第6話
潜入中の身で目立つことはしないと決めていた。
私はひっそりと慎ましく、淑女然としてこのお屋敷の人々に警戒されないようにしていなくては。
それなのに――。
「あ――っ! 何してるのっ!」
その日の朝から大声で叫んでしまったのは、リューが屋敷を囲む高い塀の上に座って脚をプラプラと揺らしていたせいだ。
どこから上ったのか知らないけれど、どうやっても足がかりになるところがない。
もしかして、梯子で上ったのに誰かがその梯子を気づかずに片づけてしまったのかも。
「あ、奥様。どうしたの?」
リューはどうして私が騒ぐのか理解できていないようで、きょとんとしていた。
こののん気さには呆れてしまう。
「どうしたの、じゃないわ! そんなところにいたら危ないでしょ!」
「えー? 高いところって気持ちいいよ?」
「落ちたらどうするの!」
私が一人で慌てていても、リューはまったく意に介さない。それどころか塀から手を放し、組んだ手を空に突き上げて伸びをしている。
「やめなさい、落ちるでしょ! ――もう! 梯子を探してくるから、じっとしていなさい! 絶対に動いちゃ駄目よ!」
「なんで?」
なんで、と。
この子は、人に心配をかけるという意味があまりわかっていないような気がした。
一体、どんな生い立ちや過去があってここに来たんだろう。セーファス様に出会うまで、誰かと生活したことがなかったような?
「なんでって、あなたが怪我をしたら皆が悲しむでしょう?」
「え? そう?」
「そうよ!」
「奥様も悲しいの?」
「当たり前でしょう? せっかく出会えて、これからもっと仲良くなるところなんだから。他の三人と同じように、あなたは必要な人よ。あなたはこの世にたった一人しかいないんだから」
あなたは必要だと、それは私自身が言ってほしかった言葉かもしれない。
一人でポツンと過ごしていた子供の私が。
突然やってきた私が何を言っても、リューには響かないんだろうか。
それでも私は、この子がもっと自分を大事にしてくれたらいいと願った。
「じゃあ、すぐに戻るから!」
そう言って振り向きざまに駆け出した時、私はすぐ硬い何かにぶち当たった。
そこからにゅっと手が伸びて、私の両肩を支える。それはセーファス様だった。
「い、いつからそこに?」
「うん、さっき。メルの声が聞こえたから来たんだ」
――お淑やかな花嫁の予定が、大声で叫んでいるのを聞かれたかもしれない。
まったく、リューがおかしなことをするから。
それでも、セーファス様は微笑んでいた。都合のいいものしか見聞きしない、浮ついた頭をしていてくれたらいいけれど。
「あの、梯子を……」
なんとなく目を逸らしながら言うと、塀の上からリューの姿が消えていた。
二度見して目を擦ると、塀の下にいた。
「じゃん!」
両腕を挙げてヘラッと笑ったので、ちょっとどついてやりたくなった。
いや、その前にどうやって下りたんだろう。
私の疑問に、リューは笑いながら答えをくれた。
「あっちの木を伝って上り下りするんだよ」
得意げに言いうけれど、木と塀には距離がある。
決定的瞬間を見逃してしまったが、本人が言うように木から上り下りできるらしい。
「でも、危ないからもう上っちゃ駄目よ」
セーファス様の手前、さっきよりも若干澄まして注意する。
けれど、リューはどこ吹く風だった。
「そだね」
絶対にまたやるなと思った。とんだ悪戯小僧だ。
困ったものだけれど、手のかかる弟ができたような心境だった。
元気いっぱいのリューが駆け足で去っていくと、セーファス様は私の肩を抱いたまま、しばらく目を瞑っていた。
「あの……」
「メルの声は心地いいな」
「そ、そうですか?」
「うん」
怒鳴っているところは聞かれなかったと思うことにした。
私はお淑やかな奥様なので。
◆
その日の晩――。
「今日も一日ありがとう、メル」
「いえ。おやすみなさい、セーファス様」
セーファス様はベッドの上で私の額にキスをした。
本当に大事に想ってくれているみたいに。
背中を向けると、サラリと髪を撫でられる。
「おやすみ」
――寝入ったはずが、妙に寝苦しくなって起きた。
体が重たいなと思ったら、セーファス様の腕が私に巻きついていた。ギョッとしたけれど、セーファス様は眠っているらしい。背中を向けているから顔は見えないけれど、寝息が聞こえる。
寝ているのなら、これ以上のことはされないだろう。そうは思っても、もう眠れなかった。
慣れるまで待つと言ってくれたけれど、やっぱり我慢はしているのか。
私が緊張して体を強張らせたせいか、セーファス様もハッと目を覚ました。
この体勢をとても気まずく思ったらしい。私から慌てて離れた。
「ごめん、寝ぼけた」
私がくるりと体の向きを変えたら、セーファス様が赤くなっているのが暗がりでも見えた。恥ずかしそうにうつむく。
「決してわざとじゃないんだ」
言い訳にしか聞こえないと思うのか、しょんぼりとしている。
そんなセーファス様の様子を見ていたら、少しも怒る気にはなれなかった。
「わざとだなんて思っていませんよ」
私がそれを言うと、セーファス様は恐る恐る顔を向けた。乱れた髪がほどよく隙を作っている。
驚いたような表情から、ゆっくりと笑顔になった。その笑顔がとても幸せそうに見えた。
「よかった」
ほっとしたように息をつく。自分よりもずっと大人で身分のある人なのに、何故か可愛いと思ってしまった。
だからか、私も笑った。
それでも鼓動がなかなか落ち着かなくて、やっと眠ったのはいつだったか。
そうして、小鳥の鳴き声が朝を告げる。長い夜だった。
私がうっすらとまぶたを開くと、またセーファス様の手が私に伸びた。抱き寄せられ、私はすっぽりとセーファス様の腕の中に収まる。
また寝ぼけている――のではない。
「これはわざとですね。おはようございます」
すると、セーファス様は寝ぼけているふりをやめた。何度か目を瞬く。
「バレた?」
「ええ」
けれど、嫌ではなかった。いつでも振りほどけるほどの力しか込められていない。
セーファス様はまるで悪戯を咎められた少年のような表情を見せた。
「こんな可愛くて素敵な子と結婚できたなんて、夢みたいだから。朝、本当にメルがそこにいるのか、確かめたくなっても仕方ない」
「そんなに可愛くないですよ、私は」
この綺麗すぎる顔に言われると、素直に受け入れられない。自分の顔が基準なら、私程度でセーファス様の審美眼に適うわけがなかった。女性は褒めて育てる、とそういう意味合いで言ってくれるだけだろう。
それでも、セーファス様は引かなかった。
「僕の言うことを信じていない?」
「えっ?」
「この鳶色の柔らかい髪も、新緑の瞳も、あどけなさの残る顔立ちに浮かべる落ち着いた表情も好きだ。出会えて感謝している」
「あ、ありがとうございます」
ええと、と私は言葉に詰まった。
恋愛経験のない私は、どう返していいのかわからなかった。
つまらない娘だな、と飽きられるのも時間の問題だろう。
セーファス様は私の顔を覗き込んだ。
「昨日、リューのことを一生懸命心配しているメルの声が僕にも向けられているみたいに感じられたんだ。僕はあの時、君のことを思いきり抱きしめたくなった。だから、寝ぼけたんだろうね」
この人は私以上に孤独な人だった。
それを今更ながらに思い出す。
セーファス様は幸せそうに微笑み、私の頭を撫でて先に起き上った。
「じゃあ、また後で」
――こんな人を傷つけてはいけない。
けれど、傷つけずに終われる気がしなかった。
セーファス様の心中を思うと、どうしようもなく胸が痛い。
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