第4話
辺境伯は、たった三日で結婚式の支度を調えた。
国王陛下のお許しが出たというけれど、使者が三日で王都から往復するのは無理だから、きっと伝書鳩でも使ったんだろう。
それから、誰も招待しないので段取りが早かったというのもある。
私の親族は招かなくていいと言った。盗賊が絡んでいる以上、下手に接触できないせいだ。
そういう事情から、私のドレスさえ間に合えばそれでよかった。
私は平均的な体格だから、既製品で十分合う。私を町まで連れていってドレスを合わせて、戻った途端に屋敷の中庭に神父を呼んで結婚式だ。主の結婚を使用人たちだけが見守っている。
ルロイとレティスの他にあと二人。
この屋敷の使用人はたったの四人だった。
一人はアイナという女性。
腰まであるまっすぐな黒髪は綺麗だけれど、前髪が片目にかかるほど長い。使用人ならば邪魔にならないようにしておいた方がいいと思うが、誰も注意しないらしい。
その上、魔女のような真っ黒のロングワンピース。赤い石のペンダントを大事そうに提げている。
もう一人は、リュー。
茶色短髪、ドングリ眼の少年だ。精々十四、五歳だろう。
いつも好奇心で目が煌めいている。小柄で身軽そうな印象だった。腕まくりをして襟を乱し、堅苦しいのを嫌っているように見える。
ルロイ、アイナ、リューはよくわからないけれど、レティスだけは明らかに私を敵視していた。
あからさまなレティスの視線に気づかないふりをしつつ、今日という日を迎えた。
純白のウエディングドレスとベールを身にまとう私に、辺境伯はうっとりとした表情を浮かべてみせる。
「とても綺麗だよ、メル」
辺境伯は私をそう呼ぶことにしたらしい。
「ありがとうございます、旦那様」
私を綺麗だと言ってくれるけれど、どう考えてもこの人の隣に立てるほどの美貌じゃない。花婿の方がよっぽど綺麗だ。
光沢のあるグレーのドレス・コートの胸元の白薔薇――様になりすぎている。
「名前を呼んでくれと頼んだだろう?」
そんなことを言って肩を揺らしてみせる。
私は少し躊躇い、困惑しつつ、夫となる人の名を呼ぶ。
「セーファス様」
「うん、ありがとう」
白い肌をほんのりと赤くし、嬉しそうに笑っている。
何がそんなに嬉しいのか、未だに理解できない。
こんな降って湧いた花嫁との結婚なんて、どう考えても怪しいだろうに、セーファス様はただひたすら上機嫌だった。
実際に恋焦がれた相手と、待ち望んだ結婚のようにさえ見える。
本当によくわからない人だ。
私は、そんなふうに浮かれてはいられないのに。
こうして、私たちの結婚式は恙なく執り行われ、私たちは夫婦になった。
今の私はメルディナ・フィルビー。辺境伯夫人だ。
これが現実だろうかと、誰よりも私自身が不思議に思う。
「今日は特別だから、料理人を呼んで晩餐の支度をしてもらった。メルが気に入ってくれるといいけど」
家族のいないセーファス様と同席するのは私だけ。二人だけの晩餐だ。
この屋敷には普段、料理人がいない。あの四人の使用人たちがなんとなく作っている。だから、正直に言うとあまり美味しくなかった。
今度、私が作ってみようかと思っている。
今日の晩餐は豪勢だった。ウズラのパイ包みやライスプディングに舌鼓を打つ。
美味しかったけれど素直に喜べないのは、夜が来るからだ。
初夜。
その意味を考えると、料理を味わっているどころではなくなった。
支度ができたので湯浴みを手伝うと申し出てくれたアイナに断りを入れた。
一人で入りたい、と。
猫脚のバスタブに浸かって、私は声を殺して泣いた。
相手が誰であっても、私はやっぱり泣いただろう。
結婚に気持ちが少しも伴わない。
私もグレアム様も、何も悪いことなんてしていなかった。
ただ毎日を生きていただけなのに、自由を奪われ、操り人形になってしまった。
早く糸を断ち切って、もとの自分に戻りたい。
セーファス様が優しく微笑むたび、私は心苦しくて心臓に針を刺されている気分になる。今晩起こることは、セーファス様を騙している私への罰かもしれない。
左手の薬指に嵌った指輪が、きつすぎる首輪にも等しくて、私は目を背けた。
長い湯浴みを終え、セーファス様の――いや、夫婦の寝室へと向かう。
今のところ、セーファス様は穏やかで優しい。
けれど、それが本当の顔なのかはわからなかった。
どこかで豹変する時が来るのかもしれない。
お互いのことをほとんど知らず、接した時間も少ないのだから、あれがすべてだとは言えなかった。
ベッドの上でも優しいのかどうかはわからない。
私は震える手で扉を叩き、ドアノブを捻った。
天蓋のついた広いベッドの縁に腰かけていたセーファス様は、私に向けて微笑む。
私が微笑み返す余裕はまったくなかったけれど。
アッシュローズのガウンを羽織っていて、いつも束ねている髪が肩に流れていた。
今のセーファス様を直視しづらいのは、ガウンの合わせ目から肌が見えるせいだ。
私は一歩、また一歩とぎこちなくセーファス様に近づいていく。
セーファス様は立ち上がり、私を抱き締めて口づける。
結婚式で初めてで、今で二回目。とてもぎこちない。
そのうちに自然に受け入れられるようになるだろうか。
唇を離すと、セーファス様は私の耳元でささやく。
「怖い?」
口づけに応えることなく震えている私に呆れただろうか。自分から飛び込んできたくせに、と。
本当は、声が出ないほど怯えている。嘘で塗り固めた私だから、余計に。
それでも私は小さく首を振った。
「そう」
セーファス様は短く言うと、私の手を引いてベッドに倒れ込んだ。けれど、それだけだった。
「じゃあ、おやすみ、メル」
「えっ?」
思わず私の方が戸惑ってしまった。
セーファス様は横になったままで笑っている。
「僕は君に嫌われたくないんだよ。だって、まだ好きになってもらえていないのはわかっているから」
「そ、そんなこと……」
「いろんな事情があってここへ来たんだと思う。それでも、僕はメルが来てくれて嬉しい。これは本心だ。だから、僕は君が慣れるまでもう少し待ってもいい」
そんなことを言ってもらえるとは思わなかった。涙が滲んでしまいそうになる。
「どうしてそんなに優しいことを言ってくれるんですか?」
思わず問いかけると、セーファス様は本当に幸せそうに笑った。私の手をギュッと握り締める。
「君が来てくれて嬉しいからだと言っただろう?」
何も知らないから、セーファス様は私を美化している気がした。
だとしても、セーファス様の申し出は、私にとってありがたいものだった。ほっとしたのも事実だ。
「ありがとう、ございます」
涙を隠しながら言うと、セーファス様がうなずいたのがわかった。
「今日は手を繋いで寝よう。おやすみ」
そうして、セーファス様は本当に眠ってしまった。
私の隣で規則正しい寝息を立てている。
その寝顔を暗がりの中でじっと見た。両目が閉じられていると余計に繊細で儚く、男性なのに私の方が護ってあげなくてはならないという気分にすらなる。
けれど、手は大きくて力強い。私は自分の手を引き抜くことができなかった。
貞操は護られたが、よく考えてみると、夜中に屋敷を探索するのは不可能ということだ。まさかとは思うけれど、セーファス様がわかっていてやっていたらどうしようか。
フィルビーの至宝とはなんだろう。
セーファス様やルロイたちがそれらしいものの話をしたり、身に着けていたりしたことはない。
まだ始まったばかりだけれど、順調とは言い難かった。
どうかグレアム様が無事でありますように。
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