第5話

 目が覚めると、手が痺れていた。

 そして、セーファス様は私の寝顔を眺めてニコニコしていた。

 起き抜けにこの笑顔は刺激が強い。


「おはよう、メル」

「お、おはよう……ございます」

「目が覚めてもメルがいてくれて嬉しいよ。昨日のことが夢だったらどうしようかと思った」


 この綺麗な顔で女性を喜ばせるようなことをサラリと言える。

 それがどうして今まで結婚できなかったのか、不思議で仕方がない。やっぱり何かあると勘ぐってしまう。

 そう思うと照れる前に冷めてきた。


「じゃあ、支度をして朝食を食べようか」

「はい」


 寝室の横に化粧室がある。私はそこに閉じ籠ると、このままではいけないと改めて考えた。


 あまりに無計画すぎる。これではいつまで経っても何もつかめない。

 今に、情報はまだかと盗賊たちに催促されてしまうだろう。

 まず、どこが怪しいのか目星をつけて動かなくては。



 朝食はトーストにベーコンとゆで卵、スープと本当に簡単なものばかりだったのに、セーファス様は一切文句を言わない。ずっとこういう生活をしていたんだろう。


 窓際にいたレティスが私を見る目つきの鋭いこと――。

 この子はきっとセーファス様に恋焦がれていたんだ。そこへ私がやってきて、セーファス様の花嫁になったものだから、憎くて仕方がないというところか。


 身分にこだわらないのなら、どうしてレティスが花嫁では駄目だったのかはわからない。十分可愛らしい顔立ちをしているのに。 

 家族同然過ぎて、今更そういう目で見られなかったのかもしれない。


「おかわりもあるから。たくさん食べていいよ」


 リューは、びっくりするくらい気安く話しかけてくる。

 私に夫人としての威厳がないのはわかるけれど、一応年上なのに。


 いや、むしろ、これまでリューは誰にも敬語なんて使ったことがないような感じがする。セーファス様にさえ。

 気にするのはやめよう。


「ありがとう」


 ふわっと笑って返すと、リューも笑っていた。

 そんなやり取りを、セーファス様はやっぱりニコニコして聞いている。かと思ったら、急に真面目な顔をして言った。


「ああ、そうだ。メル、この屋敷は君の家でもあるから好きに過ごしてもらってもいいけど、僕の書斎には重要なものがあるから書斎にはなるべく入らないでくれ。特にガラス戸のついた書棚のものは触っちゃいけない。これだけは約束してほしい」


 これを聞いた時、私は自分の心音が異常なまでに大きく感じられた。


 書斎の書棚。

 そこには何かが隠されている。

 それこそが私の求める情報だ。


「わかりました」


 そう答えたものの、この時から私はどうすれば書棚に近づけるだろうかと、そればかりを考えていた。

 そんな私の心を知らず、セーファス様はうん、と穏やかに微笑んでいた。



 セーファス様は一日の大半を書斎で過ごすようだ。

 それでも、庭を散歩したり、食事を取ったり、入浴したり、まったくそこから動かないわけじゃない。その隙をついて動くのなら、四人の使用人たちの動きも把握しておかなくてはならなかった。


 まず、執事のルロイ。

 彼は物音を立てずに歩く。気づけば背後にいるなんてこともあったほどだ。

 使用人筆頭で、一番油断できない相手だと思う。


 リューは気まぐれだから、私の行動にいちいち注意を払っていない。時々、蝶々を追いかけたりしてサボっている。

 かといって、まったく意識しないわけにもいかないところだ。


 レティスは私が嫌いだから、何かあるごとに睨んでいる。私が怪しい動きをしたら真っ先にセーファス様に告げ口をするだろう。

 ちなみにレティスもサボり癖があるように見える。掃除なんていつしているのかわからない。前は日なたでうたた寝していた。


 そして、アイナは――よくわからない。

 首から提げた赤い石を手に取り、じっくり眺めてニヤニヤと笑っている場面をよく見る。あのペンダントは恋人にもらったのかもしれないが、それにしたっていつまで笑っているんだろう。とても不気味だ。

 もしあのペンダントを失くしたら発狂してしまうんじゃないだろうか。


「変わった人ばっかりね……」


 部屋で考え事をしながら思わずぼやいてしまった。

 セーファス様も変っているけれど、使用人たちも変だ。きっと、他所でクビになって流れてきたところを雇ったんだろう。セーファス様は優しすぎる。


 そんな人だから、私のことも受け入れてくれた気がするけれど。

 とりあえず、書斎にこだわりすぎず、屋敷を歩き回って中を把握しよう。いざとなったらここから逃げ出さなくてはならないのだし、覚えておいた方がいい。



 屋敷を歩くと、小塔へ続く階段が見つからなかった。いくつか鍵がかかった扉があったから、その先が階段になっているんだろう。単に危ないから普段は入れないようにしてあるのか、それとも何かが隠されているのか。


 入れないところは後回しにした。厨房や洗い場も覗いてみると、やはりアイナが仕事そっちのけでペンダントの石を眺めて笑っていた。

 まさかあの石がフィルビーの至宝ではないと思うけれど。大きさはウズラの卵ほどあっても、どう見てもガラス玉――安っぽい模造宝石だ。


 私は思いきってアイナに声をかけた。


「こんにちは」


 すると、アイナは緩慢に振り向く。


「ああ、奥様。どうされました? つまみ食いですか?」


 つまみ食い。平然と言われた。


「ち、違います。場所を覚えたくて歩いて回っているだけよ。あなたはその宝石がとっても大事みたいね」


 私がそれを言うと、アイナは宝石から手を放した。

 彼女の黒い服の上にペンダントトップがストンと落ちる。


「大事というか、好きなんですよ」


 同じことだと思うけれど。


「恋人にもらったの?」

「いえ? これは旦那様から頂きました」

「セーファス様から?」

「はい」


 こっくりとうなずく。

 あんな子供騙しのペンダントを、辺境伯のセーファス様がプレゼントしたというのが奇妙だった。


「皆、同じものを頂いたの?」

「私だけですね。皆、欲しがりませんから」


 妙に引っかかる。

 セーファス様は何を考えていたんだろう。


 それにしても、あのペンダントをとても大事にしているアイナは、送り主のセーファス様のことが大好きなんじゃなかろうか。レティスに続き、アイナまで。


 あの容姿と身分と優しさ。

 女性なら皆セーファス様に惹かれてしまうのか。


 ――それなら、私は?

 私はセーファス様のことを好きになってしまうんだろうか。


 そうはならない。なってはいけない。

 私にそんな心のゆとりはない。きっと。


 それでも、何かすっきりしない。

 モヤモヤした心境のまま、見晴らしのいい中庭ではなくて入り組んだ裏手の庭園を歩き回っていたら迷子になってしまった。


 ここは広い。生け垣も高くて道が見通せないから、闇雲に歩くとわけがわからなくなる。

 庭丁を雇っているようには見えないのに、思えばここの庭園はどうして綺麗なんだろう。それも疑問だったけれど、まずはこの迷路園から抜け出さないと。

 さすがにこんなところにいたのでは誰も見つけてくれない。


 そう思ったのに、振り返ったらルロイが涼しい顔をして立っていた。


「奥様、どうされました?」

「えっ、道に迷ってしまって。あなたが偶然通りかかってくれて助かったわ」

「通りかかったのではなく、奥様を呼びに参りました。昼食のお時間ですから」

「……よく見つけられたわね」

「そうですか?」


 ルロイは淡々と返してくる。

 生け垣に遮られて私の姿は見えなかったはず。それでもルロイは私を簡単に見つけた。もしかして、屋敷の小塔から見ていた?

 これは下手な動きをするとすぐに見つかると、そういうことだろうか。



 昼食にはペーストを塗っただけの手軽なサンドウィッチを出してくれた。ちょっとパンが乾燥してパサついている。


 それでもセーファス様は文句を言わない。

 食べ終わると、私を観察するように眺めてニコニコしていた。

 ただでさえ呑み込みにくいサンドウィッチが喉に詰まりそうだった。


 午後のティータイムを終えた後、私はまた厨房に顔を出す。


「あれぇ? 何してんの、奥様?」


 今度はリューがいた。

 人懐っこい笑みを浮かべ、何故か頭の上にリンゴが載っている。私はそのリンゴが落ちてしまわないかハラハラしながら会話を続けた。


「私、料理もできるの。晩餐の支度を手伝おうかと思って」


 リューはそんな私をおちょくるかのように頭の上のリンゴを揺らしている。でも、リンゴは上手い具合に落ちない。


「えー、いいの? 俺たち皆して料理嫌いだから助かるなぁ」


 皆して嫌いらしい。そんな気はした。


 男爵家にいた時、手が空いている時間は厨房の手伝いもしていた。料理は嫌いじゃない。


「今日は俺の番だったんだ。多分ね、それでも俺が一番上手いんだよ。一番下手なのはレティス。奥様はまだレティスの料理食べてないもんな」


 リューは私よりも少しだけ背が低い。それでも、身振り手振りが大きかった。


「セーファス様はどうして料理人を雇わないのかしら?」

「出入りする人間は増やしたくないんだ。奥様はしないからいいんだって」


 活発なリューは生き生きとしている。その元気をグレアム様に分けてあげてほしいくらいだ。

 使用人としては問題があるかもしれないけれど、どこか憎めない。


 リューは楽しそうに笑って言う。


「奥様が来てくれて旦那様が嬉しそうだから、来てくれてありがと」


 そんなことを言われるとは思わなかった。なんて返していいのか困る。


「う、うん」


 なんとなくごまかしつつ、手前にあった玉ねぎをつかんだ。リューの頭の上にはまだリンゴが載っている。

 そこで、あれ? と気づいた。


 リンゴなんて時季外れだ。あれはきっとよくできた置物なんだと。

 けれど、そんな私の考えを見透かしたみたいに、リューはニヤッと笑って頭の上のリンゴを跳ね上げると、器用にキャッチしてそれをシャツで磨いてから齧った。


「奥様も食べる?」


 もしゃもしゃ。美味しそうに食べている。


「要らない……」


 もしかすると、この地方には春に収穫できる品種のリンゴがあるのかもしれない。



 結局、春野菜と鶏肉の白ワイン蒸し、グリーンポタージュスープ、小エビのフリット、紅茶ゼリー、貯蔵室ラーダーにあった食材でそれだけ仕上げた。


 これはレティスが買い出しに行って持ち帰ったものらしい。行商人がここまで来てくれるわけではないそうだ。

 パンは焼き直したけれど、ちょっと硬い。今日は仕方ないかと諦めた。


「今日は奥様が作ってくれたから、見たことない料理だよ」


 リューはアハハと笑ってセーファス様の前に料理を並べた。


「えっ? メルが作ったのか?」


 料理は使用人の仕事で、夫人が台所仕事なんてするものじゃないと顔をしかめられるのかと思った。それが――。

 セーファス様は目に見えて嬉しそうだった。


「料理ができるんだ? メルはすごいな」

「いえ、料理人コックでもないですから、大したものでは……」


 そんなに喜ばれると、ひと口食べて落胆されるのではないかと心配になってしまった。それくらい嬉しそうに、あの不思議な目を輝かせている。


 セーファス様は私の心配をよそに、ひたすら美味しい美味しいと言っていた。

 あんまりいいものを食べてこなかったからかもしれない。


「やっぱり奥様が来てくれてよかったなぁ」


 リューがのん気に言う。レティスはフン、とそっぽを向き、アイナは無関心。ルロイはよくわからなかった。


 ただ、セーファス様があんまりにも喜ぶから、照れくさいような、なんとも言えない気分になった。

 多分、喜んでもらえて私も嬉しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る