自由律廃狗

志村麦穂

自由律廃狗

 廃都には菌酸の混じった雨が降る。垂れこめる鈍色の曇が電磁波をかく乱させる。

この街は汚染により放棄された帝国の旧都心区画。ここまでは帝国の監視の目は届かない。磁場の乱れはナノクラスの寄生型ドローンや浮遊虫の活動を許さない。そして、菌酸による腐食の拡大が、帝国の保持する機装化歩兵及び、自律機人の侵入を拒む。菌酸は旧時代の生化学兵器で、先の大戦時に帝都で反体制派によりばら撒かれたもの。菌酸は金属やセラミックを好んで分解し熱量に変換する細菌であり、特殊な遺伝子操作によって適合環境下においては短時間で爆発的に増殖する。機装化歩兵への唯一にして最大の対抗手段であった。廃都には新陳代謝を行う生物でなければ入ることができない。

 帝国の支配が及ばぬ廃都に集うのは、行き場を失った浮浪者ばかりではない。反体制派や犯罪組織が巣食い、隣国の軍事機関の根が張る。ならず者、賤民、変異体、それに灰人。

 およそ真っ当なひとの生きる街ではない。営みは腐敗していく、渾沌の坩堝。誰もが膿み爛れることを待ち望んでいる。そのような街の、片隅であった。

 多層炭素のトタン板に囲まれた廃屋とバラックの裾野を抜けると、建て増しと補修を繰り返す度に奇怪に膨れ上がる高層ビル群『シンジュク』が互いに絡み合いながら生えている。老朽化と菌酸の侵蝕で溶け出した鉄筋コンクリートが灰褐色の汚泥となって低地に堆積する様は、ビル群の排泄物をみるものに思わせる。

 『シンジュク』は人間を細胞内の共生者として住まわせる、ひとつの巨大な生物群体といって差し支えない。部屋セルで構成される建物は、菌酸による老化に対し、人間の手による補修――細胞の更新という新陳代謝を繰り返す。死んではまた生まれ変わり、その度に成長する。迷宮と化した石筍群の全容を知る者は、帝国は無論、廃都にもあっとてただのひとりも存在しない。

 シンジュク迷区の端境、紫煙の指先が誘う先。肩幅を通さない、路とも呼べぬ補修の切れ目を縫って分け入った奥地。紅い倒福が吊るされた店先が迎える。照り焼きされたような黒肌の老店主が、大戦以前は口にもされなかった狗肉を捌く。皮を剥がれた頸のない四足の食欲。四肢の関節に刃を噛ませ、背側にひねって折り取る。廃都では肥育された家畜の肉は手に入らない。廃棄物や死骸に集るカラスの肉か、野生化した飼い犬を捕まえるか、あるいは人の。食料事情からして狗肉は食べられるうちでは上等の部類だった。

 鍋子に火が入った。玉杓子で油を回し、捌きたての肉が踊る。脂が爆ぜ、蒸気と立ち昇り天井を黄ばませていた。肉の火入れが終わり、狗の油が鉄に馴染むと一旦肉は取り上げられる。山鳩の溶き卵、細切りの筍、きくらげ、玉ねぎが投入され鍋で廻る。鉄のぶつかり合い、はみ出した火力が油に引火し壁を舐める。調味料が杓子ですくい上げられ、具材に衣裳を纏わせる。狗が待ちきれずに飛び込み、最後に赤く熟れた番茄トマトが軽く付き合わされる。

 出来上がった番茄炒蛋を皿へとぞんざいに打ち明けた。老店主はその皿を奥へ、湯気を従わせながら運んでいく。黒ずみ、湿気でたわんだ壁板の廊下を抜けて、タイル張りの個室へ。窓も出口もない行き止まりの部屋は仄暗く、赤錆びた安全光が満たしていた。老店主は皿を使用済みの器具が置かれた器械台へと乗せた。押しのけられた鋏や小刀は赤色光の元で、その切っ先を暗く濡らしていた。ストレッチャーの上には布を被せられた人間が寝かされている。

 老店主は皺がれた手で煙草に火を灯す。老いた体には皮が張りつき、後ろに撫でつけた髪は地肌が透けて見える。吐き出された煙は、逃げ場を失くして室内に充満する。

 老店主は深く肺に痛みを吸い込むと、親し気な言葉を送り出した。

「死体の振りはナンセンスだ、トニー。屍は二度死なず。告げ口をする手癖の悪い虫は、宿主が息絶えたことで役割を終えた、そうだろう?」

「華僑ってのは、いつからブードゥーの真似事を始めたんだ。俺は仕事をしくじって、ある意味やり遂げて、派手に臓物をぶちまけた記憶があるんだが。あれは痛かった。まさか、工作機に突き落とされるとは。B級アクションなら端役の立ち回りだ。それともなにか、痛みも、スリリングな仕事内容も、麻薬がみせた幻だったのか? 教えてくれ、蘆人ロジン

 ストレッチャーに寝かされていた男は、上半身を起こして老店主と向かい合った。腹には鈍色の針が並んでいる。ステイプラで縫合された傷跡は、腹直を断裂していた。腹には雨漏りを防ぐ覆いのように皮が継いであり、くすんだ色の皮膚は人皮ではなく狗の皮を鞣したものだった。生前は筋骨たくましい青年だった身体を、無残に作り替えてしまっていた。

 その脊にはカーボンフレームで覆われた人工脊椎が張り出している。それは帝国の保有する機装化歩兵の基礎骨子構造の特徴だった。人工脊椎は運動性能の補助だけではなく、脳機能のバックアップの役割も果たす。しかし、現在、起動に伴う熱排気と青い燐光は沈黙していた。

僵尸キョンシーだ、アフリカの黒魔術と一緒にしないでもらいたい。それに呪いの類いではなく再現医療だ」

 蘆人と呼ばれた老店主は番茄炒蛋に箸を伸ばす。曖昧に咀嚼して、老酒で流し込む。

「医療なんて上等なもんかね……オヤジ、俺にも老酒一杯」

「悪いがあまり時間がない。もう身体は十全に動くか? 道具は用意してある」

「仕事か。あんま寒いとノらねぇなぁ」

 トニーは自身の脇に置かれていた拳銃を手に取る。握り直して自らの形に馴染むのを確認する。身体の延伸のように、視線と肩口、肘と照星を一本に直列させた。

「コルトSAA、まだ生きていたか。菌酸で腐りきったものだと思っていたが。機械管制は精度に信頼があっても汎用性に欠けるから、コイツだ」

「腕頼みのところは機装化しても、ついに治らなかったな」

「菌酸の雨に、磁気嵐、EMP、観測欺瞞、イマジンチャフ……電子戦は対抗策も用意されやすい。考えすぎてんのさ。最期は単純明快シンプルな方が生き残る」

「それは死の間際も同じか」

 トニーは赤色光を吸い込む銃身を回転させ、腰に回す仕草を空振り、思い直して寝台に横たえた。

「気の多い奴は死ぬ。気のいい奴も死ぬ。色気を出しちゃいけねぇのさ」

「お前はなぜ死んだ、トニー」

「浮気野郎の末路なんか決まってる。背中から撃たれて終わりだ。お前もよく知っているだろう。気の抜けてる奴は特別死にやすい」

「違うな。ひとは果たすべき使命、死ぬべきときが定まっている。お前はまだその時ではない」

「天命か。そんなものはない、人間は放っておいても勝手に死ぬ。生死に価値や意味を見いだしたくなる感情は理解できる。ロマンチストなんだな、気が合わない連中だ。ジャンクフードを憎んでいやがる奴らだ」

「ファスト品は調和を知らん。重ねがけしていけば旨くなると勘違いしている。駆け引きを知らぬから、雑味が抜けないのだ」

 蘆人は食べ終えた皿に箸を重ねる。

「それで? 誰を殺る。なにを壊す」

「お前は必ず仕事を受ける、それこそ天命だ。心配せずとも気に入るはずだ」

 蘆人はトニーの足元にホルスターを投げて寄越した。そして、色柄の悪いシャツの裾をめくり上げる。腰に吊されたホルスター、使い込まれた一丁の自動式拳銃。菌酸の腐食に強い、強化プラスチックフレームのG19。

「馬鹿だな。子供の喧嘩じゃねぇんだぜ」

 トニーはぎこちない仕草で立ち上がり、硬直をほぐすように関節を回しながらホルスターを拾い上げた。

「いいぜ、やろう」

 両者は立ち上がり、向かい合って身構える。彼我の距離は十歩と離れていない。銃口を向ければ外すことは難しい。決着は構える速度で決まる。撃鉄を起こす必要のない自動拳銃の分、蘆人の方が撃ち出しには有利だ。それを差し引いても早打ち芸を持ち合わせるトニーと五分の勝負だといえた。

「前々から思ってたんだよな、狗食うやつは気に食わねぇってな。奴らは俺たち走狗の身内みたいなもんだからな」

「お前の食っていたバーガーのパテ。あれは狗肉と大豆の合挽だ。気付きもしねぇとは、情のない仲間もいたもんだ」

「……頭に来たぜ」

 蘆人はグラスを乾かすと、トニーに対して掲げてみせた。放り投げられたグラスが緩やかに上昇して、重力に捕まり落下する。

 グラスの底が床に接触、亀裂が伝播し砕けるよりはやく二人が抜き放つ。澄んだグラスの破砕と硬さの異なるふたつの銃声が和音を響かせた。反響が部屋から消え去るまで、世界は凍りつき、ふたつの彫像は眉ひとつ動かさない。赤い静止世界に暗い染みが広がる。蘆人が膝を震わし、やがて限界を迎えて崩れ落ちた。彼は咳込み、喀血を繰り返した。

「死後硬直が抜けきっていないせいで狙いが狂った。けどな、肺を撃ち抜いた覚えはないぞ」

 蘆人の腹に開いた穴からとめどなく血が吐き出され続ける。ふたつの弾丸は射線上でぶつかり合い、一方を弾き飛ばしてひとつの不可逆の結論を導いた。

「時間がない、ね……これがあんたの天命か?」

 蘆人にはもはや言葉を吐き出す力は残されていなかった。

「老いたな、蘆人。俺を再現するのに何年かかった? せめて、相打ちに持ち込むぐらいの体力は残しておけよ」

 トニーは床に落ちていた煙草の燃えさしを拾い上げる。短くなってしまった燃え殻を咥えて、蘆人が吸い残した分の煙を肺に送り込んだ。

「首輪を外してくれて助かる。これでまた、気楽な野良に戻れた」

 トニーはかつて狼と呼ばれていた自身を思い起こした。帝国領内を荒らして回った、若き日の記憶。傍らには蘆人の姿もあって、しかし、昔日の面影は煙に溶けて消えていく。

 人工脊柱の改修が完全でなかったことが、記憶の欠損と失われ続ける過去によって証明される。蘆人は医者ではあっても技術者ではなかった。人工脊椎に組み込まれた枷が失われる、それはシステムの根幹が失われることを意味していた。足抜けに対する一種のセーフティであり、帝国の機密保持機構の一環だった。

 トニーは次第にぼやけていく認識を抱え、誰かも忘れてしまった死体の前で酒瓶を傾けた。

 そして完全な抹消が終わった彼は、まっさらになった身体を持て余し立ち上がる。出口を目指して進み出したその足で、彼にとって誰でもなくなった死体を踏みつけ、二度と顧みることはなかった。

 狗は過去の鎖の、すべてを捨て去って、野に解き放たれた。

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