんですよね」
あんなに大事にしていたペンダントを失くしたのだ。大丈夫だろうかとアイナの心配をした。
けれど、アイナは平然としている。
「大事なものでしょう? 私も一緒に探すわ」
平静を装っているだけで内心はひどいショックを受けていると思った。それなのに、アイナはけろりとしているように見える。
「あちこち動いたんで、自分でもどこで落としたかわからないんですよね。まあ、仕方ないです。諦めます」
「そ、そんな……」
あれだけの執着を見せていたのに、このあっさりとした様子はなんだろう。
「好きでしたけど、ないならまた別のものをもらいます」
「そ、それでいいの?」
「何か駄目ですか?」
アイナの黒い目が、不思議そうに私を覗き込む。
まるで私の方がおかしなことを言っているみたいだ。本当に放っておけばいいのかもしれない。
そう思いかけた時、ふと、これは使えると気づいた。
「駄目よ。一緒に探しましょう」
そうだ、アイナのペンダントを探しているという名目で書斎に入ればいい。
昨日はレティスが書斎にいたのだから、アイナだって掃除しに行くことがあったかもしれない。事実はどうでもいいけれど、私がそれを口実にあちこち探っても怪しくないはずだ。
もし見咎められても言い逃れできる。
私は心の中でアイナに感謝しながら駆け出した。
まず、いきなり書斎へ乗り込むのではなく、庭に出た。そこから回り込んで書斎のある方へと近づく。
書斎は一階にあるから、覗き込めば中が見えるはずだ。もしセーファス様がいたらタイミングをずらして入ろう。セーファス様も時には書斎の外へ出るから、その時に忍び込む。
窓の位置は高く、私が背伸びをしてやっと少しだけ見えるところだった。書斎に入ったのは、一番最初にここを訪れた日だけ。セーファス様が触らないようにと言ったガラス戸の書棚がどこだったかは覚えていない。
机の前に置かれた椅子の上には誰もいなかった。
緊張しつつも後押しする声が自分の中にある。
回り込んでホールに戻ると、そこにルロイがいた。私は気取られないように気をつけながら訊ねる。
「セーファス様は書斎かしら? あなた、知っている?」
「旦那様なら外出されました。すぐにお戻りになるはずですが」
いつの間にか出かけたらしい。それは知らなかった。
どこへ行ったのかは知らないけれど、この屋敷には馬車がないのだ。馬も飼っていない。それで最寄りの町まで行こうとすると、用事をすぐに済ませたところで一刻以上は絶対にかかる。
私は今がまたとない好機だと、飛び跳ねたいような心境だった。でも、絶対にそれを覚られてはいけない。
「そうなの。じゃあ、お帰りになってからでいいわ。ありがとう」
ルロイに向けて笑いかけると、ルロイは珍しく困ったような表情をした。
「旦那様はお寂しい方なのです。私共ではどうしても気休め程度にしかお慰めできませんから、奥様が来てくださって本当によかったと思っています。どうか、旦那様の御心をご理解して頂けますように」
どうしてこんなことを言うんだろう。
何も聞きたくないのに。
曖昧に微笑んで、私はルロイから離れた。そして、書斎へと向かう。
ドアノブに手をかけた。
ドクン、ドクン、と胸が騒ぐ。
これは裏切り行為だ。
私の夫への。
でも、私は、こうするためにここへ来た。
鍵はかかっていなかった。思いきって体を滑り込ませる。
書斎は綺麗に整っていた。出しっぱなしの本もなく、机の上のペンもインクも定位置にある。
窓から柔らかな光が差し込んでいて、ガラス戸のついた書棚を照らしていた。ガラス戸がついた棚は、書棚のほんの一角だけだった。いかにもここに大事なものが収められているという感じがする。
中には革表紙の分厚い本が何冊か。それと螺鈿細工の手文庫。もしかするとこの中に至宝が眠っているんだろうか。
私は痺れるほど緊張した指でガラス戸を開いた。その途端に鋭い声が飛ぶ。
「何をしているんだ?」
この瞬間に私はすべての希望が潰えたことを覚った。
それでも、恐ろしくて振り向けなかった。
ドアが開いた音はしなかった。セーファス様は最初からこの書斎の中にいたんだろう。ルロイに外出したと言わせたのは、そうしたら私が動き出すと読んだからかもしれない。私は罠にかかってしまった。
その場で固まっている私に、セーファス様が近づく。
「この棚には触らないようにと言ったはずだ」
明らかに声が怒っている。感情を必死で抑えようとしているのが伝わる。
怖かった。初夜の時よりもずっと。
セーファス様の手が私の手首を押さえた。
何も答えようとしない私の手首を力強く引き、机の前まで連れていく。セーファス様は机に両手を突き、私をその間に収めた。
「それで?」
金と青の両目が至近距離で私を厳しく見据えていた。私は怯えるばかりで何も言えない。
本当のことを話してしまおうか。盗賊に人質を取られて脅されていますと。
でも、それを言ってどうなるんだろう。これっぽっちもセーファス様と結婚したいなんて思ってもいなかったのにここへ来たのだと知られるだけだ。
うつむくことでその目から逃れようとした。けれど、そんな卑怯なことはさせてもらえなかった。
「この棚に触らないようにというのが僕との約束だった。君が約束を守らないのに、僕が君との約束を守らなくてはならない理由はあるかな?」
「っ!」
苛立った声と共に机の上に押しつけられた。広い机の上に倒れ込むと、足が床から浮いた。
私に覆い被さったセーファス様の長い髪が首筋を撫でた時、喉の奥から悲鳴にもならない声が漏れた。
誠実な顔は表向きだけ。本当はメイドに手をつけるような人だ。
セーファス様も私と同じくらい嘘つきだ。
本当はそのことに傷ついていた。大事に、心から愛する恋人のように扱ってくれたことを嬉しく思っていた。
レティスとの関係を知って、セーファス様が私に見せていた顔が偽りだと気づいてしまった時、私は夫婦どころか他人よりもセーファス様を遠い存在だと感じた。
私が見ていたセーファス様は幻だから。
今、私に触れているセーファス様が本物だ。
どうしようもなく悲しくて、何が悲しいのかもよくわからなくて、私はただ泣いていた。
そうしたら、セーファス様は私から体を放した。
「ごめん、ちょっと悪ふざけがすぎた」
声がいつものセーファス様に戻っていた。
机の上の私を起こし、柔らかく抱き締めて、子供をあやすようにトントンと背中を叩く。
「君は何か知りたいことがあるんだろう。でも、それは僕に直接訊ねてほしい。こっそり探るようなことはしてほしくないんだ」
私はとても話ができるような状態じゃなかった。それでも、セーファス様の声はとても傷ついていて、そんな中で私に精一杯優しくしようとしているのが伝わった。
こんなのは演技で、本当は絞め殺してやりたいと思っているかもしれないのに、私はどこかでまだセーファス様を信じたいと思っていたのかもしれない。
私は何も言葉にできない代わりにセーファス様に腕を回し、背中の辺りをギュッと握り締めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます